第150話「忍びの決断」
黒影衆本部。
朝の光が差し込む一室で、三枝ナオトは静かに座っていた。
情報部門の保護下に置かれてから、数日が経っている。
補給部門の仕事から外され、外出にも制限が設けられていた。
机の上には、小さな木彫りの鳥が置かれている。
十年前、弟のハルキが作ってくれたものだった。
「……ハルキ」
ナオトは鳥を手に取った。
その時、扉が叩かれた。
「三枝さん。如月です」
「……どうぞ」
入ってきたのは、情報部門の責任者である如月セツナだった。
彼女の表情を見て、ナオトは何かあったのだと察した。
「……弟に、何か?」
セツナは向かい側に座った。
「昨日、ハルキさんの働く薬草店に、不審な男が訪れました」
ナオトの顔色が変わった。
「ハルキは……無事なんですか?」
「はい。現在は警護を強化しています」
その言葉を聞き、ナオトは胸を撫で下ろした。
しかし、安心は長く続かなかった。
セツナは一枚の紙を机に置いた。
「男が残した伝言です」
ナオトは文字を読んだ。
『三枝ナオトへ。約束を忘れるな。弟の居場所は分かっている』
「……」
紙を持つ指が震えた。
「まだ……弟を利用するつもりなのか」
セツナは静かに尋ねた。
「この言葉に、心当たりはありますか?」
ナオトは頷いた。
「……あります」
そして、目を伏せた。
「最初に、あの男から協力を求められた時のことです」
二十日ほど前。
黒影衆本部の補給倉庫。
ナオトは一日の仕事を終え、帳簿を片づけていた。
そこへ、頭巾を被った人物が現れた。
「三枝ナオトだな」
「……そうですが」
「北側第二補給所の担当記録を確認したい」
相手は懐から命令書を取り出した。
黒影衆本部の印章が押されている。
「正式な命令ですか?」
「急ぎの案件だ。上には話が通っている」
ナオトは書類を確認した。
形式に不自然な点は見当たらなかった。
だが、署名だけが僅かに滲んでいた。
「……発行元を確認してもよろしいでしょうか」
「時間がない」
相手の声が低くなった。
「北側の補給が滞れば、任務中の忍が困ることになる」
ナオトは迷った。
しかし、正式な印章がある以上、命令を無視するわけにもいかないと思った。
「……分かりました」
その時だった。
相手が、何気なく言った。
「弟は元気か?」
ナオトの手が止まった。
「……なぜ、弟のことを?」
「南東の宿場町で働いているそうだな」
「……」
「薬草店だったか」
ナオトは相手を見つめた。
「何が言いたいんですか?」
頭巾の人物は答えなかった。
ただ、命令書を机の上へ置いた。
「頼まれた仕事をしてくれれば、それでいい」
その言葉を聞いた瞬間、ナオトは理解した。
これは単なる補給任務ではない。
相手は、弟の存在を利用して自分を従わせようとしているのだ。
「……あの時から、私は間違っていたんです」
ナオトは俯いたまま話していた。
「正式な命令ではないかもしれないと、薄々気づいていました」
セツナは黙って聞いている。
「ですが、弟のことを持ち出されて……逆らえませんでした」
「その人物の特徴は、以前話してくれた通りですか?」
「はい。細身で、低い声でした。右足を少し引くように歩いていました」
ナオトはそこで言葉を止めた。
「……待ってください」
セツナが顔を上げる。
「何か思い出しましたか?」
「最初に会った日ではありません。二度目に会った時のことです」
ナオトは記憶を辿った。
「あの人物は、倉庫の裏で私を待っていました。その時、別の忍が近くを通ったんです」
「別の忍?」
「はい。巡回中の中忍だったと思います」
「顔は見ましたか?」
「暗かったので、はっきりとは……」
ナオトは眉を寄せた。
「ただ、あの人物は、その忍が近づいてきても逃げようとしませんでした」
セツナは静かに尋ねた。
「知り合いだった可能性がある?」
「分かりません。でも……」
ナオトは顔を上げた。
