第161話「東国の火種」
東国、東雲領。
山々に囲まれた城下町の中心に、東雲城はそびえ立っていた。
その城の大広間では、重臣たちが険しい表情で向かい合っていた。
「殿! これ以上、黒田家の横暴を見過ごすわけには参りません!」
声を上げたのは、東雲家の重臣・真壁重蔵だった。
五十を過ぎた武将で、長年にわたり東雲家の軍勢を率いてきた男である。
「国境の村が三つも襲われております! もはや戦を仕掛けられているも同然!」
「落ち着け、重蔵」
上座から低い声が響いた。
東雲家当主、東雲マサツグ。
三十代後半の武将であり、東国でも有数の領地を治めている。
黒い陣羽織を身にまとい、重臣たちを見渡していた。
「襲撃した者が黒田家の兵だという証拠はあるのか?」
重蔵は言葉に詰まった。
「それは……村人の証言によれば、黒田家の旗を掲げていたと」
「旗など、誰でも用意できる」
マサツグは静かに答えた。
「それだけで兵を動かせば、相手に戦を始める口実を与えることになる」
「しかし!」
「分かっている」
マサツグの声が少し強くなった。
「村を襲われた民の苦しみを、軽く考えているわけではない」
大広間が静まり返る。
マサツグは傍らに控える若い武将へ視線を向けた。
「景綱」
「はっ」
立ち上がったのは、東雲家の若き家臣・雨宮景綱。
二十代半ばの武将で、冷静な判断力を買われていた。
「国境の状況を報告せよ」
「承知しました」
景綱は地図を広げた。
「現在、黒田家との国境付近では、双方の見張りが増加しております」
景綱は地図の中央を指差した。
「特に問題となっているのが、この白瀬川周辺です」
そこには、東雲領と黒田領を分ける川が描かれていた。
「白瀬川の東岸には、東雲家の村が五つあります。しかし、近年の川の流れの変化によって、境界が曖昧になっております」
重蔵が腕を組んだ。
「黒田家は、その土地を自分たちのものだと言い始めた」
「はい」
景綱は頷いた。
「ただし、黒田家側にも古い領地記録が存在するようです」
「何だと?」
重蔵が眉を寄せた。
景綱は続けた。
「双方が異なる記録を根拠に、同じ土地の所有権を主張している状態です」
マサツグは黙って地図を見つめた。
「……なるほどな」
「さらに、黒田家は川沿いに新たな砦を築こうとしております」
その言葉に、重臣たちがざわめいた。
「砦だと!?」
「こちらを攻める準備ではないか!」
景綱は首を振った。
「まだ断定できません。黒田家側も、東雲家の軍勢を警戒している可能性があります」
マサツグが口を開いた。
「……双方が相手を恐れ、兵を増やしているわけか」
景綱は頷いた。
「はい。このままでは、小さな衝突が大きな戦へ発展する恐れがあります」
会議が終わった後。
マサツグは城の廊下を歩いていた。
その隣には景綱がいる。
「景綱」
「はっ」
「お前は、黒田家が本当に戦を望んでいると思うか?」
景綱は少し考えた。
「……分かりません」
「正直だな」
「ただ、黒田家当主の黒田シゲノリは、無意味な戦を好む人物ではないと聞いております」
マサツグは頷いた。
「俺も同じ話を聞いている」
「では、使者を送りますか?」
「そのつもりだ」
マサツグは足を止めた。
「だが、使者を送るだけでは足りん」
景綱が顔を上げる。
「……と申しますと?」
「村を襲った者の正体を確かめたい」
マサツグは庭を見つめた。
「もし黒田家の兵ではなかったとしたら、誰が両家を争わせようとしている?」
景綱の表情が引き締まった。
「……第三者の存在を疑っておられるのですか」
「可能性の一つだ」
マサツグは静かに答えた。
「証拠もなく疑いを広げるつもりはない。だが、調べる必要はある」
「承知しました」
「忍びの力を借りる」
景綱は頷いた。
「黒影衆ですか」
「ああ」
マサツグは遠くの山々を見つめた。
「戦を始める前に、確かめられることはすべて確かめる」
同じ頃。
東国、黒田領。
黒田城の軍議室では、別の会議が開かれていた。
「東雲家が国境に兵を集めております!」
黒田家の家臣が報告した。
上座に座るのは、黒田家当主・黒田シゲノリ。
四十代半ばの武将で、慎重さと厳格さで知られている。
「……兵の数は?」
「およそ三百。ただし、全軍が戦闘態勢にあるわけではありません」
シゲノリは頷いた。
「こちらの兵は?」
「国境の砦に二百五十。増援を送れば、五百までは集められます」
