第5話:遠い砲声と、母のぬくもり
季節が秋から冬へと移り変わり、シリアの風は刺すような冷たさを帯びるようになっていた。
あのバザールでの重苦しい空気から数週間。街の表面的な平和は、まるで薄氷を踏むかのように保たれていた。それでも、人々の会話からは少しずつ笑顔が減り、夕方になると街から人の姿が急速に消えるようになっていた。
お父さんからの手紙の頻度も、少しずつ減っていた。
日本のテレビや新聞でもシリアの政情不安が報じられているらしく、送られてくる便りには、今まで以上に切々とした心配の言葉が並んでいた。
『ファティマ、レイラ、無事かい? 日本のニュースで現地の混乱を知り、生きた心地がしない。外務省からの渡航中止勧告が出てしまい、すぐにアレッポへ飛ぶことができないんだ。どうか無理な出歩きは控え、安全第一で過ごしてくれ。近いうちに必ず二人を日本へ避難させる手続きを取るから』
手紙を読む母さんの指先は、かすかに震えていた。
それでも、私が不安そうに顔を覗き込むと、母さんはすぐにいつもの愛おしい笑顔を浮かべ、手紙を胸に抱きしめた。
「大丈夫よ、レイラ。お父さんは私たちのために一生懸命働いてくれているわ。日本への避難の手続きが済んだら、みんなで安全な場所へ行けるのよ」
「日本……? お父さんの生まれた国へ行くの?」
「ええ。そこには綺麗な桜が咲いていて、争いなんてひとつもないんですって。お父さんが言っていたわ。レイラに、日本の美味しいお菓子をたくさん食べさせてあげたいって」
「わあ……! 日本に行ってみたい! お父さんと、お母さんと、三人で!」
私がはしゃぐと、母さんは優しく私の頬を撫でてくれた。
その手は以前よりも少し痩せてしまった気がして、胸がキュッと締め付けられる。
その日の午後、私は母さんと一緒に、家から少し離れたオリーブの丘へ出かけた。
ここは街の全景が見渡せる小さな高台で、お父さんがアレッポにいた頃、週末によく三人でピクニックに来ていた思い出の場所だった。
「見て、レイラ。お父さんと植えたオリーブの木よ。今年も青い実がたくさんなっているわ」
「本当だ! お母さん、これでおいしいオリーブオイルが作れるね!」
乾いた風が吹き抜け、オリーブの銀色の葉が一斉にさやさやと音を立てる。
眼下に広がるアレッポの街並みは、午後の柔らかい光を浴びて、まるで何事もないかのように静まり返っていた。古い石造りの屋根、幾重にも重なる路地、遠くに見えるモスクのミナレット。
私は根元に腰を下ろし、母さんの膝の上に頭を乗せた。
母さんは私の髪にやさしく指を通し、子守歌のような甘い声でシリアの古い民謡を歌ってくれた。
「……ねえ、お母さん」
「なぁに、レイラ?」
「私、時々こわくなるの。街のおじさんたちが難しい顔をしてたり、夜になると遠くで変な音がしたりするから……」
母さんの歌声が途切り、私の髪を撫でる手がピタリと止まった。
母さんは私を抱き起こすと、私の真ん丸な目をじっと見つめ返した。その瞳には、深い愛と、母親としての強い決意が宿っていた。
「レイラ、よくお聞き。何があっても、お母さんがあなたを守るわ。世界中の誰もがあなたを脅かそうとしても、お母さんだけは絶対にあなたを放さない。お父さんが帰ってくるまで、ううん、あなたが素敵なお姉さんになるまで、ずっと一緒よ」
「お母さん……」
「だから、何も恐がらなくていいの。あなたは私の自慢の、世界で一番可愛い女の子なんだから」
そう言って、母さんは私の額に、深く、長くキスの痕を残してくれた。
温かい唇の感触と、母さんの体温。それが私の不安をきれいに拭い去ってくれた。
