第182話「剣を握れぬ日々」
黒影衆の里に朝日が差し込んでいた。
医療所の一室で、神崎レイは寝台に腰を下ろしていた。
左肩から胸にかけて包帯が巻かれ、腕は固定されたままだ。
窓の外からは、訓練場へ向かう忍びたちの声が聞こえてくる。
「……もう朝か」
レイは右手を見つめた。
指をゆっくりと曲げ、再び開く。
右腕そのものに大きな怪我はない。
しかし、左肩と脇腹の傷が残る今、身体を動かすことは医療忍から禁止されていた。
レイは寝台の横に置かれた二本の短刀へ視線を向けた。
以前なら、目を覚ましてすぐにでも握っていた武器だ。
今は鞘に収められたまま、何日も動かされていない。
「……いつまでこうしていればいい」
思わず言葉が漏れた。
その時、扉が開いた。
「レイさん、起きていますか?」
白石ユズハだった。
「……ああ」
「傷を確認しますね」
ユズハは寝台の横へ腰を下ろし、左肩の包帯を慎重に外し始めた。
レイは黙って天井を見つめていた。
「痛みはどうですか?」
「昨日と変わらない」
「安静にしている時も痛みますか?」
「いや。動かそうとした時だけだ」
ユズハは傷の状態を確認した。
「出血は落ち着いています。傷口も少しずつ回復していますね」
「……なら、固定を外せるか?」
「まだです」
即答だった。
レイは小さく息を吐いた。
「……そうか」
ユズハは新しい包帯を巻きながら続けた。
「肩は無理に動かすと、回復が遅れることがあります。脇腹の傷も完全には治っていません」
「分かっている」
「本当に分かっていますか?」
レイはユズハを見た。
「……何が言いたい」
「昨日、短刀を見つめていましたよね」
「……」
「今朝も同じことを考えていたんじゃありませんか?」
レイは視線を逸らした。
ユズハは静かに言った。
「焦る気持ちは分かります。でも、今は武器を握る時ではありません」
「……俺は忍びだ」
「はい」
「戦えなければ、仲間を守れない」
ユズハは包帯を巻く手を止めた。
「では、無理をして傷を悪化させたらどうなりますか?」
レイは答えなかった。
「今より長く戦えなくなるかもしれません」
「……」
「仲間を守りたいなら、まず自分の身体を守ってください」
レイはしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「……分かった」
ユズハは包帯を固定した。
「今日は傷の確認だけです。訓練は禁止ですよ」
「……ああ」
ユズハが部屋を出た後、レイは再び短刀へ目を向けた。
その表情には、まだ迷いが残っていた。
昼前になると、医療所へ蓮司が訪ねてきた。
「よう、レイ」
「……またお前か」
「何だよ。見舞いに来てやったのに」
蓮司は椅子へ腰を下ろそうとした。
しかし、腹部に痛みが走り、ゆっくりと身体を下ろす。
レイはその様子を見て眉を寄せた。
「……お前も大して変わらないだろう」
「まあな」
蓮司は苦笑した。
「まだ走れねえし、剣も振れねえ」
「なら大人しく寝ていろ」
「お前に言われたくねえよ」
二人はしばらく黙っていた。
窓の外では、若い忍びたちが木刀を使って訓練している。
蓮司はその光景を眺めながら言った。
「……羨ましいよな」
レイは答えなかった。
「俺たちだって、少し前まではあそこにいたのにな」
「……そうだな」
蓮司は自分の腹部へ手を当てた。
「昨日、木刀を握ろうと思ったんだ」
レイが顔を向けた。
「握ったのか?」
「いや。ユズハさんに見つかったら怒られると思ってやめた」
「……珍しく賢明だな」
「珍しくって何だよ」
レイは僅かに笑った。
蓮司も笑ったが、すぐに表情を戻した。
「……でもさ」
「何だ?」
「正直、怖いんだよ」
レイは黙って続きを待った。
「俺たちが休んでいる間にも、敵は動いているだろ」
「……ああ」
「東国じゃ戦が始まりそうだって話だし、里の中にも裏切り者がいた」
蓮司は拳を握った。
「次に何か起きた時、俺たちは間に合うのかなって」
レイは窓の外へ視線を戻した。
「……俺も同じことを考えていた」
蓮司は驚いたように顔を上げた。
「お前も?」
「当然だ」
レイは静かに続けた。
「俺は二刀を使う。片方の腕が使えないだけで、戦い方そのものが変わる」
「……」
「傷が治ったとしても、以前と同じ動きができる保証はない」
蓮司はしばらく考えた。
「……だったら、また練習すればいいじゃねえか」
レイが顔を向けた。
「簡単に言うな」
「簡単じゃねえのは分かってる」
蓮司は真剣な表情で続けた。
「でも、お前が二刀を諦めるなんて、俺には想像できねえ」
「……」
「時間がかかってもいいだろ。俺だって腹が治ったら、一から身体を戻すつもりだ」
レイは何も言わなかった。
蓮司は立ち上がろうとして、再び腹部を押さえた。
