第164話「黒田家の疑念」
東国、黒田領。
白瀬川の西側に位置する小さな村は、数日前の襲撃によって大きな被害を受けていた。
焼け落ちた家屋は七軒。
死者は二名、負傷者は十一名。
村の入口には黒田家の兵が配置され、周辺の警戒を続けている。
その村へ、一人の武将が馬を進めていた。
黒田家家臣、柿崎忠勝。
白瀬川で雨宮景綱と向かい合った男である。
「……ここか」
忠勝は馬を降り、焼けた家々を見渡した。
隣には副官の大庭宗久がいる。
「殿からの命令は、襲撃事件の詳細な調査です」
「分かっている」
忠勝は歩き始めた。
「東雲家の兵が襲ったという話だったな」
「はい。生存者の中に、東雲家の旗を見た者がいます」
「……それだけか?」
宗久は少し考えた。
「現在確認できている証言では、そうなります」
忠勝は眉を寄せた。
「旗だけで犯人を決めるわけにはいかんな」
「しかし、東雲家との国境問題もあります」
「だからこそだ」
忠勝は立ち止まった。
「間違った判断をすれば、戦になる」
宗久は静かに頭を下げた。
村の中央には、負傷者を収容する小屋が設けられていた。
忠勝が中へ入ると、一人の老人が横になっていた。
右腕には包帯が巻かれている。
「……柿崎様」
老人が身体を起こそうとした。
「そのままでよい」
忠勝は近くに腰を下ろした。
「襲撃の時、何を見た?」
老人は目を伏せた。
「……東雲家の旗です」
「旗を持っていた者の顔は?」
「暗くて、よく見えませんでした」
「鎧は?」
「……黒っぽいものを着ていたと思います」
忠勝は頷いた。
「ほかに覚えていることはあるか?」
老人はしばらく黙っていた。
「……一つだけ」
「何だ?」
「襲ってきた連中は、村の食料をほとんど奪わなかったんです」
忠勝の表情が変わった。
「……食料を?」
「はい。米も干し肉も残っていました」
老人は震える声で続けた。
「でも、家には火をつけていった」
忠勝は黙った。
戦乱の時代、村を襲う者の多くは食料や金品を奪う。
しかし、今回の襲撃者は違った。
「……何を目的にしていたんだ」
忠勝は小さく呟いた。
昼過ぎ。
忠勝は村の倉庫を調べていた。
そこには焼け残った米俵が積まれている。
宗久が報告した。
「確認しました。米俵の大半は無事です」
「金品は?」
「村長の家から多少なくなっていますが、襲撃前からあったものか確認中です」
忠勝は頷いた。
「……略奪が主目的ではなさそうだな」
「では、村を焼くこと自体が目的だったのでしょうか」
「可能性はある」
忠勝は倉庫を出た。
村の北側には、小さな見張り台があった。
そこから白瀬川の方向を見渡せる。
「……宗久」
「はっ」
「この村が襲われたのは、東雲領の村と同じ夜だったな」
「はい」
「時間は?」
「こちらは夜半過ぎ。東雲領の襲撃も、ほぼ同じ頃だったと聞いております」
忠勝は腕を組んだ。
「……偶然にしては出来すぎている」
宗久が顔を上げた。
「両家を争わせようとしている者がいると?」
「まだ分からん」
忠勝は首を振った。
「だが、そう考えれば説明できることもある」
その時、一人の兵が駆け寄ってきた。
「柿崎様!」
「どうした?」
「村の西側で、妙なものを発見しました!」
忠勝は兵の後について歩いた。
村の外れには、焼けた荷車が横倒しになっていた。
その近くに、一本の矢が落ちている。
「……矢か」
忠勝は拾い上げた。
矢羽は黒く染められていた。
宗久が覗き込む。
「東雲家の矢でしょうか?」
「……いや」
忠勝は矢尻を確認した。
「この形は、東雲家のものとは違う」
「では、黒田家の?」
「それとも違う」
忠勝は矢を回した。
矢尻の根元には、細い溝が二本刻まれている。
「……見たことがない細工だ」
宗久が眉を寄せた。
「特殊な矢でしょうか」
「分からん」
