第10話:泥の暗闇と、届かぬ救いの手
ドブの冷たい水が、膝の高さまで溜まっていた。
泥とドブの腐臭、そして硝煙の混ざり合った吐き気を催す臭気が、狭い暗渠の中に充満している。上空をジェット戦闘機が通過するたびに、頭上のコンクリートが激しく振動し、泥水が頭からボタボタと降り注いだ。
「レイラ……レイラ……」
暗闇の中、母さんが震える声で私の名前を呼び、凍えきった私の身体を両腕でしっかりと抱き寄せてくれた。母さんの全身は小刻みに揺れ、ガチガチと歯の鳴る音が聞こえる。
「大丈夫だよ、お母さん……私、ここにいるよ」
私は母さんの背中に手を回し、小さく頷いた。
前世の大人としての思考が、頭の片隅で冷酷に状況を計算し続けている。
(下水網を通って街の南側……旧市街の反対側へ抜けられれば、反体制派の警戒線を突破できるかもしれない。だが、この暗闇の中で迷ったら命取りだ。それに、母さんの体力が保たない……)
母さんの体温が、みるみる奪われていくのが手に取るように分かった。濡れた服が冷気を吸い、身を刺すような寒さが八歳の幼い体にも容赦なく襲いかかってくる。
「レイラ……怪我は、痛くない……?」
母さんが掠れた声で私の頬を撫でた。
切り傷にドブ水が沁みて激痛が走っていたが、私は首を振った。
「痛くないよ。お母さんこそ、足を痛めてない?」
「大丈夫……大丈夫よ……。神様が、きっと私たちを守ってくださるわ……」
母さんは必死に祈りを捧げていた。
けれど、前世の知識を持つ私には分かっていた。この街で今起きているのは、神の加護など一切届かない、人間の欲望と憎悪が渦巻く無差別の殺戮だ。
暗闇の中、母さんは震える手で胸元を探り、一粒の乾いたナツメヤシを取り出した。
「ほら、レイラ。これをお食べなさい。少しは元気が出るわ」
「ううん、お母さんが食べて。お母さん、顔が真っ白だよ」
「いいのよ……お母さんはお腹が空いていないから。さあ、口を開けて」
無理やり手に握らされたナツメヤシ。かじりつくと、泥の臭いの中にほんのりと甘みが広がった。母さんは私に食事を与えることで、自分の恐怖を紛らわせようとしているのだ。その健気で歪な愛情が、私の幼い胸を鋭く締め付けた。
どれほどの時間が経っただろうか。
暗渠の出口と思われる微かな光が見えてきた。頭上の爆音が少し遠のき、代わりに遠くで車輪が軋む音や、大勢の人の騒がしい声が聞こえてくる。
「お母さん、出口だよ。ゆっくり登ろう」
私たちは崩れた排水口の網を押し広げ、泥まみれになりながら地上へと這い出た。
そこは、アレッポ郊外へ続く幹線道路の脇だった。
路上には、国連や支援団体のマークがついた大型トラックと、それに群がる何百人もの避難民の姿があった。
「支援物資だ! 避難用のバスが来るぞ!」
「押すな! 順番を守れ!」
ボランティアと思われる人々が必死に叫んでいるが、パニックに陥った群衆は我先にとトラックへ押し寄せていた。
「レイラ、見て……! 支援の人たちよ! 助かったわ……!」
母さんの瞳に、久しぶりに生気が戻った。母さんは私を抱きかかえるようにして、人々の群れの中へと飛び込んで行った。
「すみません! 子供がいます! 水を、温かい服をください!」
母さんが必死に手を挙げ、トラックの荷台にいるボランティアの男性に叫んだ。
男性が一瞬、泥まみれの私たちに気づき、手を伸ばしかけた——その時だった。
ヒュゥゥゥゥゥ——ッ。
空を切り裂く、あの嫌な金属音が鼓膜を刺した。
(——迫撃砲!? まずい、着弾する!!)
前世の記憶が警報を鳴らした瞬間、視界のすべてが眩惑的な真っ白な光に包まれた。
ズガァァァァァンッ!!!
耳を破らんばかりの衝撃波が吹き荒れ、トラックが爆発炎上する。
吹き飛ばされた人々の悲鳴と、肉が焼ける嫌な匂い。弾け飛んだ破片が、容赦なく群衆を切り刻んだ。
「きゃあああああっ!!」
私は母さんともども吹き飛ばされ、道路の脇の粘土の壁に強く打ちつけられた。
「カハッ……! ゲホッ……!」
視界が赤く染まる。激しい耳鳴りで、周りの音が遠のいていく。
前世の知識なんて、何の役にも立たない。圧倒的な暴力の前では、大人の知恵も、生存戦略も、ただの無力な戯れ言に過ぎなかった。
「お……母さん……っ!」
私は痛む身体を引きずり、泥の上に倒れている母さんへ這い寄った。
「お母さん! 起きて! お母さんっ!!」
母さんは動かない。
その胸元には、黒く焼け焦げた服と、溢れ出す鮮血が広がっていた。
「嫌……嫌だよお母さん! 目を開けてよ!!」
母さんの手を握りしめる。あんなに温かかった手が、信じられないほどの速さで冷たくなっていく。血の海の中で、母さんの瞳は光を失い、空虚に空を見つめていた。
「お父さんが帰ってくるんでしょ!? 三人でピクニックに行く約束でしょ!? お母さんっ!!」
泣き叫んでも、母さんは二度と微笑んでくれない。
私を愛し、守り続けてくれた私の世界のすべてが、冷たい泥の上で息絶えていた。
(嘘だろ……嘘だと言ってくれよ……!)
前世の男の意識も、幼い少女の心も、等しく絶望の底へと叩き落とされた。
守りたかった。大人の知恵を使ってでも、この手で絶対に守り抜きたかった。それなのに、私に残されたのは、冷たくなった母さんの骸と、遠くで迫ってくる敵の足音だけだった。
「おい、こっちにガキが生き残ってるぞ!」
黒い覆面をした男たちが、血みどろの路上へと足を踏み入れてくる。
その手には、冷酷な鉄の銃が握られていた。
母さんの死体の上で、私は言葉を失い、ただ激しく打ち震えていた。




