第184話「水の流れを読む」
黒影衆の里に、静かな朝が訪れていた。
里の東側を流れる小川のほとりに、凛の姿があった。
水面には朝日が反射し、川底の小石が透き通って見える。
凛は川岸に腰を下ろし、流れる水を眺めていた。
「……同じ場所を流れているのに、全部違うのね」
小さく呟く。
川の中央では水が速く流れ、岸に近い場所では緩やかに動いている。
大きな石の周囲では流れが分かれ、その後ろには小さな渦ができていた。
凛は右手を水面へ近づけた。
以前なら、ここで水遁を使っていたはずだった。
しかし、今はチャクラの回復を優先しなければならない。
白石ユズハからも、強い術の使用を禁止されている。
「……見るだけなら、問題ないわよね」
凛は手を引き、再び川を眺めた。
その時、背後から声がした。
「何を見ている?」
振り返ると、影宗が立っていた。
「影宗さん」
「こんな朝早くから、どうした?」
「少し、水の流れを見ていました」
影宗は川へ目を向けた。
「水遁のことを考えていたのか?」
「はい」
凛は頷いた。
「今は術を使えないので、何かできることがないかと思って」
影宗は小さく笑った。
「それで、水を観察していたわけか」
「変でしょうか?」
「いや。悪くない」
影宗は凛の隣に立った。
「何か気づいたことはあるか?」
凛は川を指差した。
「大きな石の周りでは、水が左右に分かれています」
「そうだな」
「でも、石の後ろでは流れが弱くなっているんです」
影宗は頷いた。
「ほかには?」
「川の中央は速いのに、岸に近づくほど遅くなっています」
「なるほど」
影宗は少し考えた。
「では、その流れを戦いに置き換えるとどうなる?」
凛は首を傾げた。
「……戦いに?」
「ああ」
影宗は川の中央を指差した。
「例えば、敵が正面から突進してきたとする」
「はい」
「その勢いを真正面から受け止める必要はあるか?」
凛は少し考えた。
「……避けることもできます」
「そうだ」
「相手の進む方向を変えることもできますね」
影宗は頷いた。
「水は障害物にぶつかっても、必ずしも止まらない。形を変えて流れ続ける」
凛は水面を見つめた。
「……水遁も同じ」
「そう考えることもできる」
影宗は続けた。
「強い水流で敵を押し返すだけが、水遁ではない」
凛は自分の手を見た。
これまで、敵の攻撃を防ぐために水壁を使い、動きを封じるために水縛を使ってきた。
だが、敵の力を利用するという考え方は、まだ十分ではなかった。
「……私、いつも術の強さばかり考えていました」
影宗は首を振った。
「それも必要なことだ」
「でも、それだけじゃ足りないんですね」
「ああ。状況によって、最も適した術は変わる」
凛は静かに頷いた。
「……勉強になります」
影宗は川を見下ろした。
「今日は術を使わず、流れを観察してみろ」
「はい」
「ただし、長時間外にいるな。まだ回復途中だ」
凛は微笑んだ。
「分かっています」
影宗が立ち去った後も、凛はしばらく川を眺めていた。
やがて、近くに落ちていた小枝を拾い、水へ浮かべた。
小枝は流れに乗って進み、大きな石の手前で方向を変えた。
「……なるほど」
凛は別の小枝も浮かべた。
今度は岸に近い場所だった。
小枝はゆっくりと進み、浅瀬の小石に引っかかって止まった。
「同じ川でも、場所によって全然違う」
凛は小さく頷いた。
「……これを覚えておこう」
昼前になると、蒼真が小川へやってきた。
「凛、こんなところにいたのか」
凛が振り返る。
「蒼真」
「何してるんだ?」
「水の流れを観察していたの」
蒼真は川を見た。
「水遁の練習か?」
「違うわ。術は使ってない」
「そっか」
蒼真は凛の隣に腰を下ろした。
「影宗さんに言われたのか?」
「少しね」
凛は小枝を水へ浮かべた。
「蒼真、この枝がどこを通ると思う?」
「え?」
「予想してみて」
蒼真は水面を見つめた。
「……真っすぐ流れるんじゃないか?」
凛は微笑んだ。
「見てて」
小枝は流れに乗って進んだ。
しかし、大きな石の手前で方向を変え、岸側へ流れていった。
蒼真は驚いた。
「……曲がった」
「そうなの」
凛は頷いた。
「水は障害物があると、流れる方向を変えるの」
「なるほど」
「でも、石の後ろには流れが弱い場所もある」
蒼真は水面を見つめた。
「……風にも似てるな」
凛が顔を向けた。
「風?」
「ああ。森の中でも、大きな木の後ろは風が弱くなることがある」
蒼真は続けた。
