第175話「追跡者の正体」
東国北部、白瀬峠の北方。
夜明け前の山道には、冷たい霧が漂っていた。
木々の間から差し込む僅かな月明かりが、湿った地面を照らしている。
古い岩屋の中で、一人の若い男が目を覚ました。
「……朝か」
男は身体を起こそうとしたが、右足に痛みが走り、顔をしかめた。
「無理に動くな」
入口に立っていた背の高い男が声をかけた。
「……起きてたのか」
「ああ。少し周囲を見てきた」
「誰かいた?」
「いや」
背の高い男は岩屋の外を見つめた。
「だが、ここに長居はできん」
若い男は俯いた。
「……昨日、戻るって言ったよな」
「ああ」
「本当に戻るんだよな?」
男は振り返った。
「約束しただろう」
若い男は小さく頷いた。
「……分かった」
二人は荷物をまとめ、岩屋を出た。
しかし、その姿を遠くから見つめる者がいた。
黒い頭巾を被った、一人の忍びだった。
「……動き出したか」
黒頭巾の男は木の枝に身を潜めながら、二人の様子を観察していた。
右手には短弓。
腰には短刀が差されている。
昨日、黒影衆の調査隊を襲撃した男だった。
男は二人の進む方向を確認した。
「……北ではないな」
二人は指定された北の道ではなく、南へ戻ろうとしている。
黒頭巾の男は懐から小さな紙片を取り出した。
そこには、短い命令が記されていた。
『二名を北の連絡地点へ誘導。離脱する場合は拘束』
男は紙片を折り畳んだ。
「……余計なことを」
そして、木の枝から静かに降りた。
山道。
背の高い男は若い男の肩を支えながら歩いていた。
「……少しは歩けるか?」
「昨日よりはましだ」
「そうか」
「でも、速くは歩けない」
「分かっている」
二人は慎重に坂道を下っていった。
やがて、若い男が口を開いた。
「……なあ」
「何だ?」
「戻ったら、本当に話すんだよな?」
「ああ」
「依頼されたことも、受け取った金のことも?」
「全部だ」
若い男は安心したように息を吐いた。
「……よかった」
背の高い男は前を向いたまま続けた。
「ただし、誰にでも話すわけにはいかん」
「どうして?」
「依頼主がどこまで手を回しているか分からんからだ」
若い男は表情を曇らせた。
「……じゃあ、誰に?」
「黒影衆だ」
「忍びの組織か?」
「ああ。白瀬村の事件を調べていると聞いた」
「……信じられるのか?」
背の高い男は少し考えた。
「少なくとも、俺たちを雇った奴よりはな」
若い男は小さく笑った。
しかし、その表情はすぐに消えた。
「……あんた」
「何だ?」
「後ろから誰か来てないか?」
背の高い男は足を止めた。
二人の背後。
霧の向こうから、一人の男が姿を現した。
黒い頭巾。
短弓。
そして、腰に差された短刀。
背の高い男の顔色が変わった。
「……お前は」
若い男が尋ねた。
「知ってるのか?」
「……仕事を終えた時に会った男だ」
黒頭巾の男は二人の前で立ち止まった。
「北へ向かうはずだったな」
低い声だった。
背の高い男は若い男を庇うように前へ出た。
「……予定が変わった」
「誰の許可を得た?」
「俺たちは、もう仕事を終えた」
黒頭巾の男は答えなかった。
背の高い男は続けた。
「約束の金も受け取った。これ以上、指示に従う理由はない」
「……そうか」
黒頭巾の男は静かに短刀へ手を伸ばした。
若い男が後ずさった。
「……何をする気だ?」
「北へ戻れ」
「断る」
背の高い男が答えた。
黒頭巾の男の目が細くなった。
「ならば、力ずくでも連れていく」
背の高い男は懐から短い護身用の刃物を取り出した。
「……近づくな」
黒頭巾の男は動じなかった。
「そんなもので何ができる」
「やってみなければ分からん」
「やめろ!」
若い男が叫んだ。
「俺たちは何もしてない!」
黒頭巾の男は若い男へ視線を向けた。
「……何もしていない?」
「ああ! 道を調べただけだ!」
「それが仕事だったのだろう」
「村が襲われるなんて聞いてなかった!」
黒頭巾の男は沈黙した。
若い男は続けた。
「人が死んだんだぞ! 俺たちのせいかもしれないんだ!」
背の高い男が制止する。
「……もういい」
しかし、若い男は止まらなかった。
「全部話す! 俺たちが何を調べたのか、誰に頼まれたのか!」
その瞬間、黒頭巾の男が踏み込んだ。
「……黙れ」
背の高い男は刃物を構えた。
だが、黒頭巾の男の動きは速かった。
手首を打たれ、刃物が地面へ落ちる。
続けて腹部を蹴られ、背の高い男は地面に倒れた。
「……ぐっ!」
若い男が叫んだ。
「やめろ!」
黒頭巾の男は若い男の腕を掴んだ。
「来い」
「離せ!」
若い男は抵抗したが、足の痛みで踏ん張れなかった。
黒頭巾の男は無理やり立たせようとした。
その時だった。
