第173話「逃亡者たちの目的」
東国北部、白瀬峠の北東。
山々に囲まれた谷を抜けた先には、長い年月をかけて削られた岩肌と、細い山道が続いていた。
その道を、二人の男が歩いていた。
一人は背が高く、三十代半ばほどの男。
もう一人は二十代前半の若い男だった。
若い男は右足を引きずりながら、前を歩く男の背中を追っている。
「……待ってくれ」
若い男が声をかけた。
背の高い男は足を止めた。
「またか」
「足が痛むんだ。少しくらい休ませてくれ」
「さっき休んだばかりだろう」
「それでも痛いものは痛いんだよ」
若い男は近くの岩に腰を下ろした。
背の高い男は周囲を見渡し、短く息を吐いた。
「……五分だけだ」
「分かった」
若い男は履物を脱ぎ、腫れた足首を確かめた。
赤く腫れた部分に触れると、顔をしかめる。
「……こんなことになるなら、引き受けるんじゃなかった」
背の高い男が振り返った。
「今さら何を言っている」
「だって、村が焼かれるなんて聞いてなかった」
その言葉に、背の高い男の表情が変わった。
「……声を落とせ」
「誰もいないだろ」
「山では何が聞かれているか分からん」
若い男は口を閉じた。
二人は、街道から外れた岩陰で休んでいた。
若い男が水筒を口に運ぶ。
「……なあ、あんた」
「何だ」
「俺たち、本当に何も悪いことをしてないんだよな?」
背の高い男は答えなかった。
若い男は続けた。
「頼まれたのは、村の道を調べることだけだった」
「……そうだ」
「見張りが何時に交代するか。北の林を抜ける道があるか。川の上流へ出られる場所はどこか」
背の高い男は黙って聞いていた。
「それを調べて、報告するだけだったはずだ」
「……その通りだ」
「なのに、その後で村が襲われた」
若い男は拳を握った。
「俺たちが調べた情報が、使われたんじゃないのか?」
背の高い男は目を伏せた。
「……分からん」
「本当に?」
「俺たちは、襲撃そのものには関わっていない」
「でも……」
「それ以上は言うな」
男の声が強くなった。
若い男は唇を噛んだ。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、若い男が口を開いた。
「……俺、名前も知らないんだ」
「誰の?」
「俺たちに仕事を頼んだ奴だよ」
背の高い男は顔を上げた。
「……」
「顔も隠していたし、名前も名乗らなかった」
「そういう仕事だ」
「普通じゃないだろ」
若い男は首を振った。
「ただ道を調べるだけなのに、あんな大金を払うなんて」
背の高い男は答えなかった。
若い男は続けた。
「しかも、仕事が終わったら北の峠へ向かえって……」
「……」
「俺たち、何かに巻き込まれてるんじゃないのか?」
背の高い男は遠くの山を見つめた。
「……最初から、そういう仕事だったのかもしれん」
若い男は目を見開いた。
「……あんた、知ってたのか?」
「知らん」
「でも……」
「ただ、普通の仕事ではないとは思っていた」
若い男は俯いた。
「……だったら、断ればよかった」
背の高い男は何も言わなかった。
昼過ぎ。
二人は再び歩き始めた。
山道の先には、小さな石橋が架かっていた。
橋の下を細い川が流れている。
背の高い男は橋の手前で立ち止まった。
「……ここだ」
若い男が顔を上げた。
「何が?」
「次の連絡場所だ」
「……誰か来るのか?」
「そう聞いている」
男は橋の下を確認した。
石の隙間には、小さな木札が挟まっていた。
「……あった」
男は木札を取り出した。
表面には、短い文字が刻まれている。
『北へ進め』
若い男が眉を寄せた。
「……それだけ?」
「ああ」
「誰が置いたんだ?」
「分からん」
背の高い男は木札を見つめた。
「……だが、指示は変わっていない」
若い男は不安そうに周囲を見渡した。
「……俺たち、どこまで行かされるんだ?」
