第179話「守るべき証人」
東国北部、白瀬峠の北方。
朝日が山の稜線から姿を現し始めていた。
霧の残る山道では、神楽トウマと黒頭巾の忍びが向かい合っている。
互いに負傷しながらも、どちらも武器を下ろそうとはしなかった。
「……俺が失敗すれば、次が来る」
黒頭巾の男が再び口にした。
トウマは槍を構えたまま尋ねた。
「次とは何だ。別の忍びが来るということか?」
「それを知ってどうする」
「二人の命を守るためだ」
男は短刀を握り直した。
「ならば、今すぐ二人を置いて立ち去れ」
「断る」
トウマは即答した。
「二人は我々が保護する」
「……後悔するぞ」
「脅しなら聞き飽きた」
トウマは背後へ視線を向けた。
少し離れた岩陰では、霧谷ハヤセ、望月サキ、早乙女ユウトが二人の証人を守っている。
若い男の右足は大きく腫れ、まともに歩ける状態ではない。
もう一人の男も腹部を蹴られ、動くたびに顔をしかめていた。
このまま戦い続ければ、二人を危険に晒すことになる。
トウマは決断した。
「……ハヤセ!」
「はい!」
「二人を連れて山を下りろ!」
ハヤセが顔を上げた。
「隊長は?」
「俺が敵を引き受ける」
「しかし、一人では……」
「命令だ」
トウマの声が強くなった。
「証人を守ることが最優先だ。忘れるな」
ハヤセは一瞬だけ迷った。
しかし、すぐに頷いた。
「……了解しました」
岩陰。
サキは若い男の肩を支えながら立ち上がった。
「歩ける?」
「……少しなら」
「無理しないで。ユウト、反対側をお願い」
「はい!」
ユウトが若い男の腕を肩へ回した。
背の高い男も立ち上がる。
「……俺は自分で歩ける」
ハヤセは男の顔色を確認した。
「苦しくなったら言ってください」
「分かった」
四人と二人の証人は、山道を南へ進み始めた。
しかし、若い男が何度も振り返る。
「……あの人は?」
サキが答えた。
「隊長が敵を止めてくれる」
「でも、一人で戦ってるんだろ?」
「そうよ」
「……俺たちのせいで」
若い男は俯いた。
サキは歩みを緩めずに言った。
「あなたたちを守ると決めたのは、私たち自身よ」
「……」
「だから、今は生きて山を下りることだけ考えて」
若い男は小さく頷いた。
「……分かった」
山道の中央。
黒頭巾の男は、証人たちが離れていくのを見ていた。
「……逃がすつもりか」
「そうだ」
トウマは答えた。
「追いたければ、俺を倒してからにしろ」
男は短刀を構えた。
「……ならば、そうする」
黒頭巾の男が踏み込んだ。
短刀がトウマの左肩を狙う。
トウマは槍の柄で受け止め、男の腕を押し返した。
続けて槍を横へ払う。
男は後方へ跳んだ。
「……っ!」
着地した瞬間、右肩の傷が痛んだのか、僅かに姿勢が崩れた。
トウマはその隙を見逃さなかった。
槍の石突きを男の胸元へ突き出す。
黒頭巾の男は左腕で防いだが、勢いに押されて数歩下がった。
「……まだ続けるか」
トウマが尋ねた。
男は荒い息を吐いた。
「……当然だ」
「これ以上戦えば、お前も命を落とすぞ」
「……それでも構わん」
トウマの眉が動いた。
「命を捨ててまで従う相手なのか?」
男は答えなかった。
その沈黙が、かえって異様だった。
南へ続く山道。
ハヤセたちは慎重に下山を続けていた。
道幅は狭く、右側には急な斜面が広がっている。
「……足元に気をつけてください」
ハヤセが告げた。
ユウトは若い男を支えながら頷いた。
「了解です」
サキは周囲を警戒していた。
「……このまま進めば、昨日の炭焼き小屋に出るはずよ」
ハヤセが地図を確認する。
「そこから石橋へ戻れます」
背の高い男が尋ねた。
「……黒影衆の里まで連れていくのか?」
「まずは安全な場所へ移動します」
ハヤセは答えた。
「その後、事情を聞かせてもらいます」
男は頷いた。
「……全部話す」
「お願いします」
「ただ、一つ頼みがある」
「何でしょう?」
男は真剣な表情で言った。
「……俺たちの家族を守ってほしい」
ハヤセは足を止めた。
「家族が狙われているんですか?」
「分からない。だが、依頼主は俺たちの家族のことまで知っていた」
サキが振り返った。
「……脅されたの?」
