第11話:血のぬくもりと、冷たい鉄
喉の奥が引きつり、声が出なかった。
ただ、荒い息が浅く漏れるだけ。叫ぶことすら忘れ、私は血の海に倒れる母さんの体に突っ伏していた。あんなに温かかった手が、冷たい泥の冷気を吸って、信じられない速さで冷たくなっていく。
(嫌だ……嫌だ……お母さん、目を開けてよ……)
声にならない悲鳴が、胸の中で何度も空しく弾けた。
頭の中の「大人の男」も、私の中の「幼いレイラ」も、等しく絶望の闇に押しつぶされていた。生存戦略も、知識も、何もかもが打ち砕かれ、ただの抜け殻のような少女として、死にゆく母の胸に頬を押し当てることしかできない。
「おい、死体にしがみついてるガキがいるぞ」
ドカドカと泥を踏みつける粗暴な靴音が近づいてくる。
視線を上げると、黒い覆面を巻いた男たちが三人、AK-47の銃口を私に向けて立っていた。男たちの服には返り血がつき、瞳は殺戮の興奮で濁りきっている。
「邪魔だ、撃ち殺せ。弾の無駄なら頭を殴れ」
ひとりの男が嘲笑いながら、重い銃床を振り上げた。
死が、容赦なく私の頭上へ振り下ろされようとしている。
——その瞬間だった。
(……あ?)
冷え切った母さんの肌の感触が、私の頬に触れていた。
私を愛し、守り、最期まで抱きしめてくれた母さん。その母さんを殺した奴らが、今度は私を泥のように踏みにじろうとしている。
絶望で凍りついていた胸の底から、言葉にならない、ド黒く熱い「何か」が爆発するように込み上げてきた。
「……あ……あああああああああっ!!」
失われていた声が、痛みを伴って喉を突き破った。
声にならない叫びではなく、獣のような、狂気に満ちた咆哮。
私は幼い体のすべての筋力を振り絞り、泥を蹴って跳ね起きた。
「なっ……!?」
男が驚いた瞬間、私は地面に転がっていた鋭いコンクリートの破片を拾い上げた。振り下ろされた銃床を寸前でかわすと、男の泥だらけの靴の上から、足甲へ全力でその破片を突き刺した。
「グアぁぁっ! このガキがぁっ!」
男が激痛に悶絶し、体勢を崩す。
前世の知識——「大人は子供を完全に油断している。不意打ちなら、一瞬の隙を作れる」。冷徹な生存戦略が、絶望に狂いそうな私の体を勝手に動かしていた。
「レイラっ! 走れぇぇっ!!」
母さんの幻聴が、耳元で叫んだ気がした。
私は男の足元をすり抜け、瓦礫の山へと死に物狂いで飛び込んだ。
「撃て! あのガキを殺せ!!」
背後で怒号が響き、直後に「バババババン!」と激しい銃撃が降り注ぐ。
耳元をかすめる弾丸の風。崩れたコンクリートの粉塵が全身を叩く。私は後ろを一度も振り返らなかった。振り返れば、母さんの冷たくなった姿を見て、足が止まってしまうから。
「ハッ、ハッ、ハッ……っ!」
裸足の足裏はガラスと破片でズタズタになり、どこを走っているかも分からない。
泥と血と涙で視界は真っ赤に染まっていた。
(お母さん……ごめんね、ごめんなさい……っ! 一人にしてごめんなさい……!)
大人の知恵なんて、何の役にも立たなかった。
前世の知識があっても、私はお母さん一人救えなかった。ただの無力な、惨めな、小さな子供だ。
どれほど走り続けたろうか。
爆音が遠のき、静まり返った崩壊した路地の陰で、私はついに力尽きて泥の上に倒れ込んだ。
全身の傷が激しく痛み、冷え切った体がガタガタと震える。
見上げると、真っ黒な煙の隙間から、血のように赤い夕空が覗いていた。
(お父さん……助けてよ……お母さんが……お母さんが死んじゃったよ……)
胸の中で溢れる涙。
温かいムサッカの匂いも、アブドゥラおじさんの甘いパンも、三人で見るはずだった日本の桜も。
私の大好きな世界は、すべて灰になって消えた。
冷たい泥に頬を押し付けながら、私は血に染まった自分の小さな手を見つめた。
母さんの温かい血が、まだ爪の間に残っている。
「……殺す」
小さな口から、掠れた声がこぼれ落ちた。
「私から……お母さんを奪った奴らを……絶対……許さない……」
少女の瞳から涙が枯れ、その奥に、前世の男の冷酷さと、遺された少女の底なしの情念が混ざり合った、暗く昏い炎が灯った。
甘えん坊だった少女レイラは、この日、アレッポの瓦礫の下で死んだ。
生き残ったのは、母の血を纏い、戦火を這いずる一匹の「生存者」だけだった。




