第152話「再び並び立つ日まで」
黒影衆本部、医療棟。
午前の診察を終えた神崎レイは、窓際の椅子に座っていた。
左肩には厚い包帯が巻かれ、腕は固定されている。
脇腹の傷もまだ完全には塞がっていなかった。
「……」
レイは右手を開き、ゆっくりと握った。
以前なら、この手には短刀が握られていた。
もう片方の手にも同じように刀を持ち、二刀で敵の攻撃を捌く。
それが自分の戦い方だった。
しかし、今は左手の指を動かすだけでも痛みが走る。
「……まだ、これだけか」
レイは小さく呟いた。
その時、扉が開いた。
「レイ、ここにいたのか」
入ってきたのは蓮司だった。
「……何の用だ」
「いや、診察が終わったから顔を見に来たんだよ」
蓮司は隣の椅子に腰を下ろした。
「調子はどうだ?」
「変わらない」
「そうか……」
蓮司はレイの左腕を見た。
「少しは指、動くようになったんだろ?」
「……少しだけだ」
「なら、前進してるじゃないか」
レイは答えなかった。
蓮司は自分の腹部に手を当てた。
「俺もまだ思い切り動けないしな。昨日なんか、階段を急いで上っただけでユズハさんに怒られた」
「……お前は懲りないな」
「いや、急いでたんだって!」
「理由にならない」
レイが淡々と言うと、蓮司は苦笑した。
「お前までユズハさんみたいなこと言うなよ」
その時、廊下から声が響いた。
「蓮司!」
二人が振り返る。
凛が扉の前に立っていた。
「……ここにいたのね」
「お、おう。どうした?」
「医療棟の廊下を走ったって聞いたんだけど」
「走ってない! ちょっと早歩きしただけだ!」
「同じようなものよ!」
蓮司は肩を落とした。
「……なんで毎回ばれるんだよ」
「あなたが目立つからでしょ」
レイは二人のやり取りを見て、僅かに口元を緩めた。
しばらくして。
三人は医療棟の休憩室に移動した。
凛は湯飲みを並べながら尋ねた。
「レイ、今日の診察はどうだった?」
「……まだ任務復帰は無理だそうだ」
「そう……」
「左肩の回復には時間がかかるらしい」
蓮司が頷いた。
「焦るなよ。俺たちだって、まだ復帰できないんだから」
レイは窓の外を見た。
「……お前たちとは違う」
蓮司の表情が変わった。
「何が?」
「俺は、左腕が元通り動くかも分からない」
静かな声だった。
凛は湯飲みを置いた。
「……ユズハさんは、何て言ってたの?」
「回復には時間が必要だと。それ以上のことは、まだ判断できないそうだ」
レイは右手を握った。
「二刀を使えなければ、今までと同じ戦い方はできない」
蓮司は黙っていた。
レイが弱音を口にすることは珍しかった。
だからこそ、軽々しく励ます気にはなれなかった。
「……レイ」
凛が静かに言った。
「今、答えを出さなくてもいいんじゃない?」
「……」
「治るかどうか分からないことと、もう治らないことは違うわ」
レイは凛を見た。
「もちろん、簡単に元通りになるとは言えない。でも、今は治療を続けるしかないと思う」
「……そうだな」
レイは小さく頷いた。
昼過ぎ。
医療棟の診察室。
白石ユズハは、レイの左手を慎重に確認していた。
「指を少し動かしてみて」
レイは言われた通りに動かした。
人差し指が僅かに曲がる。
しかし、それ以上動かそうとすると肩に痛みが走った。
「……っ」
「そこまで」
ユズハはすぐに止めた。
「無理に動かさないで」
「……分かりました」
ユズハは記録をつけた。
「前回より指の反応は少し良くなっているわ」
「……本当ですか」
「ええ。ただし、まだ回復の途中よ」
レイは左腕を見つめた。
「……いつになれば刀を握れますか」
ユズハは筆を置いた。
「今は、その時期を約束できない」
「……」