男は答えなかった。
その頃。
白瀬峠の谷。
黒影衆の調査隊は、黒頭巾の男が飛び降りた岩壁の下を調べていた。
「……血痕はありませんね」
望月サキが言った。
霧谷ハヤセは木の枝を確認した。
「枝が折れている。ここを使って降りた可能性がある」
神楽トウマは頷いた。
「……だが、確証はない」
早乙女ユウトが尋ねた。
「隊長、あの男は何者だったんでしょう?」
「分からん」
トウマは答えた。
「ただ、弓と短刀の扱いには慣れていた」
ハヤセが続けた。
「こちらの動きもよく見ていました。単なる山賊とは思えません」
トウマは頷いた。
「……忍びの可能性は高い」
サキが尋ねた。
「二人組を守っていたのでしょうか?」
「そうとも限らん」
トウマは首を振った。
「二人組を逃がすためだったのか、それとも我々を谷へ近づけたくなかったのか」
ユウトは考え込んだ。
「……目的が分からないですね」
「ああ」
トウマは谷の奥を見つめた。
「だが、追跡は続ける」
夕方。
石橋の先にある山道。
背の高い男と若い男は、再び足を止めていた。
若い男の歩き方は、さらに悪くなっている。
「……もう歩けない」
背の高い男は振り返った。
「……ここまで来たんだ。もう少しだ」
「その言葉、何回聞いたと思ってる?」
若い男は地面に座り込んだ。
「……俺はもう嫌だ」
背の高い男は黙った。
「村が焼かれて、人が死んで……」
若い男の声が震えた。
「俺たちのせいかもしれないんだぞ」
背の高い男は目を伏せた。
「……分かっている」
「だったら、戻って話そう」
「……何?」
「黒影衆でも、東雲家でもいい。全部話せば……」
「駄目だ」
背の高い男は即座に答えた。
「なぜだよ!」
「……俺たちだけの問題ではなくなる」
若い男は顔を上げた。
「……どういう意味だ?」
背の高い男はしばらく黙っていた。
「……仕事を受けた時、俺は名前と住んでいる場所を伝えた」
「……」
「お前のことも聞かれた」
若い男の顔色が変わった。
「……家族のこともか?」
背の高い男は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
夜。
二人は山道の脇にある小さな岩屋へ入った。
若い男は壁に背を預け、膝を抱えていた。
「……俺の母親は、何も知らない」
背の高い男は黙っていた。
「ただ、仕事に行くって言っただけなんだ」
「……」
「もし何かあったら……」
「……今は考えるな」
若い男は首を振った。
「考えないなんて無理だよ」
背の高い男は小さく息を吐いた。
「……俺も、ここまでのことになるとは思っていなかった」
若い男は顔を上げた。
「……あんたも怖いのか?」
男はしばらく黙っていた。
「……ああ」
若い男は驚いたように目を見開いた。
背の高い男は続けた。
「だが、ここで逃げ出しても、追ってくる者がいるかもしれん」
「……」
「だから、まずは指定された場所へ行く」
若い男は俯いた。
「……その後は?」
背の高い男は答えた。
「……その時に考える」
同じ頃。
黒影衆の調査隊は、谷の出口に到着していた。
ハヤセが地図を広げる。
「……この先に石橋があります」
トウマが頷いた。
「そこまで進もう」
サキが尋ねた。
「夜間の移動になりますが、大丈夫でしょうか?」
「無理はしない。危険なら引き返す」
トウマは答えた。
ユウトは谷の奥を見つめた。
「……あの二人組、まだ近くにいるんでしょうか」
トウマは静かに答えた。
「……分からん」
そして、前を向いた。
「だが、見つけた時には話を聞く」
四人は暗くなり始めた山道を進んだ。
逃亡する二人組。
その足取りを追う黒影衆。
そして、姿を見せない依頼主。
白瀬村の襲撃事件は、単なる領地争いでは説明できない様相を見せ始めていた。
第173話 完




