第162話「燃える国境」
東国、白瀬川北部。
夜明け前の空に、黒い煙が立ち上っていた。
川沿いに広がる小さな集落では、数軒の家屋が焼け落ち、村人たちが懸命に火を消そうとしていた。
「水を運べ! まだ奥の家に火が残っている!」
「誰か、怪我人をこっちへ!」
混乱する村の入口に、十数騎の武士が到着した。
東雲家の救援隊だった。
先頭に立つのは、若き武将・雨宮景綱。
「全員、馬を降りろ!」
景綱の命令に、兵たちが一斉に動いた。
「半数は消火と負傷者の救助! 残りは村の周囲を警戒しろ!」
「はっ!」
景綱は焼けた家屋へ目を向けた。
村の中央では、一人の女性が倒れた柱の前で泣き叫んでいた。
「お願いです! 中に息子がいるんです!」
景綱はすぐに駆け寄った。
「何歳の子だ!」
「七つです! まだ家の中に……!」
景綱は燃え残った屋根を見上げた。
柱は今にも崩れそうだった。
「お前たち、こちらへ来い!」
近くの兵を二人呼び寄せる。
「柱を支えろ。俺が中を確認する!」
「景綱様! 危険です!」
「子供が残っている!」
景綱は躊躇わなかった。
口元を布で覆い、煙の残る家へ踏み込んだ。
家の中は、熱気に満ちていた。
床には焼けた木材が散乱し、奥の部屋から小さな泣き声が聞こえる。
「……誰か、いるのか!」
「……たすけて」
景綱は声のする方向へ進んだ。
崩れた棚の陰に、小さな少年がうずくまっている。
「大丈夫だ。助けに来たぞ」
少年は涙を流しながら顔を上げた。
「……お母さんは?」
「外で待っている」
景綱は少年を抱き上げた。
その時、頭上の梁が傾いた。
景綱は身体を低くし、少年を胸に抱え込む。
落ちてきた木片が左肩を掠めた。
「……っ!」
痛みが走る。
しかし、立ち止まるわけにはいかなかった。
景綱は出口へ向かい、兵たちの支える柱の間を抜けた。
「景綱様!」
兵が駆け寄る。
景綱は少年を母親へ引き渡した。
「……もう大丈夫だ」
「ありがとうございます……!」
女性は何度も頭を下げた。
景綱は左肩を押さえた。
衣服が裂け、僅かに血が滲んでいる。
「景綱様、お怪我を!」
「浅い傷だ。それより、他に取り残された者はいないか確認しろ」
「はっ!」
景綱は村全体を見渡した。
火は少しずつ弱まっている。
だが、襲撃者の姿はどこにもなかった。
しばらくして。
村の北側にある畑。
景綱は、地面に残された足跡を調べていた。
「……妙だな」
隣にいた副官・石田宗一郎が尋ねた。
「何がでしょうか?」
「馬の足跡が少ない」
景綱は地面を指差した。
「村人の話では、襲撃者は二十人以上いたらしい」
「はい」
「だが、ここに残っている馬の足跡は数頭分しかない」
宗一郎は眉を寄せた。
「……徒歩の兵が多かったのでしょうか」
「その可能性はある」
景綱は頷いた。
「だが、襲撃者は短時間で村を離れたという」
「……」
「それだけの人数が、どうやって素早く撤退した?」
宗一郎は周囲を見渡した。
「……忍びが混じっていた可能性もありますね」
景綱は黙って頷いた。
その時、別の兵が駆け寄ってきた。
「景綱様!」
「どうした?」
「村の東側で、黒田家の旗を発見しました!」
景綱の表情が変わった。
「……案内しろ」
村の東端。
焼けた柵の近くに、一本の旗が落ちていた。
黒地に白い紋。
黒田家の軍旗だった。
宗一郎が顔をしかめた。
「……やはり、黒田家の仕業では?」
景綱は旗を拾い上げた。
布の端は焦げている。
だが、旗を固定する紐には、まだ新しい結び目が残っていた。
「……おかしい」
「何がですか?」
「これだけ火が広がった場所にあったのに、紐がほとんど傷んでいない」
宗一郎が覗き込んだ。
「……確かに」
景綱は旗を丁寧に畳んだ。
「誰かが後から置いた可能性がある」
「では、黒田家ではないと?」
「そこまでは言えん」
