第151話「風の修行、再び」
黒影衆本部、東側訓練場。
朝の冷たい風が、木々の葉を揺らしていた。
蒼真は訓練場の端に立ち、右手をゆっくりと握った。
脇腹の傷は以前より痛まなくなっている。
しかし、身体を大きく捻ると、まだ鈍い痛みが残っていた。
「……もう少し、動けると思ったんだけどな」
「その考えが一番危ない」
背後から声がした。
振り返ると、風間コウガが歩いてきた。
「おはようございます、コウガさん」
「ああ。身体の具合はどうだ?」
「普通に歩く分には問題ありません。でも、急に動くと少し……」
「なら、今日は急に動くな」
コウガは木刀を一本、蒼真に差し出した。
「構えてみろ」
蒼真は受け取った。
「木刀ですか?」
「風影刀を使う前に、確かめたいことがある」
蒼真は両足を開き、木刀を正面に構えた。
だが、右足を引いた瞬間、脇腹に痛みが走った。
「……っ」
「そこまでだ」
コウガがすぐに声をかけた。
「まだ無理な姿勢は取るな」
「すみません」
「謝る必要はない。今の自分がどこまで動けるか、知ることも修行だ」
蒼真は木刀を下ろした。
「……分かりました」
二人は訓練場の隅に移動した。
そこには、小さな石がいくつか並べられていた。
「今日は刀を振らない」
コウガが言った。
「え?」
「その代わり、これを使う」
コウガは地面から一枚の落ち葉を拾った。
「前にも似たようなことをしたな」
「はい。石を使って、仲間との連携を考える修行でした」
「そうだ。今日は少し違う」
コウガは落ち葉を平らな石の上に置いた。
「この葉を、向こうの石まで運んでみろ」
蒼真は首を傾げた。
「手で、ですか?」
「いや。風でだ」
「……風遁を使ってもいいんですか?」
「術を発動するほど練るな。まずは呼吸と、周囲の風を感じるだけでいい」
コウガは腕を組んだ。
「ユズハからも、まだ本格的な風遁は禁止されているからな」
蒼真は頷いた。
目を閉じる。
頬に触れる風。
木々の間を抜ける空気。
足元を転がる枯れ葉。
以前よりも、それらの動きがはっきりと感じられるようになっていた。
「……右から、少し風が来ています」
「そうだな」
「でも、途中で向きが変わって……」
「無理に動かそうとするな。まずは見極めろ」
蒼真は目を開いた。
落ち葉が僅かに揺れている。
風が強くなるのを待つ。
やがて、葉が石の上を滑り始めた。
しかし、目的の石へ向かう途中で横へ流されてしまった。
「あ……」
蒼真は思わず手を伸ばしかけた。
「触るな」
コウガが止めた。
「……すみません」
「今、どうして手を出そうとした?」
「失敗しそうだったので……」
「それだ」
コウガは落ち葉を拾い直した。
「お前は、何かが上手くいかないと、自分で何とかしようとする」
蒼真は黙った。
「仲間を守る時も同じだ。全部、自分の力で止めようとする」
「……」
「だが、風はお前の思い通りに吹くわけじゃない」
コウガは葉を石に戻した。
「大事なのは、無理に逆らうことじゃない。流れを読んで、必要な時に動くことだ」
しばらくして、二人は訓練場の木陰に腰を下ろした。
蒼真は膝の上に木刀を置いていた。
「……コウガさん」
「何だ?」
「風影刀のことなんですけど」
コウガは蒼真を見た。
「まだ気になっているのか」
「はい」
蒼真は少し俯いた。
「ジンさんが危険だと言っている理由も、分かるんです」
「……ああ」
「俺自身、あの刀の力を全部理解しているわけじゃありません」
蒼真は右手を見つめた。
地下の風の道で見た光景。
刀に触れた時に感じた、不思議な気配。
そして、頭の中に響いた言葉。
『守るべきものを、間違えるな』
今でも、その意味は分からない。
「……でも、だからって手放したくないんです」
コウガは黙って聞いていた。
「風影刀があったから、守れたものもあります」
「そうだな」
「だけど、もし俺が力を間違えて使ったら……」
蒼真は言葉を止めた。
コウガが尋ねる。
「仲間を傷つけるかもしれない、と?」
「……はい」
少しの沈黙が流れた。
やがて、コウガが口を開いた。
「蒼真。刀が危険かどうかと、お前が刀を持つ資格があるかどうかは、別の話だ」
蒼真が顔を上げる。
「……別の話?」
「ああ。未知の力があるなら、調べる必要がある。それはジンの言う通りだ」
コウガは続けた。
「だが、危険だからといって、何も知らないまま遠ざけるだけでは、理解する機会も失う」
「……」
「だから玄十郎様は、調査を認めたんだろう」
蒼真は頷いた。
「影宗さんも、俺の意思を尊重してくれました」
「なら、お前もその信頼に応えろ」
「どうすればいいんでしょうか」
「焦らないことだ」
コウガは即答した。
「強い術を覚えることだけが成長じゃない。使わないと決めることも、立派な判断だ」
蒼真はその言葉を繰り返した。
「……使わないと決めること」
「ああ」
コウガは立ち上がった。
「お前が本当に仲間を守りたいなら、まず自分の身体を守れ」
蒼真は苦笑した。
「ユズハさんにも同じことを言われそうです」
「間違いなく言われるな」
二人は小さく笑った。
昼前。
訓練場に戻った蒼真は、再び落ち葉の前に立っていた。
「もう一度、やってみてもいいですか?」
コウガは頷いた。
「ただし、無理はするな」
「はい」
蒼真は目を閉じた。
風の流れを感じる。
強く動かそうとはしない。
ただ、葉がどちらへ向かおうとしているのかを見極める。
やがて、穏やかな風が吹いた。
落ち葉が石の上を滑る。
途中で少し横へ逸れたが、蒼真は手を出さなかった。
風向きが変わるのを待つ。
そして、葉はゆっくりと目的の石の近くへ流れ着いた。
「……あ」
蒼真は目を開いた。
「届いた……」
「正確には、少し手前だな」
コウガが笑った。
「でも、さっきより良くなった」
蒼真は嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます!」
「礼を言うのはまだ早い」
「え?」
「今日の修行はここまでだ」
蒼真は驚いた。
「もうですか?」
「十分だ。傷が治りきっていないことを忘れるな」
「……はい」
コウガは木刀を受け取った。
「次に来る時も、ユズハの許可を取ってからだぞ」
「分かりました」
蒼真は訓練場を振り返った。
風に揺れる木々。
地面に落ちた葉。
そして、まだ自分には分からないことばかりの風影刀。
強くなりたいという気持ちは変わらない。
だが、今は急ぐべき時ではないのかもしれない。
「……コウガさん」
「何だ?」
「俺、ちゃんと風影刀のことを知りたいです」
コウガは頷いた。
「そのために、俺たちがいる」
「……はい!」
蒼真は深く頭を下げた。
風影刀に秘められた力の正体は、まだ分からない。
それでも、蒼真は一つのことを学び始めていた。
力を持つことと、その力を正しく扱うことは、決して同じではない。
そして、仲間を守るためには、時に仲間を信じ、自分自身を守ることも必要なのだと。
第151話 完