「……やっぱり、まだ痛えな」
「だから無理をするなと言っている」
「分かってるよ」
レイは小さく息を吐いた。
「……お前は本当に落ち着きがない」
「それが俺の長所だ」
「短所だろう」
二人の間に、久しぶりに自然な笑みが生まれた。
午後になると、蒼真と凛も医療所を訪れた。
「レイ、調子はどうだ?」
蒼真が尋ねた。
「……変わらん」
「そっか」
凛は蓮司を見た。
「あなた、またここにいたの?」
「またって何だよ」
「朝も医療所に来てたでしょう」
「暇なんだよ」
「だったら部屋で休んでいればいいのに」
蓮司は肩をすくめた。
「一人で寝てるより、誰かと話してた方が気が紛れるんだ」
蒼真は椅子へ腰を下ろした。
「それは分かるな」
凛も頷いた。
「私も、何もできない時間が長いと落ち着かないもの」
レイが尋ねた。
「……お前たちは訓練していないのか?」
蒼真は首を振った。
「今日は休みだ。昨日、コウガさんに止められたからな」
「当然だ」
「分かってるって」
凛は窓の外を見た。
「でも、みんな少しずつ回復しているのよね」
「……そうだな」
蒼真は頷いた。
「俺はまだ風遁を使えないけど、呼吸と構えなら確認できる」
蓮司が続けた。
「俺も歩ける距離は少しずつ伸びてる」
凛は自分の手を見つめた。
「私はチャクラの回復を優先しているわ。水遁を使うのは、まだ先ね」
三人の視線がレイへ向いた。
レイは少し困ったように眉を寄せた。
「……何だ」
蒼真が笑った。
「いや、俺たち全員まだ途中なんだなって」
「……」
「誰か一人だけ遅れてるわけじゃない」
レイは目を伏せた。
凛が言った。
「それに、レイが戻ってくるまで待つつもりよ」
蓮司も頷いた。
「四人揃わなきゃ、いつもの俺たちじゃねえだろ」
レイは三人を見回した。
「……勝手なことを言う」
蒼真は笑った。
「そうか?」
「俺が戻る前に、お前たちが先に任務へ出ることもあるだろう」
「その時は、その時だ」
蒼真は答えた。
「でも、だからってお前を置いていくつもりはない」
レイはしばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開いた。
「……なら、必ず戻る」
蓮司が笑った。
「おう。それでこそレイだ」
夕方、蒼真たちが帰った後も、レイは窓際に座っていた。
訓練場から戻る忍びたちの姿が見える。
以前なら、その中に自分もいたはずだった。
レイは寝台の横に置かれた二本の短刀を見つめた。
そして、右手を伸ばしかけた。
しかし、途中で止めた。
「……今は、まだだ」
小さく呟く。
短刀を握ることはできるかもしれない。
だが、それで傷が悪化すれば、仲間たちとの約束を守れなくなる。
レイは手を引いた。
「……必ず戻る」
その言葉を、今度は自分自身へ言い聞かせた。
ちょうどその頃、医療所の廊下では影宗がユズハと話していた。
「四人の回復状況はどうだ?」
影宗が尋ねた。
ユズハは記録を確認した。
「蒼真さんは脇腹の傷が回復途中です。軽い動作なら可能ですが、強い風遁はまだ禁止しています」
「蓮司は?」
「腹部の傷が残っています。歩行はできますが、走ったり剣を振ったりするのは危険です」
「凛は?」
「身体の傷は比較的軽いですが、チャクラの消耗が大きいです。十分な回復が必要ですね」
影宗は頷いた。
「……レイは?」
ユズハの表情が少し険しくなった。
「四人の中では、最も時間がかかるでしょう」
「左肩か」
「はい。それに脇腹の傷もあります。二刀を扱えるようになるまでには、慎重な経過観察が必要です」
影宗はしばらく考えた。
「……本人も焦っているだろうな」
「ええ」
ユズハは頷いた。
「ですが、無理をさせるわけにはいきません」
「分かっている」
影宗は廊下の奥へ視線を向けた。
「東国の情勢は悪化している。だが、あの四人を今すぐ戦場へ送るつもりはない」
ユズハは安心したように頷いた。
「それを聞いて安心しました」
影宗は静かに答えた。
「忍びを育てるのは、戦わせるためだけではない」
「……」
「生きて帰らせることも、我々の責任だ」
ユズハは深く頭を下げた。
「承知しています」
影宗は医療所を後にした。
その背中には、指導者としての責任が重くのしかかっていた。
東国では、今も不穏な動きが続いている。
黒影衆の里にも、新たな任務が次々と舞い込んでいた。
しかし、蒼真たち四人には、まだ戦場へ戻る時が来ていない。
今は傷を癒やし、再び立ち上がるための時間だった。
レイは窓の外に広がる夕空を見つめた。
「……次に剣を握る時は」
言葉を途中で止める。
そして、静かに目を閉じた。
もう一度、仲間たちと肩を並べて戦う。
その日を迎えるために、今は待つことを選んだ。
第182話 完




