第178話「忍びの死闘」
東国北部、白瀬峠の北方。
山道に広げられた巻物から、淡い光が放たれていた。
黒頭巾の忍びは片膝をつき、右手で印を結んでいる。
その正面では、神楽トウマの両足が泥に沈み、自由を奪われていた。
「……封印術か」
トウマは巻物を見据えた。
黒頭巾の男は荒い息を吐きながら答えた。
「お前たちが、余計なことをするからだ」
「その二人を狙ったのはお前だろう」
「……黙れ」
巻物の文字が次々と光り始めた。
トウマは槍を握り直した。
「ハヤセ! 全員を巻物から離せ!」
「了解!」
霧谷ハヤセは即座に後方へ振り返った。
「サキ! ユウト! 証人を連れて下がれ!」
望月サキが頷く。
「分かった!」
早乙女ユウトは負傷した若い男の肩を支えた。
「立てますか?」
「……何とか」
「無理に走らなくていいです。俺に体重を預けてください」
二人はゆっくりと後退した。
その後ろを、腹部を蹴られた背の高い男が続く。
黒頭巾の男は、その動きを横目で確認した。
「……逃がさん」
巻物の光が一段と強くなった。
「封術・土鎖陣」
黒頭巾の男が術名を告げた。
巻物から伸びた黒い文字が地面へ広がり、土の中へ沈んでいく。
次の瞬間、トウマの足元から複数の土の鎖が伸び上がった。
「……!」
トウマは槍を横へ払った。
炎を纏った穂先が鎖の一本を砕く。
しかし、残る鎖が槍の柄へ絡みついた。
「武器まで封じるつもりか」
「お前の火遁は厄介だからな」
黒頭巾の男は立ち上がった。
「動きを止めれば、それで十分だ」
トウマは槍を引いた。
だが、鎖は地面に繋がり、容易には動かない。
黒頭巾の男は短刀を抜いた。
「……終わりだ」
男が踏み込む。
その時、横から苦無が飛んできた。
黒頭巾の男は短刀で弾いた。
「……誰だ!」
「隊長には近づかせません!」
ハヤセだった。
黒頭巾の男は舌打ちした。
「……またお前か」
「何度でも止めます」
ハヤセは苦無を構えた。
黒頭巾の男はハヤセへ向き直った。
「お前一人で、俺を止められると思うか?」
「一人ではありません」
ハヤセは答えた。
「……何?」
男が眉を寄せた瞬間、トウマが声を上げた。
「火遁・炎槍!」
槍の穂先に炎が集中する。
しかし、トウマは鎖を無理に引きちぎろうとはしなかった。
槍を地面へ押しつけ、巻物から伸びる術式の線を焼き払った。
「……っ!」
黒頭巾の男の表情が変わる。
「術式を……!」
「鎖そのものを壊す必要はない」
トウマは静かに答えた。
「術を維持している流れを断てばいい」
巻物の光が揺らいだ。
土の鎖が一本、崩れ落ちる。
黒頭巾の男は慌てて印を結び直した。
「……させるか!」
ハヤセが踏み込んだ。
苦無が男の右手を狙う。
黒頭巾の男は印を中断し、後方へ下がった。
「……邪魔をするな!」
「それが俺の役目です」
ハヤセは距離を詰めた。
少し離れた岩陰。
サキは二人の男を安全な場所へ移動させていた。
「ここなら、少なくとも巻物の術式からは離れられるわ」
若い男は地面に座り込んだ。
「……あの人たちは大丈夫なのか?」
「簡単には負けないわ」
サキは答えた。
しかし、視線は戦場へ向けたままだった。
ユウトが尋ねた。
「サキさん、俺も援護に行った方が……」
「今は駄目」
「でも、隊長たちが……」
「私たちが離れたら、この二人を誰が守るの?」
ユウトは言葉を失った。
サキは続けた。
「敵が一人とは限らない。忘れないで」
「……はい」
その時、背の高い男が口を開いた。
「……あいつは、俺たちを北へ連れていこうとしていた」
サキが振り返った。
「それは聞いたわ」
「だが、昨日までは殺そうとはしていなかった」
「……そうね」
「なのに、今は違う」
男は拳を握った。
「俺たちが戻ると言ったからだ」
若い男は俯いた。
「……やっぱり、話されたくないんだ」
サキは二人を見つめた。
「だからこそ、生きて帰ってもらう必要があるの」
山道の中央。
ハヤセと黒頭巾の男は、短い間合いで攻防を続けていた。
黒頭巾の男が短刀を突き出す。
ハヤセは苦無で受け流し、左足を軸に身体を回した。
続けて相手の手首を狙う。
しかし、男は腕を引き、肘でハヤセの肩を打った。
「……っ!」
ハヤセは後退した。
男は追撃しようとしたが、トウマの槍が横から伸びた。
「……!」
黒頭巾の男は身を屈めた。
槍の穂先が頭上を通過する。
トウマの右足は、既に泥から抜けていた。
「……もう動けるのか」
男が呟いた。
「術式が弱まっている」
トウマは左足も引き抜いた。
「お前がハヤセに気を取られている間にな」
黒頭巾の男は巻物を見た。
光は弱まり、文字の一部が焼け焦げている。
「……くそっ」
トウマは槍を構えた。
「もう一度聞く。誰の命令で動いている?」
男は答えなかった。
「二人を殺してまで隠したいものは何だ?」
「……知らない方がいい」
