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第6話 最強の敵

第6話 最強の敵


 翌朝。


 ガストン商店の裏庭には、まだ朝露が残っていた。


 木箱が積まれた脇に古い井戸がある。


 アルフレッドは両手で桶を引き上げていた。


 ぎしり。


 縄が軋む。


 腕が痛い。


 肩も痛い。


 昨日の掃除と荷運びの筋肉痛だった。


「くそっ……」


 桶を引き上げる。


 重い。


 本当に重い。


 こんな作業を毎日やる人間がいるのか。


 いや、いるのだ。


 目の前に。


 ガストンが平然と薪を割っている。


 七十近い老人とは思えない。


 アルフレッドは情けなくなった。


「何やってんだ俺は」


 ぽつりと呟く。


 桶の水面に自分の顔が映った。


 ひどい顔だった。


 髪は伸び始めている。


 頬は少し痩せた。


 目の下には薄い隈。


 王子の顔ではない。


 ただの冴えない男だった。


「どうせ俺なんか」


 自然に言葉が漏れる。


 その瞬間だった。


 頭の中に次の言葉が浮かぶ。


 どうせ俺なんか元王子だ。


 どうせ俺なんか追放された人間だ。


 どうせ俺なんか失敗作だ。


 どうせ俺なんか。


 どうせ俺なんか。


 どうせ俺なんか。


「……」


 アルフレッドは顔をしかめた。


 気持ち悪かった。


 まるで頭の中で誰かが囁いているみたいだった。


 ガストンが薪を割る。


 パカン。


 乾いた音が響く。


「おい」


 アルフレッドは声を掛けた。


「何だ」


「お前、失敗したことあるか」


 ガストンは斧を振り下ろした。


 パカン。


「ある」


「どれくらい」


「数え切れん」


「嘘だろ」


「本当だ」


 また薪が割れる。


「若い頃、借金した」


「借金?」


「ああ」


 アルフレッドは目を丸くした。


「店が潰れそうになった」


「……」


「騙されたこともある」


「……」


「共同経営者に金を持ち逃げされた」


 アルフレッドは黙る。


 意外だった。


 ガストンは最初から強い人間だと思っていた。


「で?」


「で、何だ」


「立ち直ったのか」


 ガストンは鼻を鳴らした。


「立ち直ったというより、飯を食わないと死ぬから働いただけだ」


 アルフレッドは苦笑する。


 この老人らしい答えだった。


 その時だった。


 市場の方から子どもの声が聞こえた。


「おーい!」


 十歳くらいの少年が走ってくる。


 そばかす顔。


 ぼさぼさの茶髪。


 元気だけは有り余っている。


「ガストン爺さん!」


「何だ」


「母ちゃんが塩貸してくれって!」


「昨日も貸した」


「返すって!」


「絶対返さん」


 少年は笑った。


 ガストンも少しだけ笑う。


 少年はアルフレッドを見る。


「誰?」


「店員だ」


 ガストンが答える。


 アルフレッドは微妙な顔になる。


 店員。


 その響きがまだ慣れない。


 少年は首を傾げた。


「弱そう」


「おい」


「顔色悪いし」


「おい」


「すぐ倒れそう」


「おい!」


 少年は大笑いした。


 アルフレッドは本気で腹が立った。


 だが。


 不思議だった。


 王宮なら許されない無礼だ。


 だが今は少し違う。


 少年は王子だと思っていない。


 追放された人間だとも思っていない。


 ただ弱そうな男だと思っている。


 それだけだった。


 少年が去る。


 静けさが戻る。


 アルフレッドは井戸の縁に腰を下ろした。


「なあ」


「何だ」


「最強の敵って何だと思う」


 ガストンが薪を積みながら答える。


「相手による」


「俺は分かった」


「ほう」


 アルフレッドは苦笑した。


「俺自身だ」


 ガストンは何も言わない。


 だから続ける。


「王位を失ったのも俺だ」


「……」


「追放されたのも俺だ」


「……」


「でも今の俺を一番殴ってるのも俺だ」


 頭の中で聞こえる。


 どうせ俺なんか。


 無理だ。


 無駄だ。


 遅い。


 終わってる。


 王宮にいた頃には聞こえなかった声。


 今は毎日聞こえる。


 朝も。


 昼も。


 夜も。


 ガストンはようやく口を開いた。


「そいつは強敵だな」


「だろ」


「しつこいしな」


「しつこい」


「倒しても戻ってくる」


 アルフレッドは笑った。


 本当にその通りだった。


 昨日少し前向きになった。


 今朝には元通りだ。


 まるで雑草だった。


 抜いても抜いても生えてくる。


 ガストンは店へ戻る。


 途中で振り返った。


「だがな」


「何だ」


「そいつは剣じゃ倒せん」


「……」


「殴っても倒せん」


「……」


「働け」


 またそれだった。


 アルフレッドは呆れた。


「何でも働けばいいのか」


「ああ」


「雑だな」


「雑でいい」


 ガストンは笑う。


「考える暇があると、ろくなこと考えん」


 その言葉に返事はできなかった。


 図星だったからだ。


 昼。


 二人は店の裏で昼食を食べた。


 野菜たっぷりのスープ。


 黒パン。


 塩漬け肉を薄く切ったもの。


 豪華ではない。


 だが温かかった。


 アルフレッドはパンを齧る。


 小麦の香りがした。


 スープから湯気が立つ。


 人参の甘み。


 玉ねぎの旨味。


 腹に落ちる。


 その瞬間だけは、


 どうせ俺なんか、


 という声が聞こえなかった。


 アルフレッドは空を見上げた。


 青空だった。


 雲がゆっくり流れている。


 王宮から見た空と同じはずなのに、少し違って見えた。


「くそっ」


 思わず笑う。


「何だ」


 ガストンが聞く。


「最強の敵ってやつは」


「おう」


「思ったより面倒くさい」


 ガストンはパンを齧った。


「そういうもんだ」


 アルフレッドもパンを齧る。


 まだ勝てそうにはない。


 だが。


 逃げるのも少し飽きてきていた。



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