第1話:羊肉のムサッカと、誰にも言えない夢
シリアの太陽は、いつだって眩しくてどこか誇らしげだ。
粘土と石で固められた我が家のテラスに差し込む日差しは、朝のうちはオリーブの葉をきらきらと濡らし、お昼を過ぎる頃には肌がジリジリと熱くなる。でも、建物の影に入れば、驚くほどひんやりとした心地よい風が吹き抜けていった。
テラスの手すりにあごを乗せ、私は眼下に広がるアレッポの街並みを眺めていた。
平らな屋根が重なり合う、迷路のような古い街。遠くにはモスクの白い塔が空へ向かってまっすぐに伸びている。風が吹くたび、どこからかカルダモンを効かせたアラビアン・コーヒーの香ばしい匂いや、お肉を炙る甘い煙、そして市場の賑やかな活気が流れてきた。
「レイラ! ほら、いつまでボーっとしているの。風邪でも引いてしまうわよ」
台所から、弾むような母さんの声が聞こえた。
振り返ると、頭巾の隙間から艶やかな黒髪を覗かせた母さんが、大きな両手鍋を抱えてこちらを見ていた。私と目が合うと、母さんはいたずらっぽく片目をウインクしてみせる。
「今日はお父さんが大好きなムサッカ(ナスと挽き肉の重ね焼き)と、ファラフェルを作るんだから。手伝ってくれないと、レイラの分のバクラヴァ、お母さんが全部食べちゃうからね?」
「ええっ!? ダメ! バクラヴァ取らないでよ、お母さん!」
私はあわてて脚をバタバタさせ、木製の小さな椅子から飛び降りた。
サクサクのパイ生地にシロップがたっぷり染み込んだバクラヴァは、私の大好物だ。焦って駆け寄る私を見て、母さんは「ふふっ、冗談よ」と声を立てて可笑しそうに笑った。
「もうっ、お母さんたら、すぐ私をからかうんだから!」
プッと頬を膨らませてみせると、母さんは「ごめんね」と言いながらかがみ込み、私の体をぎゅっと抱きしめてくれた。
母さんの腕の中は、日差しを浴びたオリーブの匂いと、甘いスパイスの匂いがした。そのカサついた手のひらが私の背中を優しく撫でるたび、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「だーいすきなお母さん。許してあげるから、バクラヴァは一番大きいのをちょうだいね」
「はいはい、分かっていますよ、食いしん坊のレイラちゃん」
母さんは私の鼻の頭を指でちょんと突き、くすんだ頬を寄せてきた。母さんのやわらかい肌の感触が嬉しくて、私はその首元にキュッと抱きついた。
私、レイラは今年で八歳になる。
お父さんは日本の建設会社から派遣されてきた技術者で、このアレッポの街で水道設備を整えるお仕事をしている。私の見た目は、肌こそシリアの太陽に焼けた母さん譲りの綺麗な褐色だけど、丸っこい鼻や笑うと目尻が下がる顔立ちは、お父さんにそっくりだと近所のおばさんたちによく笑われた。
「さあ、ナスを切るのを手伝ってちょうだい。手を切らないように気をつけるのよ」
「はーい!」
まな板に向かい、小さなナイフを握りしめる。トントン、とナスを切る規則的な音を聞きながら、私はふと、頭の奥でふわふわと漂う『変な夢』のことを思い出していた。
私には、小さい頃から時々見る、不思議な夢がある。
——それは、誰にも言ったことがない、私だけの秘密だ。
夢の中の私は、今の私じゃない。
背が高くて、手が骨張っていて、声が低い……日本の『大人の男の人』だ。
灰色の「スーツ」という服を着て、毎朝「満員電車」という混み合った乗り物に揺られ、「会社」というところで「パソコン」に向かって指をカタカタ動かしている。仕事で失敗して「すみません」と頭を下げたり、夜遅くに一人で小さな部屋に帰り、冷たいお弁当を食べながら「はぁ……」と溜め息をついたりしている。昨日は「居酒屋」という賑やかなお店で、黄色くて泡がいっぱい出ている苦そうな飲み物を飲んでいた。
(あのおじさん、誰なんだろう……)
夢の中の私は、いつもなんだかすごく疲れていて、寂しそうだった。
だけど、どこかとても優しくて、真面目な人だった気もする。
こんな不思議な夢の話、お母さんに言ったら笑われちゃうかもしれない。それに、「私の中におじさんがいる」なんて思われたら、大好きな母さんの可愛い女の子でいられなくなってしまう気がして、怖かった。
(私のお母さんは、世界でたった一人、目の前にいるこのお母さんだけだもん)
私は包丁を握る手に少しだけ力を込め、思考の隅にその夢を押し込めた。
「どうしたの、レイラ? 手が止まっているわよ。疲れちゃった?」
ナスを鍋に並べていた母さんが、心配そうに私の顔を覗き込んできた。
「ううん! なんでもない! ちょっと大きさを揃えようかなって思ってただけ!」
私がとびきりの笑顔を見せると、母さんは「あらあら、几帳面なところはお父さんそっくりね」と目を細め、愛おしそうに私の頭を撫でてくれた。
そう言って、母さんは胸のポケットから、大切に折りたたまれた手紙を取り出した。
日本からの国際郵便。お父さんの几帳面な字で、日本語と、母さんが読めるような簡単なアラビア語が書いてある。
『日本の会社での話し合いが長引いていてごめんよ。来月にはアレッポへ戻れるはずだ。レイラ、欲しがっていた日本の色鉛筆と絵本を買ったよ。ファティマ、無理をしないで待っていておくれ。愛しているよ』
手紙を読み返すたび、母さんは少女みたいに頬をぽっと赤くする。
その幸せそうな顔を見ているだけで、私の心までポカポカと温かくなった。
「お父さん、早く帰ってくるといいなぁ。色鉛筆が届いたら、お父さんとお母さんと、私の絵を一番最初に描くんだ!」
「ええ、とっても楽しみね。お父さんが帰ってきたら、みんなで緑地公園に行って、このムサッカをお外で食べましょうね」
「わーい! ピクニック! 約束だよ、お母さん!」
「ええ、お約束よ」
母さんは嬉しそうに微笑み、鍋から立ち上るおいしそうな湯気の中に木べらを差し入れた。
スパイスの甘い香り、母さんのやわらかい手、お父さんからの手紙、そしてこれから訪れる楽しい約束。
私の世界は、そんな大好きなもので溢れていた。
この幸せな毎日がずっとずっと続いて、私は少しずつ大きくなって、いつかお父さんとお母さんみたいに優しい大人になっていくんだ——。
私はなんの疑いもなく、そう信じ切っていた。