「直接は言われていない」
男は首を振った。
「ただ、名前も住んでいる場所も知られていた」
ハヤセは少し考えた。
「……分かりました。里へ報告します」
「本当か?」
「はい。ただし、今すぐ安全を保証できるわけではありません」
男は静かに頷いた。
「……それでも頼む」
その頃。
トウマは黒頭巾の男と距離を保っていた。
男の攻撃は、先ほどより明らかに鈍くなっている。
肩の傷からの出血も続いていた。
しかし、男は短刀を手放さなかった。
「……もう限界だろう」
トウマが言った。
「……黙れ」
「お前が倒れても、命令を下した者は助けに来ないかもしれんぞ」
男の目が鋭くなった。
「……何が言いたい」
「お前は使い捨てにされている可能性がある」
「……違う」
「本当にそうか?」
男は一瞬だけ動きを止めた。
トウマは続けた。
「二人を北へ連れていけと言われ、今度は口封じを命じられた」
「……」
「お前自身は、その理由を知っているのか?」
黒頭巾の男は答えなかった。
トウマは槍を下げずに言った。
「知らされていないのなら、誰のために命を懸けている?」
男の表情が僅かに歪んだ。
しかし、次の瞬間には短刀を構え直していた。
「……俺には、選択肢がない」
トウマは目を細めた。
「……どういう意味だ?」
「それ以上、聞くな」
男は再び踏み込んだ。
トウマは槍を横へ払った。
黒頭巾の男は身を屈め、懐へ飛び込もうとする。
しかし、トウマは槍を短く持ち替え、柄で男の腕を打った。
短刀が手から離れ、地面へ落ちる。
「……!」
黒頭巾の男は後方へ下がった。
トウマは追撃しなかった。
「……もう終わりにしろ」
男は落ちた短刀を見つめた。
「……まだだ」
「武器を失ってまで続けるつもりか?」
男は左手で印を結んだ。
「土遁・岩壁!」
地面から土の壁が立ち上がる。
トウマは即座に後方へ跳んだ。
「……逃げる気か!」
壁の向こうから、男の声が聞こえた。
「……覚えておけ」
「何?」
「お前たちが守ろうとしている二人は、もう狙われている」
トウマは槍を構えた。
「……だからこそ守る」
「……ならば、次はもっと多くの血が流れる」
その言葉を最後に、男の気配が遠ざかっていった。
トウマは土壁を迂回しようとしたが、足を止めた。
追えば、証人たちから離れすぎる。
「……深追いは危険か」
トウマは槍を下ろした。
「……まずは合流だ」
しばらくして。
炭焼き小屋の近く。
ハヤセたちは、若い男を休ませていた。
「……少し休みましょう」
サキが言った。
若い男は地面に腰を下ろした。
「……助かった」
ユウトも息を吐いた。
「思ったより時間がかかりましたね」
ハヤセは周囲を確認した。
「……隊長が戻るまで、ここで待機する」
サキが頷いた。
「分かった」
その時、背の高い男が口を開いた。
「……あんたたちは、俺たちの話を信じてくれるのか?」
ハヤセは男を見た。
「話を聞いて、事実を確かめます」
「……そうか」
「信じるかどうかを決めるのは、その後です」
男は少し驚いたような顔をした。
やがて、小さく頷いた。
「……それでいい」
さらに時間が経った頃。
山道の向こうから、一人の人影が現れた。
「……隊長!」
ユウトが立ち上がった。
トウマだった。
左腕には浅い傷が残り、衣服には土が付着している。
ハヤセが駆け寄った。
「ご無事でしたか!」
「ああ」
トウマは頷いた。
「敵には逃げられた」
「……そうですか」
「だが、二人を守れたなら十分だ」
トウマは証人たちを見た。
「……怪我は?」
サキが答えた。
「若い方の右足がかなり腫れています。早めに治療が必要です」
「分かった」
トウマは背の高い男へ視線を向けた。
「……話を聞かせてもらいたい」
男は頷いた。
「……全部話す」
トウマは静かに答えた。
「それなら、まず安全な場所へ移動しよう」
そして、三人の部下を見た。
「……任務は続行だ」
ハヤセ、サキ、ユウトが頷いた。
「了解!」
六人は再び山道を進み始めた。
黒頭巾の忍びは逃走した。
だが、二人の証人は黒影衆の保護下に入った。
白瀬村襲撃事件の真相へ、確かな一歩が踏み出されようとしていた。
第179話 完