「その忍は、私たちの方を見た後、何も言わずに通り過ぎたんです」
「……」
「普通なら、夜の倉庫裏で顔を隠した人物を見かければ、声をかけるはずです」
セツナは頷いた。
「確かに、確認する理由にはなるわね」
「……それだけではありません」
ナオトは続けた。
「その忍が通り過ぎる直前、頭巾の人物が小さく手を動かしたんです」
「手を?」
「はい。指を二本、胸元に当てるような動きでした」
セツナは手帳を開いた。
「合図だったと思いますか?」
「当時は気にしませんでした。でも、今考えると……」
「分かったわ。重要な証言として記録します」
セツナは筆を走らせた。
ただし、それが仲間同士の合図だったとは、まだ決まっていない。
偶然の仕草だった可能性も残っていた。
しばらくして。
ナオトは机の上の木彫りの鳥を見つめた。
「……セツナ様」
「何でしょう」
「弟に、伝言を届けてもらえませんか」
「内容によりますが、可能です」
ナオトは深く息を吸った。
「私のことは心配するな、と」
セツナは静かに答えた。
「……それだけでいいんですか?」
ナオトは少し驚いた。
「え?」
「ハルキさんは、あなたを助けたいと話していたそうです」
「……ハルキが?」
「はい。自分ももう子供ではない、と」
ナオトは目を見開いた。
そして、ゆっくりと俯いた。
「……そうですか」
長い沈黙が流れた。
やがて、ナオトは小さく笑った。
「私は、いつまでもあいつを子供だと思っていたんですね」
セツナは何も言わなかった。
「両親が亡くなってから、私が守らなければと……ずっと、そればかり考えていました」
ナオトは木彫りの鳥を握った。
「ですが、弟にも自分の考えがある。私が勝手に決めていいことではありませんでした」
顔を上げる。
「伝言を変えてもいいですか?」
「ええ」
「……必ず、もう一度会いに行く。それまで、どうか無事でいてほしい」
セツナは頷いた。
「伝えます」
午後。
情報部門の執務室。
セツナは佐伯イツキに、ナオトの新しい証言を説明していた。
「倉庫裏で、別の忍が通り過ぎた……」
イツキは手帳を見つめた。
「その人物が協力者だった可能性もありますね」
「ええ。でも、まだ分からない」
「巡回記録を調べますか?」
「お願い」
セツナは続けた。
「ナオトさんが二度目に接触した日の夜。補給倉庫周辺を担当していた忍を確認して」
「承知しました」
イツキは立ち上がった。
「それと、セツナ様」
「何?」
「三枝さんの処遇は、どうなるのでしょうか」
セツナは少し考えた。
「今すぐ結論は出せないわ」
「……」
「命令に従って不正な補給を手配した事実は消えない。でも、脅迫されていたことも考慮しなければならない」
「そうですね」
「まずは事件の全容を明らかにする。それが先よ」
イツキは頷き、部屋を出ていった。
夕方。
ナオトのいる部屋に、再びセツナが訪れた。
「三枝さん」
「はい」
「一つ、確認したいことがあります」
「何でしょう」
「今後、あの人物から再び連絡があった場合、私たちに協力してもらえますか?」
ナオトは迷わず答えた。
「……はい」
セツナは続けた。
「ただし、あなたを危険な場所へ送り出すつもりはありません。必要なことはこちらで判断します」
「分かっています」
ナオトは真剣な表情になった。
「私は、自分がしたことから逃げません」
「……」
「弟を守りたいという気持ちは、今も変わりません。ですが、そのために他の忍や仲間を危険にさらしていいわけではなかった」
セツナは静かに頷いた。
「その言葉、覚えておきます」
ナオトは机の上の木彫りの鳥へ目を向けた。
「……今度こそ、正しいことをしたいんです」
窓の外では、夕日が黒影衆の里を照らしていた。
過去の過ちを消すことはできない。
だが、その過ちと向き合い、これから何をするかを選ぶことはできる。
三枝ナオトは、ようやく自分の意思で歩き始めようとしていた。
第150話 完




