第3話:オリーブの木の下での約束と、遠い国からの言葉
夕暮れ時、アレッポの街は空が紫とオレンジのグラデーションに染まり、風が昼間の熱気を少しずつ奪っていく。
買ってきたばかりの新鮮なナスと挽き肉を炒める良い匂いが、我が家の小さな台所から漂っていた。母さんは手際よく木べらを動かし、香辛料を絶妙な塩梅で加えていく。クミンとコリアンダーの甘くスパイシーな香りが部屋中に満ち、私のお腹がくぅと小さく鳴った。
「レイラ、お腹が空いたでしょう。ムサッカをオーブンに入れて焼いている間に、お父さんへのお手紙を書きましょうか」
母さんは笑顔で手を洗うと、リビングの棚から上質な紙と、お父さんが日本から送ってくれたボールペンを取り出した。
「うん! 私、もう書くこと決めてるの!」
私はローテーブルに飛びつき、紙を広げた。
お父さんはいつも、私が書いた拙いアラビア語と、独学で少しずつ覚えているひらがな混じりの手紙を、宝物のように大切にしてくれる。以前、お父さんが日本へ持っていくカバンの中に、私が描いた家族の絵が綺麗に額装されて入っているのを見たことがあった。それを見たとき、私は胸がキュッとなるくらい嬉しかったのを覚えている。
『おとうさんへ。きょうはむさっかをたべます。あぶどぅらおじさんからあまいぱんをもらいました。早くかえってきてね。いっしょにぴくにっくにいこうね』
私は一生懸命にペンを走らせた。ひらがなの「ぬ」や「ね」は難しくて少し形が崩れてしまったけれど、隣で見ていた母さんは「あら、とっても上手に書けたわねぇ」と、自分のことのように目を細めて褒めてくれた。
「お母さんも書く?」
「ええ、少しだけね」
母さんはペンを受け取ると、丁寧なアラビア語で書き足していく。
その横顔は、街の街灯の光に照らされてどこか幻想的で、本当に美しかった。母さんがお父さんに向けて文字を綴るとき、そこにはいつも深い愛と、相手を心から慈しむ優しさが溢れている。
「ねえ、お母さん。お父さんとお母さんは、どうして結婚したの?」
私が尋ねると、母さんは少し驚いたように目を丸くし、それから可笑しそうに頬をぽっと赤くした。
「急にどうしたの? そんな大人っぽいことを聞くなんて」
「だって気になるもん。お父さんは遠い日本の人でしょう? 言葉も違ったのに、どうやって仲良くなったの?」
母さんはペンを置き、テラスの向こうに広がる街の明かりを懐かしそうに見つめた。
「そうねぇ……お父さんが最初にこの街に来たとき、お父さんはアラビア語がほとんど話せなくて、私は英語が少ししか話せなかったわ。でもね、お父さんはこの街の古い水道を直すために、毎日毎日、泥だらけになりながら誰よりも一生懸命働いていたの」
母さんの声は、子守唄のように優しく響く。
「ある日、市場で荷物を崩して困っていたおばあさんを、お父さんが自分の服が汚れるのも気にしないで助けているのを見かけたのよ。言葉は通じなくても、この人はなんて優しくて、誠実な心を持っているんだろうって……一目で分かったわ。それから、私が少しずつアラビア語を教えてあげて、お父さんが日本の話をしてくれて……いつの間にか、お互いの存在が一番大切になっていたの」
「へえ……お父さん、かっこいいなぁ」
「ええ、本当にかっこいい人よ。不器用で、時々変なギャグを言って滑ったりするけれど……世界で一番優しくて、頼りになるお父さんよ」
母さんは私の頭をそっと引き寄せ、自分の胸に抱きしめた。
母さんの心臓の音が、トントン、と規則正しく温かく響く。
「お父さんが作ってくれたこの水道のおかげで、この街のみんながきれいなお水を飲めるようになったの。レイラも、お父さんの仕事を誇りに思いなさいね」
「うん! 私、お父さんのことも、お父さんのお仕事も大好き!」
その時、オーブンからチリチリと香ばしい音が聞こえてきた。ナスとチーズ、そしてトマトソースが焦げる最高に幸福な匂いだ。
「さあ、焼き上がったわよ。冷めないうちにいただきましょうね」
テーブルに運ばれた熱々のムサッカと、アブドゥラおじさんにもらったホブズ(薄焼きパン)。
私たちは手合わせをして、神様への感謝を口にしてからスプーンを動かした。
口に入れた瞬間、トロリととろけるナスと挽き肉の旨味が口いっぱいに広がる。シリアの太陽をたっぷり浴びたトマトの甘みと、スパイシーな香辛料の風味が絶妙で、思わず笑みがこぼれた。
「美味しい! お母さんのムサッカ、世界一美味しい!」
「ふふ、ありがとう。お父さんがいたら、もっと賑やかで楽しかったのにね」
「うん。でも、来月帰ってきたら、毎日これ作ってもらおうよ!」
「まあ、お父さんが太っちゃうわね」
ふたりで声を合わせて笑い合う。
部屋の中は、美味しい料理の湯気と、温かな明かり、そして私たちの笑い声で満たされていた。
夜が更けると、アレッポの街は静まり返り、テラスからは満天の星空が見えた。
湿度の低いシリアの夜空は、吸い込まれそうなほど澄んでいて、星が手の届きそうなほど近くに見える。
ベッドに入り、母さんに抱きしめられながら、私はまぶたを閉じた。
頭の奥には、相変わらずあの「日本の大人の男性」の遠い記憶が、影のように静かに潜んでいる。満員電車、冷たいお弁当、疲れ切った溜め息。
だけど、今の私にはそんな悲しい過去の影なんて、どうでもよかった。
私には、この温かい手がある。美味しいお料理を作ってくれるお母さんがいて、遠い国から愛を届けてくれるお父さんがいる。
「おやすみ、レイラ。良い夢をね」
「おやすみなさい、お母さん……大好き」
母さんの胸の温もりを感じながら、私は深い深い眠りへと落ちていった。
この満ち足りた平和が、この絶対的な幸福が、明日も、明後日も、ずっとずっと続いていくのだと。
幼い私は、何ひとつ疑うことなく、幸せな夢の中へと落ちて行ったのだった。