「でも、木と木の間では風が強くなることもあるんだ」
凛は興味深そうに頷いた。
「……確かに似ているわね」
「水も風も、周りのものに影響されるんだな」
二人はしばらく川を眺めた。
蒼真が尋ねた。
「凛は、水遁で何を一番大事にしてる?」
凛は少し考えた。
「……仲間を守ることかな」
「水壁とか?」
「ええ。でも、それだけじゃないわ」
凛は川の流れを指差した。
「敵の動きを変えたり、仲間が動きやすい場所を作ったりすることもできると思う」
蒼真は頷いた。
「……なるほど」
「例えば、蒼真が風遁で敵を押した時、私が水遁で退路を塞げば、敵の動きを制限できるでしょう?」
「ああ」
「逆に、私が水流で敵の姿勢を崩して、蒼真が風刃で攻撃することもできる」
蒼真は笑った。
「それ、面白そうだな」
凛も微笑んだ。
「でしょう?」
しかし、すぐに表情を引き締めた。
「もちろん、今は試せないけど」
「分かってる」
蒼真は頷いた。
「でも、考えるだけでも勉強になるな」
「そうね」
午後になると、凛は自室へ戻っていた。
机の上には、一冊の帳面が開かれている。
そこには、これまでに使用してきた水遁の術が記されていた。
『水遁・水壁』
『水遁・水縛』
『水遁・水流陣』
『水遁・水槍』
凛は一つずつ確認していった。
「……水壁は防御」
筆を動かす。
『敵の攻撃を防ぐだけでなく、進路を制限することにも使える』
次に、水縛の項目へ移る。
「……水縛は拘束」
『敵を完全に止めるだけでなく、一瞬だけ動きを遅らせる使い方も考えられる』
さらに、水流陣について考えた。
「……水の流れを変えれば、仲間の動きも助けられるかもしれない」
凛は筆を止めた。
以前は、術を強くすることばかり考えていた。
しかし、同じ術でも使い方によって役割は変わる。
「……新しい術を覚える前に、今の術をもっと理解しないと」
凛は静かに頷いた。
その時、扉が軽く叩かれた。
「凛、いるか?」
蓮司の声だった。
「いるわよ」
扉が開き、蓮司が顔を出した。
「何してんだ?」
「水遁の勉強よ」
「……勉強?」
蓮司は少し驚いたような顔をした。
「蒼真も昨日、帳面に何か書いてたな」
「影宗さんに言われたみたいね」
蓮司は椅子へ腰を下ろした。
「みんな真面目だな」
凛は呆れたように言った。
「あなたも少しは見習ったら?」
「俺だって考えてるよ」
「何を?」
蓮司は少し黙った。
「……剣を振れない間に、何ができるかって」
凛は筆を置いた。
「何か思いついた?」
「いや、それが難しくてさ」
蓮司は苦笑した。
「俺は身体を動かして覚える方だからな」
凛は少し考えた。
「だったら、過去の戦いを思い出してみたら?」
「過去の戦い?」
「ええ。どこで攻撃を受けたのか、どうすれば避けられたのか」
蓮司は腕を組んだ。
「……なるほど」
「剣を振らなくても、考えることはできるでしょう?」
蓮司は笑った。
「確かにな」
凛は帳面を閉じた。
「私たち、今は全員同じような状況なんだから」
「……そうだな」
「焦っても、傷が早く治るわけじゃないし」
蓮司は頷いた。
「分かった。俺も少し考えてみる」
「珍しく素直ね」
「お前までそれ言うのかよ」
凛は小さく笑った。
夕方、凛は再び小川のほとりを訪れていた。
朝とは違い、水面には夕日が映っている。
川の流れは変わらず続いていた。
凛は岸に立ち、静かに目を閉じた。
水遁を使うつもりはない。
ただ、頭の中で戦いを思い描いていた。
正面から敵が迫る。
自分の後ろには、負傷した仲間がいる。
以前なら、水壁で敵の攻撃を受け止めようとしたかもしれない。
だが、今は違う方法も考えられる。
「……敵の進路を変える」
凛は小さく呟いた。
「その間に、仲間を逃がす」
さらに別の状況を思い描く。
複数の敵が、左右から迫ってくる。
「……水流陣で足場を変えれば」
敵の動きを制限し、仲間が動く時間を作れるかもしれない。
凛は目を開いた。
「……まだまだ、できることはある」
その表情には、朝にはなかった自信が浮かんでいた。
水遁は、ただ敵を倒すための力ではない。
守ることも、導くことも、仲間を支えることもできる。
凛は流れる水へ視線を向けた。
「……次に戦う時は」
言葉を途中で止める。
そして、静かに微笑んだ。
「もっと上手く、みんなを守れるようになりたい」
川は何も答えない。
ただ、変わらず流れ続けていた。
凛はその流れを見つめながら、ゆっくりと里へ戻っていった。
第184話 完




