第172話「高所の狙撃手」
東国北部、白瀬峠。
深い霧に包まれた谷で、黒影衆の調査隊は正体不明の襲撃者と対峙していた。
岩壁の上に立つ黒頭巾の男。
その手には短弓が握られ、既に数本の矢が放たれている。
「全員、岩陰から出るな!」
神楽トウマの指示に、三人が頷いた。
霧谷ハヤセは岩壁を見上げ、敵の位置を確認していた。
「隊長、敵は南側の岩棚にいます!」
「距離は?」
「およそ三十歩! ただし、足場が狭く、正面から登るのは危険です!」
トウマは槍を握り直した。
「……分かった」
隣では、早乙女ユウトが苦無を構えている。
「隊長、俺が上へ回り込みます!」
「駄目だ」
トウマは即座に答えた。
「相手の力量が分からない。単独行動は認めん」
「……はい」
望月サキが周囲を確認した。
「敵の狙いは、やはり足止めでしょうか?」
「可能性は高い」
トウマは東側の道を見た。
先ほどまで見えていた二人組の旅人は、既に霧の向こうへ姿を消している。
「……だが、まだ決めつけるな」
その時、岩壁の上で黒頭巾の男が動いた。
再び弓を引き、矢を放つ。
矢はトウマたちの隠れる岩の縁を削った。
「……近い!」
ユウトが身を縮めた。
トウマは敵の位置を見据えた。
「……これ以上、守るだけでは進めん」
ハヤセは周囲の地形を確認していた。
「隊長、岩壁の西側に細い斜面があります」
「登れるか?」
「足場は悪いですが、可能です」
トウマは少し考えた。
「……敵の視界から外れるか?」
「霧が濃ければ、途中までは見えないと思います」
「分かった」
トウマは三人を見た。
「俺が敵の注意を引く。その間にハヤセが西側へ回れ」
ハヤセが頷いた。
「了解しました」
「ただし、無理に接近するな。位置を確かめるだけでいい」
「はい」
サキが尋ねた。
「私たちは?」
「ユウトと一緒に、ここで援護を頼む」
「了解」
トウマは槍を構えた。
「……行くぞ」
トウマは岩陰から一歩踏み出した。
黒頭巾の男が即座に反応する。
短弓が向けられた。
しかし、トウマは足を止めなかった。
「……火遁・炎槍!」
槍の先端に炎が宿る。
トウマは地面を蹴り、岩壁の下へ向かって駆けた。
男が矢を放つ。
トウマは身体を捻り、矢を避けた。
続けて二本目。
槍の柄で軌道を逸らす。
「……なるほど」
トウマは敵の動きを見極めていた。
矢を放つ間隔は短い。
だが、連続して放てる本数には限りがある。
「……今だ!」
トウマは槍を地面へ突き立てた。
炎が岩壁の下を走り、上方へ熱気を押し上げる。
黒頭巾の男は顔を背けた。
その隙に、ハヤセが西側の斜面へ移動した。
岩壁の西側。
ハヤセは木の根を掴みながら斜面を登っていた。
「……足場が悪いな」
濡れた岩肌に足を取られそうになる。
しかし、焦らず慎重に進んだ。
上方では、黒頭巾の男がトウマへ矢を放ち続けている。
「……まだ気づかれていない」
ハヤセは低い姿勢で進んだ。
やがて、岩棚の裏側へ辿り着いた。
そこから敵の背中が見える。
「……隊長」
ハヤセは小さく呟いた。
黒頭巾の男は一人。
少なくとも、近くに別の敵の姿は見えない。
だが、岩棚の奥には狭い抜け道があった。
「……逃走経路か」
ハヤセは位置を記憶した。
そして、無理に接近せず、岩陰に身を隠した。
谷の中央。
トウマは炎槍を構えながら、敵の矢を防いでいた。
「……しつこいな」
黒頭巾の男は無言のまま、次の矢を番えた。
しかし、その動きが僅かに遅れた。
「……矢が減ってきたか」
トウマは目を細めた。
サキが岩陰から声をかけた。
「隊長! ハヤセが上へ到達したようです!」
「分かった!」
トウマは槍を握り直した。
「……ここで終わらせる」
黒頭巾の男が再び矢を放った。
トウマは槍で受け流し、岩壁へ向かって跳躍した。
足場となる岩を蹴り、少しずつ高度を上げる。
黒頭巾の男は後退した。
「……逃げる気か」
トウマは追撃しようとした。
しかし、男は突然、腰の小袋を取り出した。
「……!」
トウマが身構える。
男は小袋を地面へ投げつけた。
中から白い粉が舞い上がり、霧に混じって広がった。
「……煙幕か!」