「……そこまでだ」
背後から、低い声が響いた。
黒頭巾の男が振り返った。
霧の向こうに、四つの人影が立っていた。
先頭にいるのは、槍を携えた神楽トウマ。
その後ろには霧谷ハヤセ、望月サキ、早乙女ユウトが続いている。
「……またお前たちか」
黒頭巾の男が呟いた。
トウマは静かに歩み寄った。
「昨日は随分と手荒い歓迎だったな」
「……」
「今度は、その二人を連れていくつもりか?」
黒頭巾の男は若い男の腕を掴んだまま答えなかった。
トウマは槍を構えた。
「……その手を離せ」
「断る」
「ならば、こちらも黙って見ているわけにはいかん」
黒頭巾の男は短刀を構えた。
「……邪魔をするな」
トウマは目を細めた。
「それはこちらの台詞だ」
ハヤセは倒れている背の高い男へ視線を向けた。
「隊長、あの男が負傷しています」
「分かっている」
トウマは短く答えた。
「サキ、ユウト。二人を保護しろ」
「了解!」
サキが苦無を構えた。
ユウトも隣に並ぶ。
黒頭巾の男は若い男を引き寄せた。
「……近づけば、この男がどうなるか分からんぞ」
ユウトが顔をしかめた。
「卑怯な……!」
「ユウト、落ち着いて」
サキが制した。
トウマは槍の穂先を下げずに言った。
「……お前の目的は何だ?」
「答える必要はない」
「二人を殺すつもりなら、昨日のうちにできたはずだ」
黒頭巾の男は黙った。
「だが、今は生かして連れていこうとしている」
トウマは一歩進んだ。
「……誰の命令だ?」
黒頭巾の男は短刀を握り直した。
「……それ以上、詮索するな」
「答える気はないか」
トウマは静かに息を吐いた。
「ならば、まず二人を解放してもらう」
黒頭巾の男は突然、若い男を前方へ突き飛ばした。
「……!」
若い男は足を踏ん張れず、地面に倒れかけた。
サキが駆け寄り、その身体を支えた。
「大丈夫?」
「……あ、ああ」
その瞬間、黒頭巾の男が動いた。
狙いはサキだった。
「……サキ!」
ユウトが叫ぶ。
男の短刀が振り下ろされる。
しかし、刃が届くより早く、トウマの槍が間に入った。
短刀と槍の柄がぶつかり、黒頭巾の男の腕が押し返された。
「……人質を放したのは失敗だったな」
トウマが告げた。
黒頭巾の男は後方へ跳んだ。
「……そうとも限らん」
男は懐から細い針を取り出した。
トウマの表情が変わる。
「……全員、離れろ!」
黒頭巾の男が針を投げた。
数本の針が地面へ突き刺さる。
ハヤセは倒れていた背の高い男を引き起こし、岩陰へ移動させた。
「……動けますか?」
「……ああ、何とか」
「無理はしないでください」
一方、サキは若い男を支えながら後退していた。
「ユウト、前を警戒して!」
「はい!」
トウマは黒頭巾の男と向かい合っていた。
「……昨日の弓に、今日の短刀と針」
男は答えない。
「忍びとして訓練を受けているな」
「……だったら何だ」
「所属を聞きたい」
黒頭巾の男は低く笑った。
「……聞いてどうする」
「白瀬村の襲撃事件との関係を調べる」
その言葉に、男の目が僅かに動いた。
トウマは見逃さなかった。
「……何か知っているようだな」
「知らんな」
「そうか」
トウマは槍を構え直した。
「ならば、戦いの後で聞くことにしよう」
黒頭巾の男も短刀を構えた。
「……簡単に捕まると思うな」
二人の間に、張り詰めた沈黙が流れた。
やがて、黒頭巾の男が地面を蹴った。
トウマも同時に踏み込む。
槍と短刀が交差した。
戦いは、まだ始まったばかりだった。
岩陰。
サキは若い男を座らせ、足の状態を確認していた。
「……かなり腫れているわね」
若い男は顔をしかめた。
「……歩けると思ったんだけど」
「今は無理しないで」
ユウトは二人を守るように立っていた。
背の高い男がハヤセへ尋ねた。
「……あんたたちは、黒影衆なのか?」
ハヤセは頷いた。
「そうです」
男の表情が変わった。
「……頼みがある」
「何でしょう?」
「俺たちは、話さなければならないことがある」
ハヤセは男を見つめた。
「……白瀬村のことですか?」
背の高い男は驚いたように顔を上げた。
「……なぜ、それを?」
「我々は、その事件を調べています」
男は唇を噛んだ。
そして、静かに答えた。
「……なら、聞いてくれ」
ハヤセは頷いた。
「話は安全を確保してからです」
男はトウマたちの戦いへ目を向けた。
「……分かった」
霧の中では、槍と短刀を構えた二人の忍びが再び距離を詰めていた。
黒頭巾の男の正体は、まだ明らかになっていない。
しかし、彼が二人組を北へ連れていく命令を受けていたことだけは確かだった。
その命令を下した人物こそ、白瀬村の襲撃事件に繋がる重要な手掛かりとなるかもしれなかった。
第175話 完




