第166話「和平への使者」
東国、東雲城。
朝日が城壁を照らす頃、城門の前には十名の武士が集まっていた。
その中央に立つのは、東雲家の家臣・雨宮景綱。
左肩には、白瀬村で負った傷がまだ残っている。
「……準備は整ったか?」
「はっ。いつでも出発できます」
副官の石田宗一郎が答えた。
景綱は頷き、城門を見上げた。
今回の任務は、黒田家との和平交渉。
戦場へ向かうわけではない。
しかし、刀を交える戦よりも難しい役目になるかもしれなかった。
「景綱」
背後から声がした。
振り返ると、東雲マサツグが歩いてきた。
「殿」
景綱は頭を下げた。
「今回の交渉、お前に任せる」
「必ずや、双方にとって良い道を探してまいります」
マサツグは静かに頷いた。
「無理に結論を出す必要はない」
「……はい」
「まずは互いの言い分を聞け。領地の問題も、襲撃事件も、一度の話し合いですべて解決できるものではない」
景綱は真っ直ぐに答えた。
「承知しました」
マサツグは続けた。
「それと、黒田家を敵と決めつけるな」
「はい」
「だが、警戒は怠るな」
景綱は僅かに微笑んだ。
「真壁殿にも、同じことを言われました」
マサツグは小さく笑った。
「……あいつらしいな」
東雲城を出発した一行は、白瀬川へ向かう街道を進んでいた。
周囲には田畑が広がり、農民たちが朝の仕事を始めている。
しかし、国境に近づくにつれて、その光景は変わっていった。
畑には人影が少なくなり、街道沿いには荷物を積んだ荷車が増えている。
「……避難する村人たちでしょうか」
宗一郎が尋ねた。
景綱は頷いた。
「おそらくな」
荷車を引く老人が、一行を見て足を止めた。
「……お侍様」
景綱は馬を降りた。
「どうされた?」
「黒田家との戦が始まるという噂を聞きまして……」
老人は不安そうに尋ねた。
「本当なのでしょうか?」
景綱はすぐには答えなかった。
「……今のところ、戦が始まると決まったわけではありません」
「そうですか……」
「我々は、話し合いのために向かっています」
老人は少しだけ表情を緩めた。
「……どうか、戦にならないようにしてください」
景綱は深く頷いた。
「そのために、できる限りのことをします」
老人が荷車を引いて去った後、宗一郎が呟いた。
「……民は、もう戦が始まると思っているのですね」
「ああ」
景綱は馬に乗った。
「噂だけでも、人の暮らしは変わる」
昼過ぎ。
白瀬川に架かる古い石橋。
橋の向こうには、黒田家の兵が待機していた。
その先頭に立つのは、柿崎忠勝。
「……来たか」
忠勝は東雲家の一行を見つめた。
景綱は橋の手前で馬を止めた。
「柿崎殿!」
「雨宮殿!」
二人は互いに歩み寄った。
「先日は、白瀬村でのご対応に感謝します」
景綱が頭を下げた。
忠勝は首を振った。
「礼を言われることではない。あの場で戦を始めても、何も得られなかった」
景綱は頷いた。
「……同感です」
忠勝は東雲家の兵を見渡した。
「護衛は十名か」
「はい」
「こちらも同じ人数を用意している」
景綱は少し驚いた。
「……そうでしたか」
忠勝は僅かに笑った。
「互いに、余計な警戒を与えたくないということだろう」
「そうですね」
二人は橋を渡り始めた。
その後ろを、双方の護衛が一定の距離を保って進んでいく。
黒田領、白瀬川西岸。
石橋を渡った一行は、黒田家が用意した館へ案内された。
館の周囲には兵が配置されていたが、武器を構える者はいない。
「……こちらでお待ちください」
忠勝が案内した。
景綱は頷いた。
「ありがとうございます」
広間には、既に数名の黒田家家臣が集まっていた。
その中央に座るのは、黒田家の重臣・片桐宗信。
五十代の武将で、長年にわたり黒田家の政務を支えてきた男だった。
「……東雲家の使者か」
宗信は景綱を見た。
「雨宮景綱と申します」
「片桐宗信だ」
二人は向かい合って座った。
宗信は書状を受け取ると、ゆっくりと読み始めた。
「……白瀬川の領地問題についての協議。そして、襲撃事件の情報交換か」