トウマは口元を布で覆った。
視界が遮られる。
その隙に、黒頭巾の男は岩棚の奥へ走り出した。
岩棚の裏側。
ハヤセは敵の動きを確認していた。
「……来る!」
黒頭巾の男が狭い抜け道へ向かって駆けてくる。
ハヤセは苦無を構えた。
「……止まれ!」
男は足を止めた。
一瞬、二人の視線が交わる。
しかし、男は答えなかった。
次の瞬間、黒頭巾の男は短刀を抜いた。
「……やはり、忍びか!」
ハヤセは身構えた。
男が踏み込む。
短刀が横へ振られた。
ハヤセは苦無で受け流し、後方へ下がった。
「……速い!」
男は続けて突きを放った。
ハヤセは身体を捻り、刃を避ける。
しかし、袖の一部が切り裂かれた。
「……!」
ハヤセは距離を取った。
黒頭巾の男は追撃せず、抜け道へ向かおうとした。
「……逃がすか!」
ハヤセは苦無を投げた。
男は身を屈めて避けた。
その隙に、トウマが岩棚へ到達した。
「ハヤセ!」
「隊長!」
黒頭巾の男は二人に挟まれる形となった。
「……観念しろ」
トウマは槍を構えた。
「お前は何者だ?」
黒頭巾の男は答えなかった。
「白瀬村の襲撃に関わっているのか?」
沈黙。
「……あの二人組を逃がすために、我々を襲ったのか?」
男の目が僅かに動いた。
しかし、言葉はない。
トウマは槍の穂先を下げずに続けた。
「答えないなら、こちらも身柄を確保する」
黒頭巾の男は短刀を握り直した。
「……来るぞ」
トウマが低く告げた。
男は突然、トウマへ向かって踏み込んだ。
短刀が胸元を狙う。
トウマは槍の柄で受け止め、男の腕を押し返した。
「……甘い!」
続けて槍を横へ払う。
男は後方へ跳んだ。
しかし、着地した場所にはハヤセが待っていた。
「……そこだ!」
ハヤセが苦無を突き出す。
男は身体を捻って避けたが、肩の布が裂けた。
その下には、黒い装束が見えた。
「……忍装束?」
ハヤセが呟いた。
男は再び距離を取った。
岩棚の下。
サキとユウトは、上方の戦いを見守っていた。
「……隊長たちが戦っています!」
ユウトが言った。
サキは周囲を警戒した。
「ここからは援護しにくいわ」
「でも、何かできることは……」
「焦らないで」
サキは静かに答えた。
「私たちが下を守ることにも意味がある」
ユウトは頷いた。
その時、谷の奥から小さな物音が聞こえた。
サキが顔を向ける。
「……誰かいる?」
霧の向こうには、何も見えない。
しかし、地面には新しい足跡が残されていた。
「……ユウト」
「はい?」
「周囲をよく見て」
「……分かりました」
二人は苦無を構え、谷の奥を警戒した。
岩棚の上。
黒頭巾の男は、トウマとハヤセの攻撃を避けながら後退していた。
「……逃げ道はないぞ」
トウマが告げた。
しかし、男は突然、岩棚の端へ向かった。
「……まさか!」
ハヤセが叫んだ。
黒頭巾の男は躊躇なく崖から身を投げた。
「……!」
トウマは岩棚の端へ駆け寄った。
下には、深い霧が広がっている。
男の姿は見えない。
「……飛び降りたのか」
ハヤセが呟いた。
トウマは周囲を確認した。
「……下に木がある。枝を使って降りた可能性もある」
「追いますか?」
「いや」
トウマは首を振った。
「まずは下の二人と合流する」
ハヤセは頷いた。
「了解しました」
しばらくして。
四人は谷の中央で再び合流した。
「……逃げられたんですか?」
ユウトが尋ねた。
トウマは頷いた。
「ああ。だが、敵が一人だったとは限らない」
サキが報告した。
「谷の奥にも、人が通ったような痕跡がありました」
「……そうか」
トウマは考え込んだ。
ハヤセが続けた。
「黒頭巾の男は、明らかに戦闘経験がありました」
「……忍びの可能性が高いな」
トウマは頷いた。
「ただし、どこの組織かは分からん」
ユウトが尋ねた。
「……あの二人組と関係があるんでしょうか?」
トウマは静かに答えた。
「……それを確かめる必要がある」
四人は谷の奥を見つめた。
霧はまだ晴れない。
正体不明の狙撃手。
逃走した二人組。
そして、白瀬村で起きた襲撃事件。
それぞれの繋がりは、まだ明らかになっていなかった。
第172話 完




