第148話「監視の目」
黒影衆本部、西棟。
朝の文書管理室には、任務報告書を提出する忍たちが次々と訪れていた。
その中に、一人の中忍がいた。
男は勤務変更届を手に、受付の順番を待っている。
「次の方、どうぞ」
声をかけられ、男は書類を差し出した。
「第三警備班の勤務変更届です」
「確認しますので、少々お待ちください」
受付の忍が書類に目を通す。
その間、男は室内へ視線を向けた。
奥の机では、宮坂シゲルが古い帳簿を調べている。
机の上には、命令書の控えや用紙の管理記録が並んでいた。
「……随分、忙しそうですね」
男が尋ねる。
「ええ。情報部門から過去の記録を確認してほしいと頼まれていまして」
「情報部門ですか?」
「はい。命令書の発行記録についてです」
男の目が僅かに細くなった。
「……何か問題でも?」
「詳しいことは分かりません。ただ、古い命令書を何枚か確認しているようです」
「そうですか」
男はそれ以上尋ねなかった。
「書類に問題はありません。受理します」
「ありがとうございます」
男は軽く頭を下げ、文書管理室を後にした。
廊下へ出ると、歩調を変えずに西棟の出口へ向かう。
しかし、その表情からは先ほどまでの穏やかさが消えていた。
「……発行記録まで調べ始めたか」
男は誰にも聞こえない声で呟いた。
同じ頃。
情報部門の執務室。
如月セツナは、三枚の命令書の写しを並べていた。
北側監視塔の巡回交代。
古文書庫の整理。
北側巡回班への倒木確認。
どれも正式な命令書に見える。
だが、発行記録が確認できず、署名の周囲には不自然な滲みがあった。
「セツナ様」
佐伯イツキが入ってきた。
「文書管理室から追加の報告が届きました」
「聞かせて」
「不足している命令書用紙四枚について、廃棄記録を確認しているそうです。ただ、現時点では該当する記録が見つかっていません」
セツナは考え込んだ。
「……四枚とも不正に使われたとは限らないわね」
「はい。過去の記録漏れという可能性もあります」
「それでも、調べる価値はある」
イツキは頷いた。
「それと、もう一つ気になることが」
「何かしら?」
「昨日、文書管理室の担当者が、調査内容について何人かの忍に尋ねられたそうです」
セツナが顔を上げた。
「誰に?」
「通常の書類提出に来た忍たちです。特別、不審な行動はなかったそうですが……」
「……そう」
セツナは命令書を見つめた。
調査が進めば、周囲に知られる機会も増える。
もし内部に協力者がいるなら、こちらの動きが伝わっている可能性もあった。
「イツキ」
「はい」
「これから調査内容を共有する範囲を少し絞りましょう」
「内部に監視している人物がいると?」
「まだ分からないわ」
セツナは静かに答えた。
「だからこそ、決めつけずに確かめるの」
昼過ぎ。
黒影衆本部の中庭。
朝、文書管理室を訪れた中忍は、人通りの少ない通路を歩いていた。
周囲には訓練場へ向かう忍が数人いるだけだった。
男は古い井戸の前で立ち止まった。
懐から小さな紙片を取り出す。
そこには短い文章が記されていた。
『情報部門、命令書の発行記録を調査中』
男は紙を折り畳み、井戸の縁にある石の隙間へ差し込んだ。
「おい、そこで何をしている?」
突然、背後から声をかけられた。
振り返ると、巡回中の忍が立っていた。
「少し休んでいただけです」
男は落ち着いて答えた。
「こんな場所でか?」
「静かな場所がよかったので」
巡回の忍は井戸を見た。
「ここは古いからな。あまり近づかない方がいいぞ」
「分かりました」
男は頭を下げ、その場を離れた。
歩きながら、僅かに眉を寄せる。
「……余計なことを聞かれたな」
だが、振り返ることはなかった。
夕方。
情報部門の執務室。
セツナは、北側巡回班の証言を読み返していた。
「……右足を僅かに引く歩き方」
イツキが頷いた。
「藤堂アキラの証言ですね」
「ええ。三枝ナオトの証言にも似た特徴がある」
「同じ人物でしょうか?」
「その可能性はあるわ。でも、まだ断定できない」
セツナは書類を閉じた。
「黒札を持つ人物と、偽造命令を届けた人物が同じとも限らないもの」
「……複数人が関わっている可能性もありますね」
「そうね」
その時、扉が叩かれた。
入ってきたのは犬飼シンだった。
「セツナ様、少し報告が」
「どうしたの?」
「中庭を巡回していた忍から、気になる話を聞きました」
シンは昼過ぎの出来事を説明した。
古い井戸の前にいた中忍。
休憩していたという説明。
そして、普段はほとんど人が近づかない場所だったこと。
「……なるほど」
セツナは腕を組んだ。
「それだけで疑うことはできないわね」
「はい。ただ、念のため報告しました」
「ありがとう。明日、井戸の周囲を確認しましょう」
イツキが尋ねた。
「その中忍の身元も調べますか?」
「まずは巡回記録と勤務記録を照らし合わせて。本人への確認は、その後よ」
セツナは窓の外を見た。
「もし誰かが私たちを監視しているなら、焦って動く必要はないわ」
夜。
黒影衆本部、西棟。
古い井戸の前に、頭巾を深く被った忍が現れた。
周囲に人影がないことを確かめ、石の隙間へ指を伸ばす。
取り出したのは、小さな紙片だった。
忍はそれを開いた。
『情報部門、命令書の発行記録を調査中』
「……思ったより早い」
低い声が漏れた。
忍は紙片を懐にしまった。
「巡回の変更だけなら、偶然で済ませられた。だが、古文書庫の命令まで調べられているとなると……」
そこで言葉を止める。
遠くから巡回の足音が近づいてきた。
忍は建物の陰へ身を移した。
二人の警備忍が通り過ぎる。
「最近、情報部門が忙しそうだな」
「ああ。何か調べているらしい」
「また夜叉衆絡みか?」
「さあな。俺たちには何も聞かされていない」
二人は会話を続けながら去っていった。
頭巾の忍は、その背中を見送った。
「……まだ、こちらのことまでは掴んでいない」
だが、安心した様子はなかった。
「三枝ナオトも、余計なことを話したようだな」
忍は暗い空を見上げた。
「これ以上、情報が渡る前に……」
最後まで言葉にせず、踵を返した。
その姿は夜の闇へ消えていった。
翌朝。
情報部門の執務室。
セツナは、シンからの報告を受けていた。
「井戸の石の隙間に、最近何かを差し込んだような擦れがありました」
「中には?」
「何も残っていません」
「……そう」
「紙片のような薄いものなら、入れられそうです」
セツナは頷いた。
「分かったわ。痕跡は記録しておいて」
イツキが尋ねた。
「誰かが連絡に使っていたのでしょうか?」
「可能性はある。でも、証拠はまだ足りない」
セツナは机の上に置かれた命令書へ視線を移した。
偽造された可能性のある三つの命令。
消えた古文書。
黒札。
そして、調査の進展を気にする者の存在。
それらが一つの事件なのか、それとも別々の思惑が重なっているのか。
まだ答えは出ていなかった。
「……イツキ、シン」
「はい」
「調査は今まで通り続けます。ただし、次に何を調べるかは必要な者だけで共有しましょう」
二人が頷いた。
セツナは静かに続けた。
「相手がこちらを見ているのなら、私たちも相手の動きを見極める必要がある」
窓の外では、朝の訓練が始まっていた。
いつもと変わらない黒影衆の里。
しかし、その平穏な日常の裏側で、見えない監視が続いていた。
第148話 完




