第183話「忍びの役目」
黒影衆の里に、穏やかな朝が訪れていた。
蒼真は医療所から自室へ戻る途中、訓練場の前で足を止めた。
そこでは若い忍びたちが、二人一組になって体術の稽古を行っていた。
一人が踏み込み、もう一人が攻撃を受け流す。
指導役の中忍が動きを止め、足の運び方を説明している。
「……いいな」
蒼真は小さく呟いた。
脇腹の傷は以前より回復していた。
しかし、激しい運動や風遁の使用は、まだ許可されていない。
昨日も風間コウガから、無理をしないよう念を押されたばかりだった。
蒼真は訓練場から目を離し、歩き出そうとした。
「蒼真」
背後から声がした。
振り返ると、影宗が立っていた。
「影宗さん」
「こんなところで何をしている?」
「少し、訓練を見ていました」
影宗は訓練場へ目を向けた。
「身体を動かしたくなったか?」
蒼真は苦笑した。
「……正直、かなり」
「そうだろうな」
「でも、今日は何もしてませんよ」
「分かっている」
影宗は静かに頷いた。
「少し時間はあるか?」
「はい」
「なら、付き合ってくれ」
蒼真は不思議そうに首を傾げた。
「どこへ行くんですか?」
「里の北側だ」
影宗は歩き始めた。
「お前に見せたいものがある」
蒼真はその後を追った。
二人が向かったのは、里の北側にある小さな見張り台だった。
そこからは、黒影衆の里を囲む森と、その先に続く山道が見渡せる。
見張り台には、二人の下忍が配置されていた。
影宗の姿に気づき、姿勢を正す。
「影宗様!」
「ご苦労」
影宗は二人へ声をかけた。
「異常はないか?」
「はい。北側の山道に異常はありません」
「交代まで、あとどれくらいだ?」
「半刻ほどです」
「分かった。引き続き警戒を頼む」
「了解しました!」
蒼真は二人の様子を見ていた。
影宗が尋ねた。
「蒼真、あの二人の任務は何だ?」
「里の見張りです」
「そうだ。では、敵が現れなければ、あの二人は何もしていないことになるか?」
蒼真は首を振った。
「いえ。敵が来ないか確認するのも任務です」
「その通りだ」
影宗は見張り台から里を見下ろした。
「忍びの仕事は、敵と戦うことだけではない」
蒼真は黙って耳を傾けた。
「見張り、情報収集、護衛、連絡、物資の運搬。どれか一つが欠けても、任務は成り立たん」
「……はい」
「戦場で剣を振るう者だけが、仲間を守っているわけではないんだ」
蒼真は見張りの二人へ視線を向けた。
「……分かっているつもりでした」
影宗が顔を向ける。
「つもり?」
「でも、怪我をしてから、何もできない自分が嫌になって」
蒼真は右手を握った。
「みんなが動いているのに、俺だけ止まっているような気がするんです」
影宗はしばらく黙っていた。
そして、静かに口を開いた。
「止まることと、何もしないことは違う」
「……?」
「今のお前は、傷を治すために戦うことを控えている。それは必要な判断だ」
蒼真は顔を上げた。
「ですが、敵が現れたら……」
「その時に備えるためにも、今は回復しなければならん」
影宗は続けた。
「一度の戦いに勝つことだけを考えるな。次の任務、その次の任務まで生き抜くことを考えろ」
蒼真はその言葉を繰り返した。
「……生き抜くこと」
「ああ」
影宗は頷いた。
「強い忍びほど、自分が戦うべき時と、退くべき時を見極めなければならん」
蒼真はしばらく考え込んだ。
「……影宗さん」
「何だ?」
「もし、自分が戦えない時に仲間が危険になったら、どうすればいいんですか?」
影宗は即答しなかった。
遠くの山並みへ視線を向けてから、答えた。
「その時にできることを考えろ」
「できること……」
「敵を倒せなくても、仲間へ危険を知らせることはできるかもしれん。負傷者を支えることも、情報を伝えることもできる」
「……はい」
「何もできないと決めつけた瞬間、本当に何も見えなくなる」
蒼真は目を伏せた。
これまでの戦いでは、目の前の敵を倒すことばかり考えていた時もあった。
だが、仲間たちが自分を支えてくれた場面は何度もある。
蓮司が敵の攻撃を引き受け、凛が水遁で退路を確保し、レイが危険を察知して知らせてくれた。
誰か一人の力で生き残ってきたわけではなかった。
「……俺、まだ考えが足りませんでした」
影宗は小さく笑った。
「気づけたなら、それでいい」
蒼真は頷いた。
「はい」
二人は見張り台を下り、里の道を歩き始めた。
その途中、蒼真は以前から気になっていたことを思い出した。
「影宗さん」
「どうした?」
「風影刀のことなんですけど」
影宗の足が僅かに止まった。
「……ああ」
「調査は進んでいますか?」
蒼真は真剣な表情で尋ねた。
「俺が持っている刀なのに、まだ知らないことが多すぎる気がして」
影宗は蒼真を見つめた。
「調査は続けている」
「何か分かりましたか?」
「古い記録を確認しているが、まだお前に確かなこととして伝えられる段階ではない」
蒼真は少し残念そうに頷いた。
「……そうですか」
影宗は続けた。
「ただ、一つ約束する」
「何ですか?」
「お前に関わる重要なことが明らかになれば、きちんと話す」
蒼真は影宗の目を見た。
「……分かりました」
「それまでは、身体を治すことに集中しろ」
「はい」
影宗は再び歩き出した。
蒼真もその後を追った。
風影刀の秘密は、まだ明らかになっていない。
影宗自身も、失われた古い記録の行方を追っている途中だった。
