第157話「忍びの意地」
北側旧街道、深夜。
黒い文字に囲まれた空間で、犬飼シンは膝をついていた。
目の前には、幾重にも重なった黒い壁がある。
その向こうに、仮面の忍の姿が見えた。
「……どうする、シン」
佐伯イツキが尋ねた。
右肩からは血が滲んでいる。
傷は深くないものの、短刀を握る腕には痛みが残っていた。
「まずは、この術の仕組みを確かめる」
シンは壁に触れようとした。
しかし、指先が近づいた瞬間、腕に強い痺れが走った。
「……っ!」
慌てて手を引く。
「触れるな。術が身体に干渉してくる」
イツキは眉を寄せた。
「斬って壊すのも危険か」
「恐らくな」
壁の向こうから声が聞こえた。
「無駄な抵抗はやめろ」
仮面の忍だった。
「その檻は、力任せに破れるものではない」
シンは顔を上げた。
「……随分と自信があるようだな」
「事実を言っているだけだ」
仮面の忍は懐から黒札を取り出した。
「お前たちは、知る必要のないことに踏み込みすぎた」
「だったら教えてもらおうか」
イツキが言った。
「誰の命令で動いている?」
仮面の忍は答えなかった。
代わりに、黒札へ指を滑らせた。
檻の内側に新たな文字が浮かび上がる。
シンはすぐに立ち上がった。
「イツキ、下がれ!」
二人の足元に、細い線が伸びてきた。
イツキは後方へ跳んだ。
しかし、右肩の痛みで姿勢が崩れる。
「……くっ!」
シンが腕を掴み、支えた。
「無理をするな!」
「分かってる!」
黒い線は二人の足元を通り過ぎ、反対側の壁へ繋がった。
その瞬間、周囲の景色が変わった。
林が消え、代わりに黒影衆本部の廊下が現れる。
「……本部?」
イツキが目を見開いた。
見慣れた廊下。
壁に掛けられた灯籠。
その奥から、誰かが歩いてくる。
「イツキ」
聞き覚えのある声だった。
現れたのは、如月セツナだった。
「任務は終了よ。こちらへ来なさい」
イツキが一歩踏み出しかけた。
だが、シンが腕を掴んだ。
「待て」
「……何だ?」
「ここは旧街道だ」
シンは目の前のセツナを見つめた。
「本物のセツナ様が、何の連絡もなくここへ来るはずがない」
イツキは息を呑んだ。
「……幻術か」
目の前のセツナは、穏やかな表情のまま立っている。
「どうしたの? 二人とも」
シンは答えなかった。
代わりに目を閉じ、足元の土へ意識を向けた。
湿った地面。
冷たい夜風。
木の葉が擦れ合う音。
見えている景色とは違う感覚が、確かに残っている。
「……イツキ、俺の声だけを聞け」
「ああ」
「目を閉じろ。足元の感触を確かめるんだ」
二人はゆっくりと呼吸を整えた。
やがて、廊下の景色が薄れていく。
セツナの姿も消えた。
再び現れたのは、黒い文字に囲まれた森だった。
「……戻った」
イツキが呟いた。
シンは頷いた。
「幻術そのものは、絶対じゃない」
檻の外。
仮面の忍は、二人の様子を見つめていた。
「……また幻を破ったか」
男は黒札を握り直した。
その表面には、三本の細い線が刻まれている。
だが、札の端には小さな亀裂が生じていた。
先ほどから何度も術を使った影響なのか。
男は一瞬、札を見つめた。
「……長引かせるべきではないな」
仮面の忍は石碑の方向へ視線を向けた。
本来なら、情報部門の忍を足止めするだけで十分だった。
しかし、二人は予想以上に粘っている。
男は新たな札を取り出した。
「……これで終わらせる」
「シン、あれを見ろ」
イツキが壁の一部を指差した。
黒い文字が、一定の間隔で明滅している。
「……何か気づいたか?」
「さっきから、あの部分だけ光が弱い」
シンは目を凝らした。
確かに、壁全体が同じ強さで光っているわけではなかった。
「……術の流れに偏りがあるのか」
シンは懐から、先ほど剥がした札の破片を取り出した。
そこにも、似た文字が記されている。
「この術は、複数の札を繋げているのかもしれない」
「なら、どこか一つを壊せば……」
「術全体が弱まる可能性はある」
ただし、確証はない。
シンは壁の外側を見た。
木の幹に貼られた札。
石碑の根元。
そして、仮面の忍が持つ黒札。
「……イツキ」
「何だ?」
「俺が合図したら、あの光の弱い部分へ短刀を突き立ててくれ」
イツキは右肩を押さえた。
「……分かった」
「無理なら左手を使え。傷を悪化させるな」
「心配するな。まだ動ける」
シンは小さく頷いた。
「俺は術の流れを乱す」
「……どうやって?」
「札の破片を使う」
イツキは驚いた。
「危険じゃないのか?」
「危険だ。だから、長くは続けられない」
シンは破片を見つめた。
「でも、何もしなければここから出られない」
イツキは短刀を握り直した。
「……なら、やろう」
シンは札の破片を地面に置いた。
そして、少量のチャクラを流し込む。
破片に刻まれた文字が、淡く光った。
その瞬間、檻の壁が僅かに揺れた。
「……反応した!」
イツキが声を上げる。
だが、次の瞬間。
シンの腕に強い痺れが走った。
「……っ!」
身体が前へ傾く。
「シン!」
「まだだ……!」
シンは歯を食いしばった。
札の破片と檻の文字が、互いに干渉している。
(……このままでは、身体が持たない)
しかし、壁の一部が確かに薄くなっていた。
「イツキ、今だ!」
イツキは短刀を構えた。
右肩に痛みが走る。
それでも、足を踏み出した。
「……ここで終わってたまるか!」
短刀の先端が、光の弱まった部分へ突き立てられる。
黒い文字が乱れた。
そして、壁の一部に亀裂が走った。
「……!」
仮面の忍が振り返った。
「何だと……!」
シンはすぐにチャクラを止めた。
「イツキ、離れろ!」
二人は後方へ跳んだ。
次の瞬間、亀裂が広がり、黒い文字の壁が崩れ始めた。
幻封陣・黒迷ノ檻。
その一角が、ついに破られた。
「……出られたな」
イツキが荒い息を吐いた。
シンは片膝をついたまま頷いた。
「……ああ」
だが、二人とも消耗していた。
特にシンの右腕には、まだ痺れが残っている。
仮面の忍は、少し離れた場所に立っていた。
「……まさか、あの術を破るとはな」
イツキが短刀を構える。
「次はお前の番だ」
男は静かに笑った。
「まだ戦えるつもりか?」
「……当然だ」
シンも立ち上がった。
「俺たちは、ここで引くわけにはいかない」
仮面の忍は二人を見つめた。
「……忍びの意地、というやつか」
シンは答えた。
「違う」
「……何?」
「俺たちは、仲間を守るために真実を追っている」
シンは一歩前へ出た。
「お前たちのせいで、脅され、傷ついた人間がいる」
三枝ナオト。
そして、その弟ハルキ。
彼らの顔が脳裏をよぎった。
「……これ以上、好きにはさせない」
仮面の忍は黙った。
やがて、ゆっくりと短刀を抜いた。
「……なら、止めてみろ」
月明かりの下。
三人は再び向かい合った。
戦いは、まだ終わっていない。
第157話 完




