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【第2話:SNSは残酷な純愛の夢を見る。】

  築三十年のボロアパート、最寄り駅から徒歩十五分。家賃六万五千円(共益費込み)。

 その薄っぺらい鉄扉を開けた瞬間、私——一ノ瀬恋乃葉は、玄関のたたきに崩れ落ちるようにへたり込んだ。


 「……あ”ー、マジで終わった。死ぬ。足の裏が爆発する」

「ちょっと、邪魔! そこで靴脱ぎ捨てるな! 私のキャリーケースが入らないでしょ!」

 背後から、相方の笹原百合亜がガンガンと私の背中を蹴ってくる。


 痛い。ていうかこいつ、身長155センチのくせに蹴りの威力だけは一人前なんだけど。

 私は這うようにして靴を脱ぎ、リビングという名のただの六畳間に転がり込んだ。エアコンのスイッチを雑に入れ、即座に衣装のボタンを引きちぎる勢いで外し、諸悪の根源であるBホルダー(胸潰し)のホックを外す。


 「ぷはぁっ……! 空気が美味い……!」

 潰されていた肋骨が解放され、肺に大量の酸素が満ちていく。これだ。この瞬間のために私は生きている。マジで寿命が縮むバイトだわ、コスプレ。

 ふと横を見ると、さっきまで「可憐なヒロイン」だった百合亜も、重たいウィッグを床に投げ捨てて、ヨレヨレの高校指定ジャージ(膝が出てるやつ)に着替えていた。


 「あー、マジで疲れた。今日のイベント、湿気やばすぎ。私の完璧な前髪が崩れた分の慰謝料、運営に請求したいくらいだわ」

「文句言ってないで、早くメイク落としてきなさいよ。それ以上肌荒れしたら、次の撮影の時、私が加工アプリで修正する手間が増えるんだから」

 私は冷蔵庫から安売りの麦茶を取り出し、コップに注ぎもせずに直飲みした。ぷはぁ、と息をついて部屋を見渡す。


 ああ、世の中のファンがこの惨状を見たらどう思うだろうか。

 『三次元に舞い降りた奇跡の純愛』なんてキャッチコピーをつけられている私たちだが、実態は干からびた生乾きの靴下と、いつから置いてあるか分からないカップ麺の空き容器に囲まれた、限界フリーターの一歩手前だ。


 「……あーあ。それにしても、今日の最後のアレはマジで最悪だった。アンタ、なんであんなところで新人に見つかってんのよ」

 百合亜が洗面所から、顔を半分だけすっぴんにした状態で恨めしそうに睨んできた。


 「私だけの責任じゃないでしょ。アンタの声がデカかったせいでしょ。……ていうか、あのキスの時のアンタの口、昨日食べたニンニク餃子の臭いがうっすら残ってたわよ。マジで公害」

「はぁ!? 失礼ね、ちゃんとブレスケア飲んだわよ! むしろアンタの唇の方がカサカサだったわよ、薬用リップくらい塗りなさいよ!」

 ギャーギャーと不毛な言い争いを再開しようとした、その時だった。


 ——ピロン。

 ——ピロン、ピロン、ピロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロ!!


 机の上に放り投げてあった、私たちのスマホが、突如狂ったように鳴り始めた。

 最初はLINEか何かかと思ったが、違う。通知のバイブレーションが、物理的に机をガタガタと揺らしている。


 「……え、なに? 怖い怖い怖い。スマホぶっ壊れた?」

 百合亜がビビりながらスマホの画面を覗き込み、そして——石のように固まった。

 「……恋乃葉」

「なに。私のアカウント乗っ取られた?」

「違う……これ、見て……」


 百合亜に差し出された画面には、見慣れたSNSのタイムラインが映っていた。

 一番上に固定されているのは、今日イベントで会った、あのピュアな新人レイヤーのツイートだ。

 『今日、某イベントで大好きなルミアンのお二人の楽屋裏の近くを通ってしまったんですが……あの、本当に、ガチでした……!! 営業とかビジネスとかじゃなくて、裏でもめちゃくちゃ熱いキスしてて……! 私、尊すぎて息止まりました……一生推します!! 存在してくれてありがとう!!』