景綱は首を振った。
「本物の黒田兵が置いた可能性もある。今は決めつけるな」
宗一郎は頷いた。
「承知しました」
その時だった。
村の外から、見張りの声が響いた。
「景綱様! 川の向こうに兵が!」
景綱が振り返る。
「……何?」
「黒田家の軍勢です!」
白瀬川の浅瀬。
川を挟んだ向こう岸に、黒田家の兵が並んでいた。
その数、およそ三十。
先頭には、槍を持った武将が立っている。
黒田家の武将・柿崎忠勝だった。
「東雲家の者か!」
忠勝が声を張り上げた。
景綱は川岸へ進み出た。
「東雲家家臣、雨宮景綱だ!」
「黒田家家臣、柿崎忠勝!」
両者は川を挟んで向かい合った。
忠勝は焼けた村を見た。
「……何があった?」
景綱は答えた。
「昨夜、この村が襲われた。家屋が焼かれ、多くの負傷者が出ている」
忠勝の表情が険しくなった。
「……こちらにも報告が入っている」
「何?」
「黒田領の村でも、昨夜、火が放たれた」
景綱は目を見開いた。
「……黒田領でも?」
「ああ。こちらでは、東雲家の兵を見たという証言がある」
宗一郎が一歩前へ出た。
「馬鹿な! 我々は救援に来たのだ!」
忠勝の兵たちが槍を構えた。
景綱はすぐに手を上げた。
「宗一郎、下がれ!」
「しかし!」
「今ここで争えば、襲撃者の思う壺かもしれん!」
宗一郎は悔しそうに口を閉じた。
忠勝も兵たちへ命じた。
「槍を下ろせ!」
両軍の緊張が、僅かに和らいだ。
景綱は川の向こうへ声をかけた。
「忠勝殿!」
「何だ!」
「我々は、黒田家との戦を望んでいない!」
忠勝は黙って聞いていた。
「昨夜の襲撃について、互いに調べる必要があると思う!」
忠勝は少し考えた。
「……同感だ」
景綱は頷いた。
「ならば、今は兵を引いてもらいたい」
「それはこちらの台詞だ」
忠勝が答えた。
「東雲家の兵が川を越えないと約束するなら、我々も引こう」
景綱は即座に答えた。
「約束する」
忠勝は頷いた。
「……分かった」
黒田家の兵たちは、ゆっくりと後退し始めた。
しかし、忠勝は最後に振り返った。
「雨宮景綱!」
「何だ!」
「次に会う時も、こうして話ができることを願っている!」
景綱は静かに答えた。
「……俺もだ!」
忠勝は馬を進め、森の奥へ姿を消した。
夕方。
白瀬川の村。
景綱は負傷者の様子を確認していた。
村人たちは、焼け残った家屋や仮設の小屋に身を寄せている。
「……景綱様」
宗一郎が近づいてきた。
「黒田家の兵は、完全に撤退したようです」
「そうか」
「しかし、妙な話ですね」
「……ああ」
景綱は頷いた。
「同じ夜に、東雲領と黒田領の村が襲われた」
「しかも、互いの軍旗が目撃されている」
「……偶然とは思えん」
景綱は焼けた村を見渡した。
誰かが、両家の争いを望んでいるのかもしれない。
だが、その正体は分からない。
「……宗一郎」
「はっ」
「この村の警備を増やせ。それと、負傷者を城下へ運ぶ準備を進めろ」
「承知しました」
景綱は遠くの川を見つめた。
「……戦を始めるのは簡単だ」
小さく呟く。
「だが、始まってしまえば、誰にも止められなくなるかもしれん」
その夜。
東雲城。
マサツグは、景綱から届いた報告書を読んでいた。
「……黒田領でも襲撃が起きた、か」
重蔵が眉を寄せた。
「殿、これは罠では?」
「可能性はある」
マサツグは頷いた。
「だが、黒田家が嘘をついている証拠もない」
「……」
「景綱の判断は正しかった。今は戦を避けるべきだ」
マサツグは報告書を閉じた。
「黒影衆への調査依頼を急がせろ」
「はっ!」
重蔵が頭を下げた。
マサツグは窓の外を見た。
夜空の向こうには、白瀬川がある。
その川を挟んで、二つの大名家が互いを警戒していた。
だが、本当の敵がどこにいるのか。
まだ、誰にも分かっていなかった。
第162話 完




