第6話:灰色の記憶と、砕け散る日常
その夜、私はまた「あの夢」を見ていた。
いつもよりずっと鮮明で、まるで自分自身の肌で感じているかのようなリアルな夢だった。
夢の中の私は、冷たい雨が降る夜の街を歩いていた。
濡れたアスファルトに反射する赤や青のネオンサイン。灰色のスーツは雨を含んで重く、手に持った革の鞄がずっしりと腕に食い込んでいる。
(……今日も終わらなかったな)
夢の中の「私」は、深く長い溜め息をついた。
会社でのトラブル、終わらない残業、終電に滑り込む疲弊した体。居酒屋の喧騒を通り抜け、一人きりの狭いアパートへ帰る途中だ。コンビニで買った冷めたお弁当と、缶ビール。
(何のために働いているんだろう。誰のために生きているんだろう)
その大人——前世の「私」は、虚しさに胸を苛まれていた。温かい家族もおらず、守るべき存在もなく、ただ今日という日を生き延びるためだけに、灰色の街で息をしている。孤独で、寂しくて、凍えそうな日常。
——けれど、ふと画面の向こう、スマートフォンの画面に映る「遠い国の子供たちのニュース」が目に留まる。
『中東情勢の緊迫化……シリアで緊張が高まる……』
画面の中の小さな女の子が、泥に汚れながらカメラを見つめていた。
夢の中の「私」は、そのニュースを見つめながら、漠然とこう思ったのだ。
(世界には、明日生きているかも分からない子供たちがいる。それに比べて、俺の悩みなんてなんて贅沢なんだろう。……もし生まれ変われるなら、誰かを命がけで愛せるような、誰かに必要とされるような、そんな温かい人生を送りたい——)
「……レイラ? レイラ、大丈夫?」
ハッと息を呑んで目を覚ますと、そこはいつもの我が家のベッドだった。
窓からは柔らかい朝の光が差し込み、目の前には心配そうに私の顔を覗き込む、母さんの愛おしい顔があった。
「あ……お母さん……」
夢の余韻で、胸がキュッと締め付けられるように痛む。
前世の自分が切望していた「温かい世界」が、今、目の前にある。私を命がけで愛してくれるお母さんと、遠い国から愛を注いでくれるお父さん。
(やっぱり、あの夢はただの幻だ。私はいま、こんなにも幸せなんだもん)
「ううん、なんでもないの! すごく良い夢を見てただけ!」
私は母さんの首に抱きつき、そのぬくもりを全身で確かめた。母さんは「あらあら、甘えん坊さんね」と可笑しそうに笑い、私の背中を優しく叩いてくれた。
朝食には、昨日の残りのホブズと、オリーブオイルをたっぷりかけたチーズ、それから温かいハーブティーが並んだ。
「レイラ、今日はお家でお絵描きをしていましょうね。お母さん、お買い物の前に少し近所のおばさんたちと話してくるわ」
「うん! お父さんに届けるサクラの絵を完成させるね!」
私は色鉛筆を握りしめ、一生懸命に紙に向かった。
日本の桜の花びら。その下に並ぶ、お父さんと、お母さんと、私。三人が手をつないで笑っている、未来の幸福な絵だ。
——その時だった。
空を切り裂くような、聞いたこともない惨憺たる爆音が街中に轟いた。
ヒュゥゥゥゥゥ——ッ!!
「え……?」
手からピンク色の色鉛筆が滑り落ちる。
直後、空腹の腹を殴られたような猛烈な衝撃波が、我が家を襲った。
ズガァァァァァンッ!!!
「きゃああああああっ!?」
バリバリと音を立ててテラスのガラス窓が粉々に吹き飛び、無数の破片が室内へ降り注ぐ。粘土の壁が崩れ、白い土埃が部屋中に立ち込めた。激しい振動で、私が描いていた家族の絵が真っ二つに破れて舞い上がる。
「レイラっ!!」
表から母さんの悲痛な叫び声が聞こえた。
母さんは買い物袋を放り出し、土埃の舞う部屋へ飛び込んでくると、私の上に覆いかぶさるようにして抱きすくめた。
「お母さん! お母さん! こわい! こわいよぁっ!」
「大丈夫よ! 大丈夫、レイラ! お母さんがここにいるわ!」
母さんの体は激しく震えていた。
外からは、人々の絶叫、建物の崩落音、そして「パンパンパンパン!」という不気味で連続的な破裂音が響き渡っている。
あのバザールも、アブドゥラおじさんのパン屋も、オリーブの丘も。
私たちが愛したアレッポの穏やかな日常が、たった一瞬の爆撃によって、真っ黒な煙と悲鳴の渦へと飲み込まれていく。
夢の中の「冷たく寂しい世界」なんて、比べものにならない。
本当の地獄が、ついに私たちの扉を叩き割ったのだ。