「はい」
「東雲家は、今回の襲撃を黒田家の仕業だと考えているのか?」
景綱は静かに答えた。
「現時点では、断定しておりません」
宗信の眉が動いた。
「……ほう」
「黒田領でも同じ夜に襲撃があったと聞いております」
「事実だ」
宗信は頷いた。
「我が領でも民が命を落としている」
景綱は深く頭を下げた。
「……お悔やみ申し上げます」
宗信はしばらく黙っていた。
やがて、書状を机に置いた。
「……では、話を始めよう」
最初の議題は、白瀬川周辺の領地問題だった。
宗信が古い地図を広げる。
「この土地は、三十年前の取り決めでは黒田家の管理下にあった」
景綱は地図を確認した。
「しかし、東雲家に残る記録では、白瀬川の東岸は我が領地とされています」
「川の流れが変わったからだ」
宗信が答えた。
「以前の川筋を基準にすれば、現在の東岸にも黒田領が含まれる」
景綱は頷いた。
「その点については、双方の記録を照合する必要があります」
宗信は腕を組んだ。
「……すぐに結論は出せんということか」
「はい」
景綱は真っ直ぐに答えた。
「ですが、結論が出るまでの間、双方の兵が村へ立ち入る際の規則を決めることはできます」
宗信が顔を上げた。
「……具体的には?」
「村人への無断徴発を禁止し、国境付近での武装した集団行動を制限するのです」
忠勝が口を開いた。
「……悪くない案だ」
宗信は少し考えた。
「だが、襲撃者への対応はどうする?」
景綱は答えた。
「村の警備は続けます。ただし、互いの領地へ無断で兵を進めないことを条件とします」
宗信は頷いた。
「……検討する価値はあるな」
会談は夕方まで続いた。
領地問題について、双方の主張が一致することはなかった。
しかし、襲撃事件の調査については、一定の合意が得られた。
「……では、互いに確認した情報を交換する」
宗信が言った。
「はい」
景綱は頷いた。
「ただし、軍の配置や兵力については、双方とも開示しない」
「承知しました」
忠勝が一枚の書類を取り出した。
「こちらが、黒田領で確認された襲撃の概要だ」
景綱は受け取った。
死者二名。
負傷者十一名。
食料の大半は奪われず、家屋が焼かれている。
「……東雲領の襲撃と似ています」
景綱が呟いた。
忠勝は頷いた。
「そうだ」
景綱は自分たちの報告書を差し出した。
「こちらも、同じような被害を受けています」
宗信が書類を読み進める。
「……襲撃の時間帯まで近いのか」
「はい」
景綱は答えた。
「偶然とは考えにくいですが、まだ繋がりは確認できていません」
宗信は書類を置いた。
「……少なくとも、調べる必要はある」
日が沈み始めた頃。
景綱たちは館を後にした。
忠勝が石橋まで見送る。
「雨宮殿」
「はい」
「今日の話し合いで、すべてが解決したわけではない」
「分かっています」
忠勝は続けた。
「だが、こうして話ができたことには意味があると思う」
景綱は頷いた。
「私も同じです」
二人は互いに頭を下げた。
「……また会おう」
「はい」
景綱は馬に乗った。
東雲家の一行は、ゆっくりと橋を渡り始めた。
忠勝はその背中を見送った。
「……戦にならなければいいが」
小さく呟く。
その夜。
黒田城。
黒田シゲノリは、片桐宗信から会談の報告を受けていた。
「……東雲家は、襲撃事件の共同調査を望んでいるのか」
「はい」
宗信が答えた。
「領地問題については結論が出ませんでしたが、互いに兵を進めない方向で協議が進んでおります」
シゲノリは頷いた。
「……悪くない」
「ただし、家臣の中には反対する者もおります」
「分かっている」
シゲノリは静かに答えた。
「だが、戦を避けるために必要なことだ」
宗信は頭を下げた。
「承知しました」
シゲノリは窓の外を見つめた。
東雲家との交渉は、まだ始まったばかり。
両家の疑念も、完全には消えていない。
それでも、僅かながら和平への道が見え始めていた。
しかし、その道がどこまで続くのか。
まだ、誰にも分からなかった。
第166話 完