「それは忠告か?」
黒頭巾の男は短刀を握り直した。
「……警告だ」
トウマは男の言葉を聞き、僅かに目を細めた。
「警告する相手を間違えているな」
「……何?」
「俺たちは、村で何が起きたのかを調べているだけだ」
トウマは槍を向けた。
「その調査を妨害し、人を殺そうとしているのはお前だ」
黒頭巾の男は沈黙した。
「事情があるなら話せ」
「……話せるものか」
「なぜだ?」
男は一瞬だけ視線を逸らした。
「……俺にも、守るものがある」
トウマは答えなかった。
その言葉には、単なる脅しとは違う響きがあった。
しかし、次の瞬間。
黒頭巾の男は再び印を結んだ。
「土遁・岩槍!」
地面から鋭い岩の突起が伸び上がる。
トウマは横へ跳んだ。
ハヤセも後退する。
「……まだ術を使えるのか!」
ハヤセが叫んだ。
黒頭巾の男は荒い息を吐いた。
「……当然だ」
だが、その右肩からは血が流れ続けていた。
「隊長!」
ハヤセが声をかけた。
「敵の動きが鈍っています!」
「分かっている」
トウマは槍を握り直した。
「だが、油断するな」
黒頭巾の男は岩の突起を利用し、二人との距離を取った。
トウマは追いかけず、周囲を確認した。
岩槍によって道が狭くなっている。
その先には、サキたちが避難した岩陰があった。
「……まずいな」
トウマが呟いた。
ハヤセが尋ねた。
「どうしました?」
「敵は逃げ道を作っているんじゃない」
「……?」
「こちらの進路を制限している」
ハヤセの表情が変わった。
「……証人の方へ?」
トウマは頷いた。
「可能性がある」
その時、黒頭巾の男が地面へ手をついた。
「土遁・地潜り」
男の身体が土の中へ沈んでいく。
「……やはり!」
トウマは槍を地面へ突き立てた。
「ハヤセ、サキたちに知らせろ!」
「了解!」
ハヤセが駆け出した。
岩陰。
サキは周囲の地面に目を向けていた。
「……何かおかしい」
ユウトが振り返る。
「どうしました?」
「地面の下から、僅かに振動が伝わってくる」
ユウトは足元を見た。
「……まさか」
サキは即座に立ち上がった。
「二人を連れて離れて!」
「はい!」
ユウトは若い男の肩を支えた。
背の高い男も立ち上がる。
その直後、先ほどまで二人が座っていた場所の土が盛り上がった。
黒頭巾の男が姿を現す。
「……逃がさん」
サキは苦無を構えた。
「……やっぱり来たわね」
男は短刀を握り直した。
「どけ」
「断るわ」
「その二人を渡せば、お前たちには手を出さん」
サキは首を振った。
「さっきまで殺そうとしていた人間の言葉を、信じると思う?」
黒頭巾の男は沈黙した。
そして、短刀を構えた。
「……ならば、仕方ない」
サキも姿勢を低くした。
「ユウト、二人を頼む!」
「了解!」
黒頭巾の男が踏み込んだ。
短刀がサキの肩口を狙う。
サキは苦無で受け流した。
しかし、男は攻撃を止めず、続けて足元を払った。
「……!」
サキは後方へ跳んだ。
その隙に男は若い男へ向かって走り出す。
「……させない!」
サキが苦無を投げた。
男は身体を捻って避けた。
しかし、僅かに動きが止まる。
その瞬間、背後から声が響いた。
「……そこまでだ!」
トウマだった。
槍の穂先に炎が宿る。
「火遁・炎槍!」
黒頭巾の男は振り返った。
しかし、避けるには距離が近すぎた。
トウマは槍を突き出した。
男は短刀で受け止めたが、炎の熱と槍の勢いに押される。
「……っ!」
黒頭巾の男は後方へ弾かれ、地面に膝をついた。
トウマは追撃せず、槍の穂先を向けた。
「……これ以上はやめろ」
男は肩で息をしていた。
「……まだ、終わっていない」
「終わらせるんだ」
トウマは静かに告げた。
「お前が何を守ろうとしているのかは知らん。だが、そのために無関係の人間を殺すことは許さん」
黒頭巾の男は俯いた。
短刀を握る手が震えている。
しかし、その目から戦意は消えていなかった。
少し離れた場所。
ハヤセがサキたちと合流した。
「全員、無事か?」
「ええ」
サキは答えた。
「ただ、あの男はまだ諦めていない」
ハヤセは黒頭巾の男を見た。
「……相当な執念ですね」
ユウトが尋ねた。
「……どうして、そこまでして二人を狙うんでしょう?」
誰も答えられなかった。
黒頭巾の男は、ゆっくりと立ち上がった。
「……俺が失敗すれば、次が来る」
トウマの表情が変わった。
「……何?」
男は低い声で続けた。
「俺一人を止めても、何も変わらん」
「……どういう意味だ?」
黒頭巾の男は答えなかった。
代わりに、短刀を構え直した。
トウマは槍を握り直した。
「……ならば、何度でも止める」
霧の向こうで、朝日が山の稜線を照らし始めていた。
だが、戦いはまだ終わらない。
黒頭巾の忍びが守ろうとする秘密。
そして、その背後に存在する何者か。
真相へ続く道は、依然として閉ざされていた。
第178話 完