(そうだよ。お母さんがついてる。私には、こんなに優しいお母さんがいるんだもん)
胸の奥にある「日本の大人の男」の記憶が、一瞬だけ重く沈み込むような感覚があった。
その男は知っているのだ。理不尽な暴力が、どれほど簡単に人間のささやかな幸せを踏みにじるかを。世界がいかに冷酷で、個人の力などどれほど無力かを。
けれど、私はその記憶を強く拒絶した。
いらない。そんな冷たくて悲しい知識なんて、今の私には必要ない。私はお母さんの腕の中で笑う、ただの八歳の少女でいたかった。
丘からの帰り道、夕暮れのバザールに立ち寄った。
いつもなら香辛料や焼きたてのパンの匂いでいっぱいの市場は、今日はどこか異様な静けさに包まれていた。シャッターを下ろしている店が多く、開いている店も品薄状態だった。
「やあ……ファティマさん、レイラちゃん」
パン屋のアブドゥラおじさんが、やつれた顔で店の中から出てきた。
いつも着ている真っ白なエプロンは汚れ、自慢の髭もどこか手入れが行き届いていない。
「おじさん、こんにちは! 今日は甘いパンある?」
私が尋ねると、おじさんは切ないような、困ったような笑顔を浮かべて私の前にかがみ込んだ。
「ごめんななぁ、レイラちゃん。今日は小麦粉が入ってこなくて、普通のホブズしか焼けないんだ。甘いナツメヤシのパンは、また今度な」
「ううん、いいの! おじさんの焼くパンなら、普通のパンでもだーいすきだもん!」
私が努めて明るく振る舞うと、おじさんは目元を潤ませ、私の頭を力強く撫でてくれた。
「……いい子だなぁ、レイラちゃんは。ファティマさん、郊外の幹線道路が閉鎖されたらしい。政府の軍隊と、反体制派の武装勢力が本格的にやり合い始めたそうだ。ここも……いつまで安全かわからん」
おじさんは声をひそめ、絞り出すように語った。
「そんな……。私たちはただ、静かに暮らしたいだけなのに」
「ああ、分かってる。分かってるよ。だがな、奴らにはそんな理屈は通用せん。……ファティマさん、もしもの時は、迷わず南の安全地帯へ逃げるんだぞ。家や財産なんてどうでもいい。レイラちゃんを守るんだ」
「……ええ。ありがとうございます、アブドゥラさん。あなたも気をつけて」
母さんは重く頷き、ホブズの入った袋をしっかりと抱え直した。
その夜の夕食は、いつもよりずっと静かだった。
スープの湯気が揺れるテーブルで、私たちは寄り添うようにして食事をとった。お父さんからの手紙をもう一度読み返し、日本の桜の写真を二人で眺めた。
「綺麗なお花ね、レイラ。これ、サクラっていうのよ」
「うん。ピンク色で、お菓子の雲みたい。お父さんと一緒に見たいな」
「ええ。絶対に三人で見に行きましょうね。約束よ」
小指を切り、母さんと微笑み合う。
その小さな約束が、私たちの世界を繋ぎ止める唯一の鎖のように思えた。
夜が深まり、ベッドに入った。
外の風は一段と強くなり、窓ガラスをカタカタと揺らしている。
母さんの抱擁に包まれながら、私はまぶたを閉じた。
母さんの心臓の音が、トントン、トントンと規則正しく刻まれている。その温もりの中に身を沈めていると、どんな暗闇も恐ろしいものではなくなった。
大丈夫。明日はきっと、今日より少しだけ良い日になる。
お父さんから新しい手紙が届いて、アブドゥラおじさんが甘いパンを焼いてくれて、お母さんと一緒に笑い合える。
私はそう信じて、深い微睡みの中へと落ちていった。
——ズゥゥゥン……。
真夜中。
地響きのような、重く低い音が、はるか遠くの夜空を揺らした。
雷ではない。
それは、少女の幼き平穏を、そして世界そのものを永遠に破壊し尽くす、戦争の足音だった。