だが、今この場で不確かな情報を伝えるつもりはなかった。
里の中央へ戻ると、数人の忍びが本部へ向かっていた。
蒼真はその姿を見て尋ねた。
「何か任務ですか?」
影宗は頷いた。
「東国から新しい報告が届いた」
蒼真の表情が変わった。
「東国……東雲家と黒田家の件ですか?」
「そうだ」
「何かあったんですか?」
影宗は少し考えてから答えた。
「村の襲撃事件を調べていた仲間が、重要な証人を保護した」
「証人?」
「ああ。襲撃前に、村の周辺を調べるよう依頼された者たちだ」
蒼真は驚いた。
「……それって、襲撃に関わっている人間なんですか?」
「まだ分からん」
影宗は首を振った。
「本人たちは、襲撃が行われることを知らなかったと証言している」
「……そうなんですね」
「だが、その情報が襲撃に利用された可能性はある」
蒼真は眉を寄せた。
「誰が依頼したんですか?」
「それも調査中だ」
影宗は続けた。
「今は東雲家も黒田家も、相手を疑っている。だが、疑いだけで戦を始めれば、関係のない村人たちが犠牲になる」
蒼真は黙って聞いていた。
「……俺たちが戦ってきた敵とは、少し違いますね」
「そうだな」
影宗は頷いた。
「相手が誰かも分からず、何が真実かも分からない。そういう任務もある」
蒼真は拳を握った。
「……俺も、何か力になりたいです」
「その気持ちは大切だ」
影宗は答えた。
「だが、今のお前に戦場へ行けとは言わん」
「……はい」
「代わりに、一つ頼みたいことがある」
蒼真は顔を上げた。
「何ですか?」
「今までの任務で、自分たちが見落としたことを振り返ってみろ」
「見落としたこと?」
「ああ。戦闘の最中、敵の動きや仲間の位置をどこまで把握できていたか。撤退の判断は適切だったか」
蒼真は考え込んだ。
「……それなら、今でもできます」
「そうだ」
影宗は頷いた。
「身体を動かさずとも、学べることはある」
蒼真は表情を引き締めた。
「分かりました。やってみます」
影宗は満足そうに頷いた。
「期待している」
その日の午後、蒼真は自室で一冊の帳面を開いていた。
机の上には、これまでの任務で書き残した記録が並んでいる。
蒼真は最初の頁を開いた。
そこには、かつて仲間たちと向かった任務の経路が簡単に記されていた。
「……この時、俺は前ばかり見てたな」
蒼真は小さく呟いた。
敵の動きを追うことに集中し、背後の仲間がどう動いていたかを十分に確認していなかった。
別の頁を開く。
「……ここは凛が退路を作ってくれたんだ」
さらに頁をめくる。
「レイが敵の動きに気づいてなかったら、危なかったな」
記録を読み返すたびに、当時は気づかなかったことが見えてくる。
蒼真は筆を取り、新しい頁へ書き始めた。
『戦う前に、仲間の位置を確認する』
『敵を追う時は、退路を失わない』
『自分だけで判断せず、仲間の状況を考える』
書き終えると、蒼真はしばらく文字を見つめた。
「……強くなるって、術を増やすことだけじゃないんだな」
その時、部屋の外から声がした。
「蒼真、いる?」
凛だった。
「いるぞ」
扉が開き、凛が顔を出した。
「何してるの?」
「昔の任務を振り返ってた」
「珍しいわね」
「影宗さんに言われたんだ」
凛は机の上の帳面を見た。
「……なるほど」
蒼真が尋ねた。
「凛も一緒にやらないか?」
「私も?」
「ああ。俺一人じゃ気づけないこともあると思うし」
凛は少し考えてから頷いた。
「いいわよ」
二人は机を挟んで座った。
蒼真は記録を指差した。
「この時、俺は敵を追いかけようとしただろ?」
「ええ。覚えてる」
「凛はどう思ってた?」
「正直、少し危ないと思ってたわ」
蒼真は顔を上げた。
「そうだったのか?」
「だって、周囲の状況が分からないまま進もうとしてたもの」
「……確かに」
凛は続けた。
「でも、私もその時は上手く伝えられなかった」
「……」
「だから、次はちゃんと声をかけるようにしたい」
蒼真は頷いた。
「俺も、周りを見るようにする」
二人はその後も、過去の任務について話し合った。
敵との戦い方だけではない。
仲間同士の連携、情報の伝え方、撤退する時の判断。
これまで当然のように行ってきたことを、一つずつ確かめていった。
夕方になり、凛が帳面を閉じた。
「……思ったより勉強になるわね」
蒼真は笑った。
「だろ?」
「身体を動かせない間に、こういうことをするのも悪くないかもしれない」
「ああ」
蒼真は窓の外を見た。
訓練場では、夕方の稽古を終えた忍びたちが帰っていく。
以前なら、自分もその中にいた。
だが、今日は不思議と焦りを感じなかった。
「……凛」
「何?」
「俺、早く戦えるようになりたいって、そればっかり考えてた」
凛は黙って聞いていた。
「でも、今の時間も無駄じゃないんだな」
凛は微笑んだ。
「そうね」
蒼真は帳面を閉じた。
「次に任務へ出る時は、今までより周りを見られるようになりたい」
「私もよ」
二人は顔を見合わせた。
身体の傷は、まだ完全には治っていない。
戦場へ戻る日も決まっていなかった。
それでも、蒼真は少しずつ前へ進んでいた。
剣を振るわずとも、忍術を使わずとも、学べることはある。
そして、その学びがいつか仲間を守る力になる。
蒼真は机の上の帳面へ、最後に一行を書き加えた。
『忍びの役目は、敵を倒すことだけではない』
その文字を見つめながら、蒼真は静かに頷いた。
第183話 完