 「は?」


 変な声が出た。

 そのツイートは、投稿されてからわずか数時間しか経っていないのに、すでに3万リツイートを超えていた。

 さらに、その下には、私たちのファンからの狂喜乱舞するリプライが滝のように流れている。


 『えっ、裏でも!? 嘘でしょ最高すぎる!!』

『やっぱり営業じゃなかったんだ! 私たちの目は狂ってなかった!!』

『待って、無理、泣いてる。ルミアンはガチ』

『ご結婚おめでとうございます!!!!!!』

『ご祝儀はどこの口座に振り込めばいいですか!? クラファン立ち上げてください!!』


 「……はぁああああ!?」

 私は思わずスマホを取り落としそうになった。

 なんだこれは。どういう集団幻覚だ。結婚? 祝儀? 相手はあの膝の出たジャージでスルメ食ってる女だぞ? 冗談じゃない、ご祝儀で一千万もらえるとしてもお断りだ。


 「お、おい! どうすんだよこれ!!」

 百合亜が、顔半分すっぴんのまま、私の肩をガクガクと揺らしてきた。

 「どうすんだって言われても……」

「完全にガチ百合だって拡散されてるじゃない! 『結婚おめでとうございます』っていっぱい来てるわよ!? これ、後で『やっぱりビジネスでした』なんて言ったら、私たち大炎上して界隈から消されるわよ!! どうすんのよ!!」


 百合亜のパニックをよそに、私の頭は急速に冷却され、恐ろしいほどのスピードでソロバンを弾き始めていた。

 3万リツイート。インプレッション数は数百万。

 ……これは、とんでもない宣伝効果だ。広告費換算したら数百万円に相当する。


「……どうもしねーよ」

「えっ?」

 私は麦茶のペットボトルをドンッと机に置き、百合亜をまっすぐに見据えた。

 「逆に考えるのよ。こっちの方が仕事増えるかもしれないだろ。ありがたく思え」

「はぁ!?」

「考えてもみなさいよ。今、私たちは『ガチで付き合ってる神レイヤー』として界隈の頂点に立とうとしてるのよ。この話題性を利用すれば、単独イベントのチケットは即完売、グッズの売上は今の三倍……いや、五倍は見込めるわ。ペアリングの企業案件とか、ブライダル系の雑誌から声がかかるかもしれない」

「アンタ……マジで頭の中、金と数字しかないの……?」

 百合亜はドン引きしたような顔で私を見た。

 だが、私は止まらない。

 「いい? 今日から私たちは、本当に『付き合ってる』の。同棲設定もリアルだし、何なら『プロポーズの言葉』のシナリオも今夜中に徹夜で考えてあげるから、アンタはそれを暗記してSNSで匂わせツイートしなさい」

「無理無理無理!! 嫌よ、誰がアンタなんかと!!」


 百合亜はクッションを私に向かって思い切り投げつけた。

 「大体ねぇ、私の純情返してよぉ……!!」

「は? 純情?」

「私、まだ誰ともキスしたことなかったのにぃ!!」

 ボロボロと涙目になりながら、百合亜が信じられないことを口走った。


 「……え?」

 私は一瞬、自分の耳を疑った。

 この、顔が良くて承認欲求の塊で、いかにも男を何人も泣かせてきそうなあざとい女が?

 誰とも、キスしたことがなかった?

「……」

「……な、何よ! その顔!!」

「え……ぷ、ぷぷぷ」

 私の中で、何かが弾けた。

 「ぷっ……あはははは!! 嘘でしょ!? アンタ、あれがファーストキスだったの!? 殺すわよ!!」

「マジかー! いや、ごめん、ちょっとそれは予想外すぎた。ていうか、私の安いリップとアンタのニンニク餃子の臭いが混ざったアレが初キスとか、マジで可哀想すぎるでしょ! おまけにアンタの爪食い込んで、私『痛っ』って言ってたしね!」

「うるさいうるさいうるさい!! 忘れて!! 今のなし!!」


 顔を真っ赤にしてポカポカと私を殴ってくる百合亜の拳を適当に避けながら、私は腹を抱えて笑った。

 いや、痛快すぎる。この性格の悪いビジネスパートナーのファーストキスを奪ってしまったという事実は、今後の交渉において絶対的なマウント材料になる。


 「あー、お腹痛い。……よし、わかった。アンタの失われたファーストキス代として、今月のガス代は私が全部払ってあげるから」

「安っ!! 私のファーストキス、三千円!?」

「嫌なら払わないけど?」

「……払って。今月マジでピンチだから」

「よろしい」


 こうして、私たちは後戻りできない沼へと自ら足を踏み入れた。

 SNSでは私たちの『馴れ初め』や『結婚式』の妄想が爆発的に拡散され、フォロワー数は見る見るうちに増えていく。

 (……ま、いっか。どうせビジネスだし)

 私は再び麦茶をあおりながら、家計簿アプリに『ガス代全額負担(キス代として)』と入力した。

 この時の私たちはまだ、この「ガチ百合の嘘」が、自分たちの首をどれほど深く絞めていくことになるのか、全く気付いていなかったのだ。

読んでくれてありがとうございます!


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