第171話「谷に潜む影」
東国北部、白瀬峠の北東。
山々に囲まれた谷には、朝から濃い霧が立ち込めていた。
黒影衆の調査隊を率いる神楽トウマは、谷の入口で足を止めた。
後ろには霧谷ハヤセ、望月サキ、早乙女ユウトが続いている。
「……ここから先は慎重に進む」
トウマが告げた。
「視界が悪いですね」
ユウトは霧の向こうを見つめた。
「十歩先もよく見えません」
「だからこそ、互いの位置を見失うな」
トウマは三人を振り返った。
「敵がいると決まったわけではない。だが、山中では地形そのものが危険になる」
「了解しました」
ハヤセは地図を広げた。
「この谷は途中で二つに分かれています。東側は古道へ続き、西側は行き止まりです」
「まずは東側を調べる」
「はい」
四人は霧の中へ足を踏み入れた。
谷の内部は、両側を高い岩壁に挟まれていた。
足元には大小の石が転がり、ところどころに雨水が流れている。
サキは周囲を見渡した。
「……人が通った形跡はありますね」
ハヤセがしゃがみ込んだ。
「そうだな。ここは山仕事の者も使う道らしい」
「二人組の足跡は?」
ユウトが尋ねた。
「雨で流されている。今のところ判別できない」
トウマは岩壁を見上げた。
「……上から見下ろされる地形だな」
サキも顔を上げた。
「待ち伏せには向いています」
「ああ」
トウマは頷いた。
「ただし、我々が襲われる理由があるとは限らん」
その時だった。
ハヤセが右手を上げた。
「……隊長」
「何だ?」
「前方の地面が不自然です」
四人は足を止めた。
ハヤセが指差した場所には、落ち葉が薄く積もっていた。
しかし、その一角だけ土の色が違っている。
「……掘り返された跡か」
トウマが呟いた。
ハヤセは細い枝で落ち葉を払った。
その下から、縄が現れた。
「……罠ですね」
ユウトが息を呑んだ。
ハヤセは縄の周囲を慎重に調べた。
「足を引っかける仕掛けのようです」
「作動させるな」
トウマが指示した。
「はい」
ハヤセは縄の先を目で追った。
細い縄は岩陰へ伸び、その先で小さな木杭に結びつけられている。
「……転倒させるためのものですね」
サキが言った。
「ただの狩猟用では?」
ユウトが尋ねた。
ハヤセは首を振った。
「獣を捕らえるなら、もっと別の場所に仕掛けることが多い」
トウマは周囲を見渡した。
「……人を狙った可能性があるということか」
「はい。ただし、誰がいつ設置したかは分かりません」
トウマは頷いた。
「位置を記録しておけ。帰りに集落へ知らせる」
「了解しました」
ユウトは縄を見つめた。
「……あの二人組が仕掛けたんでしょうか?」
トウマは首を振った。
「まだ分からん。決めつけるな」
四人は罠を避け、先へ進んだ。
しばらく歩いた頃。
谷の奥から、人の声が聞こえた。
「……もう少しだ」
低い男の声だった。
四人は即座に足を止めた。
トウマが手で合図する。
「……姿勢を低く」
全員が岩陰に身を寄せた。
霧の向こうに、二つの人影が見えた。
一人は背が高く、もう一人は若い男。
若い男は足を引きずりながら歩いている。
ユウトが小さく息を呑んだ。
「……あの二人組でしょうか」
サキは目を細めた。
「特徴は一致しているわ」
トウマは静かに頷いた。
「……まずは様子を見る」
二人の男は、谷の分かれ道で立ち止まった。
若い男が岩に手をつく。
「……もう限界だ」
背の高い男は振り返った。
「あと少しだ」
「……何度もそう言ってるじゃないか」
「ここを抜ければ、次の道に出る」
若い男は顔をしかめた。
「……俺たちは、いつまで逃げるんだ?」
背の高い男は答えなかった。
ユウトはトウマを見た。
「……捕まえますか?」
トウマは首を振った。
「まだだ」
「でも、逃げられるかもしれません」
「分かっている」
トウマは二人を見つめた。
「だが、相手が何者か分からない。無理に接近すれば、こちらが危険になる」
ハヤセが低い声で言った。
「……隊長、二人の後方に別の足跡があります」
トウマが顔を向けた。
「何?」
「谷の入口から続いています。新しいものです」
サキが眉を寄せた。
「……ほかにも誰かいる?」
「可能性はあります」
トウマは周囲を確認した。
霧の中に、人影は見えない。
しかし、谷の静けさが不自然に感じられた。
「……全員、警戒を強めろ」
三人が頷いた。
その時。
谷の上方から、小石が落ちてきた。
トウマは即座に顔を上げた。
「……上だ!」
岩壁の上に、一人の人影が立っていた。
黒い頭巾を被った男。
その手には、短い弓が握られている。
男は無言のまま、矢を放った。
トウマはユウトの肩を引き、岩陰へ押し込んだ。
矢は地面に突き刺さった。
「……敵襲!」
ハヤセが叫んだ。
サキは苦無を構えた。
「……誰!?」
黒頭巾の男は答えなかった。
再び弓を引く。
トウマは岩壁を見上げた。
「……サキ、ユウトを守れ!」
「了解!」
「ハヤセ、上の敵を確認しろ!」
「はい!」
トウマは背中の槍へ手を伸ばした。
しかし、すぐには攻撃しなかった。
「……目的は何だ?」
黒頭巾の男は、三本目の矢を番えた。
一方、谷の分かれ道。
背の高い男と若い男も、突然の襲撃に気づいていた。
「……何だ!?」
若い男が振り返った。
背の高い男は岩壁の上を見た。
「……まずい」
「……知ってる奴か?」
「分からん」
背の高い男は若い男の腕を掴んだ。
「……ここを離れるぞ」
「待ってくれ! 足が……!」
「今は動け!」
二人は東側の古道へ向かって進み始めた。
トウマは敵の動きを観察していた。
黒頭巾の男は、こちらを狙っている。
しかし、狙いが定まっていない。
「……妙だな」
トウマが呟いた。
ハヤセが尋ねた。
「何がですか?」
「こちらを殺すつもりなら、もっと有利な位置から攻撃できたはずだ」
サキが顔を上げた。
「……足止めが目的?」
「可能性はある」
トウマは東側の道を見た。
二人組の姿は、既に霧の中へ消えかけている。
「……逃がすためか」
トウマは槍を構えた。
「ハヤセ、敵の位置を確認し続けろ!」
「了解!」
「サキ、ユウト、二人組を追うな。まずはここを抜ける!」
「はい!」
黒頭巾の男が再び矢を放った。
トウマは槍の柄で矢を弾き、岩壁の陰へ身を移した。
そして、低い声で告げた。
「……相手が誰であろうと、これ以上好きにはさせん」
谷の霧の中で、黒影衆と正体不明の襲撃者が向かい合った。
第171話 完




