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【第8話:塩おにぎりと、不覚にも小さかった左手。】

 築三十年のボロアパートに、もやしを炒めるごま油の匂いが充満している。

 今日の夕飯は、もやし炒め(豚肉の代わりにちくわ入り)と、塩おにぎりだ。


「……ねえ。私、これから天下の『エターナル・ブライズ』の広告塔になる女よ? なのに、なんで独房の囚人みたいなご飯食べてるの?」

「文句言わない。四十五万円のマイナスを取り戻すまでは、我が家のエンゲル係数は極限まで下げるわよ。ほら、もやしにはビタミンCが含まれてるんだから、肌荒れ対策だと思って食え」


 私は、百円ショップで買ったプラスチックの皿に山盛りのもやしを叩きつけ、ノートパソコンの画面に向き直った。

 画面に映っているのは、エターナル・ブライズから送られてきた『撮影香盤表(スケジュールの詳細)』と、参考用のポージング資料集だ。


「……で、明後日のカメラテストだけど。どうやら『指輪の交換』と『誓いのキス寸前』のアップを中心に撮るみたいね」

「うげ。またキスのフリすんの? こないだの配信で私の純情(※ファーストキス)を奪ったばっかりなのに」


 百合亜はちくわを箸でつつきながら、露骨に嫌そうな顔をした。


「寸前、よ。本当にしたらリップが崩れてメイク直しの時間が無駄にかかるでしょ。……それより問題は『手元』よ。指輪をはめる瞬間の、二人の手が重なるカット。これ、変に力が入ってると『ビジネス感』が透けて見えるから、今のうちに練習しておくわよ」

「えー、ご飯食べてからで良くない?」

「油ギッシュな手で四十五万円の指輪に触る気!? 手ぇ洗ってきなさい!!」


 渋々立ち上がった百合亜を洗面所へ追いやり、私も手を洗ってから、例の『18金ダイヤ入りペアリング』を箱から取り出した。

 何度見ても、憎たらしいほど美しい輝きだ。私の三ヶ月分の食費……。


「ほら、手出して」


 戻ってきた百合亜と向かい合い、私は彼女の左手を取った。

 そして、私の右手に持った指輪を、百合亜の薬指の先にあてがう。資料の通り、相手の指先にそっと触れるような、優しく、愛おしむような角度で。


「……ちょっと、恋乃葉。アンタ、手ぇ冷たっ。死体みたいなんだけど」

「末端冷え性なだけよ。いいから、アンタはもっと力を抜きなさい。ほら、指がピンと張り詰めて……」


 文句を言いながら、百合亜の左手を自分の両手で包み込むようにして、位置を調整しようとした時だった。


(……あれ?)


 私は、ふと手元の動きを止めた。


(……百合亜の手って、こんなに、小さかったっけ?)


 今まで何度も、撮影のたびに彼女の手を引いたり、腰を抱いたりしてきたはずだ。

 でもそれは全部「構図」のためであり、私の意識は常に『カメラからどう見えるか』『これでいくら稼げるか』にしか向いていなかった。


 改めて、フィルターを通さずに触れた彼女の手は。

 私のゴツゴツとした手(小道具作りとバイトで微妙にタコができている)の中に、すっぽりと隠れてしまうくらい、華奢で、頼りなかった。

 指は白くて細く、爪の形も丸くて綺麗だ。少しだけひんやりとしているのに、触れている部分からは、生き物としての柔らかな体温がじんわりと伝わってくる。


(……なんか、折れちゃいそうだな)


 そんな、柄にもない感想が頭に浮かんだ。

 私が無言で手を見つめたまま固まっていると、百合亜が不思議そうに顔を覗き込んできた。


「……何? 私、手汗かいてる? さっき洗ったばっかりだからセーフでしょ」


 小首を傾げる百合亜。

 ボサボサの茶髪ボブが揺れ、大きな瞳が私を真っ直ぐに捉える。家用のスッピンに近い薄化粧なのに、悔しいくらい肌が綺麗で、まつ毛が長い。

 上目遣いで私を見上げるその顔が、視界いっぱいに広がって——。


 ドクン、と。


 私の胸の奥で、家計簿アプリの通知音とは全く違う、ひどくアナログで生々しい音が鳴った。


(——やっぱ、かわいいなこいつ)


 ……は?

 今、私、なんて思った?

 かわいい? この、承認欲求のバケモノで、隙あらば私の財布から金を毟り取ろうとする、性格最悪の女を?


「……恋乃葉? どうしたの、急に顔赤くして。もしかして熱?」


 百合亜が、空いている右手で私の額に触れようと手を伸ばしてきた。

 その瞬間、私はビクッと肩を跳ねさせ、百合亜の手をバシッと弾き飛ばした。


「痛っ! 何すんのよ!」

「さ、触らないで!!」


 私は立ち上がり、椅子をガタッと後ろに倒して後ずさった。

 心臓が、まるで全力疾走した後のようにバクバクと鳴っている。顔が熱い。絶対、耳の裏まで茹でダコみたいになってる。


「な、なによ急に! アンタが練習するって言ったんでしょ!?」

「ち、違う! アンタの! 手が……っ!」

「手が!?」

「手が……カサカサなのよ!! ささくれも出来てるし! ブライダルモデルなのにハンドケアも怠るなんて、プロ意識が足りないわよ!! 今すぐドラッグストアの安い保湿クリーム塗ってきなさい!!」


 私は、完全に支離滅裂な言いがかりを大声で喚き散らした。


「はぁ!? カサカサしてないわよ! 昨日高いハンドクリーム塗って寝たし!!」

「いいから塗り直してきなさい!! 私は……っ、私はもやし炒めを食べるから!!」


 私は逃げるようにテーブルに戻り、ちくわともやしを箸でかき込み、さらに塩おにぎりを無理やり口に詰め込んだ。「んぐっ、げほっ!」

 口の中がごま油の味で満たされるが、全く味がしない。ただ、心臓の音だけがうるさい。


(落ち着け、一ノ瀬恋乃葉。騙されるな。あれはただの『顔が良いだけの金食い虫』だ。ただのビジネスパートナーだ。同棲してるのも家賃を浮かすためだ!)


 必死に自分に言い聞かせるが、右手に残る「小さくて柔らかい手の感触」が、どうしても消えてくれない。


(……栄養失調だ。そうだ、最近もやしと塩おにぎりしか食べてないから、脳がバグって幻覚を見せてるんだ。肉だ。肉を食えば治る……っ!)


 私は必死に箸を動かしながら、チラリと百合亜を盗み見た。

 百合亜は「マジで意味わかんないんだけど」とブツブツ文句を言いながら、不満げな顔でハンドクリームを自分の手に塗り込んでいる。

 その不貞腐れた顔すらも、なんだか小動物みたいで……いやいやいや!


 ダメだ。

 今まで完璧にコントロールできていたはずの『ビジネス百合』の防波堤に、ミリ単位の亀裂が入った音がした。


 ブライダル撮影の本番は明後日。

 私はこの、突然芽生えてしまった得体の知れない「バグ」を抱えたまま、ウェディングドレス姿の彼女と向き合わなければならないらしい。


 ……お願いだから、これ以上、私を狂わせないでほしい。違約金も怖いけど、今は何より、自分自身の心臓が一番怖かった。

読んでくれてありがとうございます!


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