「増援はまだ出すな」
家臣たちが顔を見合わせた。
「しかし、殿!」
「東雲家が攻めてきた場合、現有の兵で守り切れるのか?」
「……難しいかと」
シゲノリは静かに息を吐いた。
「ならば、退路と避難経路を整えよ。村人を戦場に残すな」
「はっ」
「それと、東雲家へ使者を送る」
一人の家臣が驚いた。
「和睦の使者ですか?」
「まずは話し合いだ」
シゲノリは机の上の地図を見つめた。
「白瀬川の土地を譲るつもりはない。だが、そのために民を死なせたいわけでもない」
その言葉に、家臣たちは黙った。
「……戦は、始めるより終わらせる方が難しい」
シゲノリは低く呟いた。
数日後。
白瀬川の東岸。
小さな農村では、村人たちが焼けた家屋の片付けをしていた。
その中に、一人の少年がいた。
年は十五ほど。
名を、篠原ハヤトという。
「……父ちゃん」
少年は、壊れた家の前で立ち尽くしていた。
父親は先日の襲撃で負傷し、今も隣村で治療を受けている。
母親は無事だったが、家畜のほとんどを失っていた。
「ハヤト!」
背後から声がした。
振り返ると、村の長老が歩いてきた。
「城から兵が来るそうだ。お前も広場へ来なさい」
「……また兵が来るのか?」
「今度は村を守るためだと言っておる」
ハヤトは拳を握った。
「……前に来た連中も、そんなこと言ってた」
長老は答えられなかった。
襲撃者たちは、黒田家の旗を掲げていた。
だが、村人の誰も、その兵が本当に黒田家の者だったのか確かめられていない。
「……俺たちは、どっちの領地なんだよ」
ハヤトは川の向こうを見た。
「東雲だろうが黒田だろうが、俺たちはここで暮らしてるだけなのに」
長老は静かに目を伏せた。
その日の夕方。
黒影衆本部。
黒崎玄十郎のもとへ、東雲家から正式な依頼が届いていた。
内容は、白瀬川周辺の偵察と襲撃事件の調査。
神楽トウマが書簡を読み終えた。
「……戦への協力要請ではないのですね」
「ああ。今のところはな」
玄十郎が答えた。
「東雲家は、襲撃者の正体を知りたがっている」
「黒田家との戦を避けるためですか」
「その可能性が高い」
玄十郎は別の報告書を手に取った。
「だが、黒田家も兵を動かしている。状況は予断を許さん」
トウマは頷いた。
「偵察隊の人選は?」
「経験のある上忍を中心に編成する。国境での交戦は極力避けろ」
「承知しました」
玄十郎は少し考えた。
「それと、蒼真たちについては……」
トウマが顔を上げる。
「復帰をお考えですか?」
「まだだ」
玄十郎は首を振った。
「ユズハの許可が必要だ。特にレイは長期の療養が続いている」
「……そうですね」
「だが、いずれ若い忍たちも戦国の現実を知ることにする」
玄十郎は窓の外を見つめた。
「その時、何を守るべきか、自分たちで考えられるようになってほしい」
夜。
東雲城。
マサツグは一人、城の高台に立っていた。
眼下には、静かな城下町が広がっている。
家々には灯りがともり、人々はいつも通りの生活を送っていた。
「……この暮らしを守るために、戦をするのか」
マサツグは呟いた。
「それとも、戦をしないことが守ることになるのか」
答えは、まだ出ていない。
その時、景綱が現れた。
「殿。黒影衆への依頼は、無事に届いたとのことです」
「そうか」
「それと……黒田家から使者が向かっているという報告が入りました」
マサツグが振り返った。
「黒田家から?」
「はい。詳細は不明ですが、交渉を求めている可能性があります」
マサツグは少しだけ表情を緩めた。
「……ならば、まだ道はある」
景綱が頷いた。
「はい」
しかし、その直後。
別の家臣が慌ただしく駆け込んできた。
「殿! 白瀬川の北側で、再び火の手が上がったとの報告が!」
マサツグの表情が変わった。
「……何だと?」
「国境の見張りが確認したそうです!」
景綱が地図を広げた。
「北側には、小さな集落が二つあります!」
マサツグは即座に命じた。
「救援隊を出せ! ただし、黒田家の兵と遭遇しても先に攻撃するな!」
「はっ!」
家臣が走り去る。
マサツグは暗い空を見上げた。
遠くの山の向こうに、赤い光が僅かに見えていた。
「……誰が、何のために」
東国の平穏は、少しずつ崩れ始めていた。
そして、この小さな火種が、やがて多くの忍びと武将の運命を変えることになる。
第161話 完




