第2話:賑やかなバザールと、小さな幸福
「ほらレイラ、スカートの裾を引っ掛けないようにね。今日は市場がすごく混んでいるから、お母さんの手を絶対に離しちゃダメよ」
「はーい!」
お昼過ぎ、私と母さんは夕食の買い出しのために、アレッポの旧市街にあるバザール(市場)へと向かった。
粘土と石造りの古い建物がひしめくアーケードへ一歩足を踏み入れると、そこは眩しいほどの熱気と色に溢れていた。天井のすき間から差し込む筋状の光が、宙を舞ううっすらとした土埃をきらきらと照らしている。
「寄ってらっしゃい! 摘みたてのフレッシュなオリーブだよ!」
「甘いイチジクはいかがかね! 奥さん、お安くしておくよ!」
行き交う人々、香辛料のツンとした匂い、焼きたてのパンの芳ばしい香り、そして商人たちの威勢の良い掛け声。歩いているだけで胸がワクワクして、私は母さんの手をギュッと握り直した。
「まずは、アブドゥラさんのところでホブズ(薄焼きパン)を買いましょうか」
「あ、アブドゥラおじさんだ! おーい!」
私がぶんぶんと手を振ると、大きな小麦粉の袋を担いでいた丸顔のおじさんが、真っ白な歯を見せて破顔した。アブドゥラおじさんは、このバザールで一番大きな釜を持つパン屋さんの店主だ。
「やあ、可愛いレイラちゃん! 今日も元気いっぱいだな! ファティマさんもこんにちは」
「こんにちは、アブドゥラさん。今日も焼きたてのホブズを六枚もらえるかしら? 今日はジュンペイの大好物のムサッカを作るのよ」
「いいねえ! ジュンペイの旦那はまだ日本かい? あの旦那が作る日本の『スシ』って奴は驚いたが、早く帰ってきてまた一緒に飲み明かしたいもんだよ。はいよ、焼きたて熱々だ!」
おじさんは大きな木べらで釜から焼き上げたばかりのパンをすくい上げると、紙に包んで母さんに手渡した。そして、私に向かってにやりと笑う。
「レイラちゃんには、特別にこれをご褒美だ」
おじさんが差し出してきたのは、小さく丸めて焼いた焼き立てのデニッシュ風のパンだった。中には甘いナツメヤシ(デーツ)のペーストがたっぷり入っている。
「わあ……! おじさん、ありがとう!」
「ふふ、お礼を言いなさいね、レイラ。アブドゥラさん、いつもすみません」
「気にすんなって! レイラちゃんの弾けるような笑顔を見たら、疲れなんて吹き飛んじまうからな!」
おじさんは豪快に笑い、私の頭を大きな手でわしゃわしゃと撫で回した。その手からは、香ばしい小麦粉の匂いがした。
焼き立てのデニッシュを小さな口でパクリとかじる。
カリッとした生地の中から、トロリと甘いナツメヤシの味が広がって、私は思わず「んーっ!」と目を細めた。
「どう? 美味しい?」
「うん! とっても美味しい! お母さんも一口食べる?」
「ありがとう。でもこれはレイラがもらったんだから、全部食べていいのよ」
母さんは優しく目を細め、私の口元についたパンくずを指先でそっと拭ぐってくれた。
バザールを奥へ進むと、今度は色とりどりの野菜や果物が山のように積まれたエリアに出た。真っ赤なトマト、ツヤツヤした紫色のナス、鮮やかな黄色のレモン。
「ちょっとこれ、お兄さん。このナス、少し小ぶりじゃない? もう少し勉強してくれたら、そっちのレモンも買うわよ」
「勘弁してくださいよファティマさん! これでも今朝採れたてで、破格なんですから!」
「あら、先週も同じこと言ってたじゃない。ねえ、レイラもこのナス、ちょっと小さいと思うでしょう?」
「うん! 小さいと思う!」
「こらこら、お嬢ちゃんまでお母さんを手伝うなよ〜! 分かった分かった、レモンを二個おまけするから買い叩かないでくれ!」
店主のお兄さんが降参するように手を挙げると、周りでお買い物をしていた近所のおばさんたちから「ドッ」と笑いが起きた。
「ファティマさんは相変わらず買い物が上手ねぇ」
「本当に。レイラちゃんもすっかりしっかり者のお手伝いさんね」
「ふふ、ありがとうございます。この子は本当にお利口さんで、私の自慢の娘なんですよ」
おばさんたちに褒められて照れる母さんの横顔を見ながら、私は誇らしさと嬉しさで胸がいっぱいになった。
母さんは買い物上手で、お料理が得意で、街のみんなから愛されている。
お父さんが遠い日本にいて寂しいはずなのに、私にそんな素振りを見せないで、いつだって最高の笑顔を向けてくれる。
(私……本当にお母さんの子になれてよかったな)
胸の奥をふと掠める、あの日本の「悲しそうな大人の男の人」の夢。
どれだけリアルな夢であっても、そんなものはただの幻だ。
私を愛してくれるお母さんがいて、私を待ってくれているお父さんがいる。このシリアの暖かな太陽の下で、私は「レイラ」として生きている。それが私にとっての全てだった。
買い物を終え、重くなった買い物袋を二人で分け合って持ちながら、私たちはゆっくりと家路についた。
夕方前のアレッポの街は、西日に照らされてオレンジ色に染まり始めていた。
風が吹くと、乾いた土の匂いと、どこかの家から漂ってくる香辛料の湯気の匂いが混ざり合って鼻をくすぐる。
「レイラ、お家に帰ったら一緒にお野菜を洗いましょうね。それから、お父さんにお手紙の返事を書きましょう」
「うん! 私、お父さんに大きなバクラヴァの絵を描く!」
「ふふ、お父さん、喜ぶでしょうねぇ」
母さんは私と繋いだ手を、やさしく、ギュッと握り返してくれた。
坂道を上りながら、影が二つ、長く伸びていく。
ひとつは大きな母さんの影。もうひとつは、小さな私の影。
そのふたつの影が仲良く並んで揺れているのを見つめながら、私はこれから訪れる夕食の時間と、お父さんが帰ってくる未来の日に思いを馳せていた。
この街で過ごす、温かくて愛おしい、何気ない日常。
それが、崩れることのない私の世界の全てだった。




