第4話:不穏な羽音と、いつもと違うバザール
季節が少しずつ巡り、シリアの風に混じる乾いた匂いが一段と強くなっていった。
お父さんが日本へ発ってから、もう数ヶ月が経とうとしている。毎週届く手紙には、いつも私の成長を喜ぶ言葉と、日本の本社での手続きが長引いていることへの申し訳なさが綴られていた。
『レイラ、もう少しでアレッポへ戻れるはずだ。日本の桜の写真を入れるよ。お前と一緒にこの花が見られたらいいのに』
手紙に同封されていたピンク色のきれいな花の写真を、私は自分の部屋の小さな鏡台の横に大切に飾っていた。お母さんは毎日それを見ては、「本当にかわいいお花ねぇ。ジュンペイはこんな綺麗な国で育ったのね」と嬉しそうに目を細めていた。
そんな平和で穏やかな我が家だったけれど、街の空気は、少しずつ、だけど確実に変化し始めていた。
最初はほんの小さな違和感だった。
いつもなら活気に満ちている朝のバザールで、大人たちがヒソヒソと声をひそめて話す姿が増えたこと。
街の角にあるカフェで、おじさんたちがいつもなら楽しそうにバックギャモン(盤上ゲーム)をしているのに、最近は深刻な顔でラジオのニュースに耳を傾けていること。
「ねえ、お母さん。あのおじさんたち、どうしてあんなに怖い顔をしているの?」
買い物の途中、パン屋のアブドゥラおじさんの店の前を通ったとき、私は母さんの手をキュッと握りしめて尋ねた。
いつもなら「やあ、可愛いレイラちゃん!」と一番に声をかけてくれるアブドゥラおじさんも、今日は険しい顔で隣の果物屋の店主と話し込んでいる。
「……ええ、ちょっとね。遠くの大きな街で、政治のお話でも揉めているのよ。レイラは気にしなくて大丈夫だからね」
母さんは優しく微笑んで私の頭を撫でてくれたけれど、その手にはほんの少しだけ力が入っていた。母さんの繋いだ手が、いつもよりほんの少しだけ冷たい気がして、私は胸の奥に小さなチクッとした不安を覚えた。
「よお、ファティマさん、レイラちゃん」
アブドゥラおじさんが私たちに気づき、慌てて笑顔を作った。でも、その笑顔はいつもの豪快なものではなく、どこか引きつっているように見えた。
「おじさん、こんにちは! 今日もホブズちょうだい!」
「ああ……はいよ、焼きたてだ。……ファティマさん、聞いたかい? 首都の方から軍の車両がこっちに向かってるって噂だ。それと、南の街でデモ隊と警察が激しくぶつかったらしい」
おじさんは声を低くし、周囲を気にするように目線を走らせながら母さんに囁いた。
「ええ……噂には聞いていたけれど、まさかこのアレッポまで来るとは……」
「まあ、この街は昔から平和だから大丈夫だとは思うがね。念のため、食料は少し多めに買っておいた方がいいかもしれん。特に小麦粉と缶詰はな」
「分かりましたわ。教えてくれてありがとうございます、アブドゥラさん」
母さんは深く頷き、お財布からコインを出した。
おじさんは私の方を見ると、いつものようにナツメヤシの甘いパンを一つ包んで手渡してくれた。
「ほらよ、レイラちゃん。これ食べて、お家でおとなしくしてるんだぞ」
「……ありがとう、おじさん」
お礼を言ったけれど、今日のパンはなぜかいつもより少し重たく感じられた。
買い物からの帰り道、街の広場を通りかかると、壁に新しいポスターが何枚も貼られているのが目に入った。文字は読めなかったけれど、そこには難しい顔をした男の人たちの写真や、何かの旗の絵が描かれていた。その前で、若い男の人たちが興奮した様子で大きな声を張り上げている。
「お母さん、あの人たち、喧嘩してるの?」
「いいえ、喧嘩じゃないわ。……さあ、レイラ、風が強くなってきたから早く帰りましょう」
母さんは私の返事を待たずに、私の手を少し強めに引いて歩き出した。
振り返ると、オレンジ色に染まるアレッポの街並みはいつもと変わらず美しかった。平らな屋根、モスクの塔、遠くに見えるオリーブの畑。
だけど、何かが静かに、確実に狂い始めている——そんな予感が、幼い私の胸をざわつかせた。
その夜、お母さんはいつもより丁寧に家の鍵を閉め、テラスの窓もきっちりと施錠した。
夕食のテーブルには、アブドゥラおじさんに言われた通り買い足した缶詰や、スープが並んでいた。
「お母さん、お父さん、来月本当に帰ってくるよね?」
スプーンを握りながら私が尋ねると、母さんは一瞬だけ手を止め、それからとびきり優しい笑顔を向けてくれた。
「ええ、勿論よ。お父さんは約束を破らない人でしょう? 日本の会社のお仕事が終わったら、飛んで帰ってくるわ。色鉛筆と絵本をいっぱい抱えてね」
「うん! 私、お父さんが帰ってきたら、一番に抱きつくんだ!」
「ふふ、お母さんと順番こね」
母さんは私の頬をなでてくれた。
そのぬくもりを感じていると、昼間のバザールで感じた胸のざわめきが、すーっと消えていくようだった。
大丈夫。この街は平和だし、お母さんはこんなに優しい。お父さんももうすぐ帰ってくる。
私には大好きな家族がいて、温かいお家がある。
夢の中の「悲しそうな大人の男の人」が知っていたような、理不尽で暗い世界なんて、この街にはどこにもない。私はお母さんの可愛い女の子として、ここでずっと幸せに暮らしていくんだ。
私はベッドに入り、母さんの腕の中でしっかりと目を閉じた。
窓の外で、ヒュゥと冷たい夜風が吹き抜けていく。
それが、私たちの平和な日常に響いた、最初で最後の静かな警鐘だとは知らずに。