忠勝は慎重に矢を布で包んだ。
「城へ持ち帰る。武具を扱う者に調べさせよう」
「承知しました」
忠勝は焼けた荷車を見つめた。
この矢が襲撃者のものとは限らない。
しかし、調べる価値はあった。
夕方。
黒田城。
忠勝は、当主・黒田シゲノリの前に立っていた。
「……食料を奪わず、家屋を焼いたか」
シゲノリは報告書を読みながら呟いた。
「はい」
「村人を殺すことだけが目的だったとも考えにくいな」
忠勝が頷いた。
「襲撃者は短時間で撤退しています。村を完全に制圧する意思もなかったようです」
シゲノリは目を細めた。
「……東雲家の仕業だと思うか?」
忠勝は少し考えた。
「現時点では、そう断定できません」
「理由は?」
「白瀬川で雨宮景綱と話しました」
シゲノリは顔を上げた。
「……あの若い武将か」
「はい。彼は、戦を避けようとしていました」
「それだけで東雲家を信用するのか?」
「いいえ」
忠勝は首を振った。
「ただ、少なくとも景綱本人は、襲撃を望んでいないように見えました」
シゲノリは黙った。
忠勝は続けた。
「もし東雲家が本当に戦を始めるつもりなら、あの場で我々に攻撃を仕掛けることもできたはずです」
「……なるほど」
「ですが、景綱は兵を下がらせました」
シゲノリは報告書を閉じた。
「……お前は、どうしたい?」
忠勝は真っ直ぐに答えた。
「襲撃者の正体を確かめたいと思います」
シゲノリは僅かに笑った。
「俺も同じ考えだ」
その後、忠勝は持ち帰った矢を城の武具職人に見せた。
職人は矢尻を丁寧に調べた。
「……これは、少し変わった造りですな」
「何が違う?」
忠勝が尋ねた。
「矢尻の根元に二本の溝があります」
「それは見れば分かる」
「問題は、その位置です」
職人は矢尻を指差した。
「普通は、矢尻を固定するために溝を刻むことがあります。しかし、この溝は固定には関係ありません」
忠勝が眉を寄せた。
「……飾りか?」
「その可能性もありますが……」
職人は首を傾げた。
「同じ細工の矢を、以前どこかで見た気がします」
「どこだ?」
「……申し訳ありません。すぐには思い出せません」
忠勝は少し考えた。
「思い出したら知らせてくれ」
「承知しました」
忠勝は矢を受け取った。
小さな二本の溝。
それが何を意味するのか、まだ分からなかった。
夜。
黒田城の城壁。
忠勝は一人、白瀬川の方向を見つめていた。
背後から足音が近づく。
「……忠勝」
振り返ると、シゲノリが立っていた。
「殿」
「まだ考えているのか」
「……はい」
シゲノリは隣に立った。
「東雲家が使者を送ってくるらしい」
忠勝が顔を上げた。
「……交渉ですか?」
「ああ。領地問題について話し合いたいそうだ」
忠勝は僅かに表情を緩めた。
「それは良い知らせですね」
「そうだな」
しかし、シゲノリの表情は険しいままだった。
「……だが、家臣たちの中には戦を望む者もいる」
忠勝は黙った。
「村が襲われ、民が死んだ。怒りを抑えられない者もいる」
「……当然だと思います」
「だからこそ、俺たちは冷静でいなければならん」
シゲノリは夜空を見上げた。
「戦を始めるのは、怒りだけでもできる」
忠勝は頷いた。
「……はい」
「だが、終わらせるには、多くの命が必要になる」
二人はしばらく黙っていた。
やがて、忠勝が口を開いた。
「殿」
「何だ?」
「もし、今回の襲撃が第三者によるものだった場合……」
シゲノリは忠勝を見た。
「……その者は、必ず次の手を打つだろう」
忠勝の表情が引き締まった。
「はい」
シゲノリは静かに言った。
「ならば、先に見つけ出すまでだ」
白瀬川を挟んで対立する二つの大名家。
その両方が、同じ疑問を抱き始めていた。
誰が村を襲ったのか。
そして、なぜ戦を望むのか。
答えは、まだ見つかっていない。
第164話 完