「肩の傷だけじゃない。血を多く失った影響も残っているし、脇腹も治りきっていない」
レイは黙って聞いていた。
「無理に訓練を始めれば、回復が遅れる可能性もあるわ」
「……はい」
ユズハは少し声を和らげた。
「焦る気持ちは分かる。でも、今のあなたに必要なのは戦うことじゃない」
レイが顔を上げる。
「治すことよ」
レイはしばらく沈黙した。
そして、静かに答えた。
「……分かりました」
夕方。
医療棟の中庭。
蒼真がゆっくりと歩いていると、長椅子に座るレイの姿が見えた。
「レイ」
声をかけると、レイが顔を上げた。
「……蒼真か」
「隣、いいか?」
「ああ」
蒼真は腰を下ろした。
二人の間を、穏やかな風が通り抜けた。
「今日、コウガさんと少し修行したんだ」
蒼真が話し始める。
「……もう動いているのか」
「本格的な訓練じゃないよ。風を感じたり、落ち葉の動きを見たりするだけ」
「……そうか」
蒼真は少し笑った。
「最初は簡単だと思ったんだけど、意外と難しくてさ」
レイは静かに聞いていた。
「でも、コウガさんに言われたんだ。強くなることだけが修行じゃないって」
「……」
「使わないと決めることも、大事な判断だって」
レイは左腕に視線を落とした。
「……俺には、今は使うことすらできない」
蒼真はすぐには答えなかった。
やがて、静かに言った。
「俺も、まだ風影刀を自由には使えないよ」
レイが顔を上げる。
「……お前は違うだろう」
「違わないさ」
蒼真は首を振った。
「俺だって、あの刀のことを全部分かってるわけじゃない。無理に使えば、仲間を危険にさらすかもしれない」
「……」
「だから今は、できることから始めようと思ってる」
レイはしばらく黙っていた。
「……お前は、変わったな」
「え?」
「以前なら、もっと無茶をしていただろう」
蒼真は苦笑した。
「……それは否定できないな」
レイの口元が僅かに緩んだ。
「蓮司ほどではないが」
「それはそうだな」
二人は小さく笑った。
日が沈む頃。
蓮司と凛が中庭へやってきた。
「おーい、二人とも!」
蓮司が手を振る。
「こんなところにいたのか!」
「蓮司、走らないで!」
後ろから凛が注意する。
「走ってないって!」
蒼真は笑った。
「相変わらずだな」
「お前まで言うなよ!」
蓮司は長椅子の前で立ち止まった。
「なあ、みんな」
「何?」
凛が尋ねる。
「俺たち、いつになったら一緒に任務へ行けるんだろうな」
その言葉に、四人は少し黙った。
以前なら、次の任務のことを当たり前のように話していた。
だが、今はそれぞれが傷を抱えている。
特にレイの回復には、まだ長い時間が必要だった。
「……すぐには無理だろうな」
レイが答えた。
蓮司は頷いた。
「だよな」
「でも」
凛が口を開いた。
「いつかまた、一緒に任務へ行きたいわ」
蒼真が頷く。
「俺もだ」
蓮司は笑った。
「だったら、まずは全員ちゃんと治さないとな!」
「あなたが一番守れなさそうだけどね」
凛が呆れたように言う。
「なんでだよ!」
「今日も階段を急いで上ったんでしょ?」
「それ、まだ言うのか!?」
蒼真が笑い、レイも僅かに肩を揺らした。
四人の笑い声が、静かな中庭に広がった。
まだ、誰も万全ではない。
それぞれに不安があり、焦りもある。
それでも、再び肩を並べて戦いたいという気持ちは同じだった。
蒼真は仲間たちの顔を見渡した。
「……次に一緒に任務へ行く時はさ」
三人が蒼真を見る。
「今度こそ、全員で帰ってこよう」
蓮司が笑った。
「当たり前だろ!」
凛も頷いた。
「ええ。絶対にね」
レイは少し間を置き、静かに答えた。
「……ああ」
夕暮れの空の下。
四人は、それぞれの未来へ向けて、もう一度歩き始めようとしていた。
第152話 完




