第146話「消えた足跡」
一 北側旧街道
黒影衆の里から北へ向かう山道。
かつて商人や旅人が行き交っていた旧街道は、新しい街道が整備されてから、ほとんど使われなくなっていた。
道幅は狭く、両側には背の高い木々が並んでいる。
雨が降れば土がぬかるみ、夜になれば月明かりさえ届かない場所もある。
その旧街道の入り口に、三人の忍が立っていた。
如月セツナ。
情報部門所属の中忍・佐伯イツキ。
そして、追跡術を得意とする中忍・犬飼シン。
「ここから先が、旧街道です」
イツキが地図を広げた。
セツナは頷く。
「昨夜までの報告では、頭巾の人物が本部の北側へ向かったところまで確認されている」
シンが周囲を見渡した。
「この道を通ったとは限らないんですよね?」
「ええ」
セツナは地図の一点を指差した。
「北側には、旧街道以外にも山へ入る道がある。まずは、通行した痕跡がないか確認しましょう」
イツキが尋ねる。
「もし足跡が見つかったら、追いますか?」
「痕跡の状態によるわ」
セツナは二人を見た。
「今日は捕縛が目的じゃない。経路を確かめることが優先よ」
「承知しました」
三人は木々の間へ進んだ。
二 残された地面
旧街道へ入ってしばらくすると、シンが足を止めた。
「……セツナ様」
「何かあった?」
「この辺りを見てください」
シンは道の端にしゃがみ込んだ。
そこには、湿った土が広がっている。
「昨日の夜から今朝にかけて、少し雨が降っています」
セツナが頷く。
「ええ」
「だから、雨が降る前についた足跡なら、輪郭が崩れているはずです」
シンは地面を指差した。
「でも、ここの足跡は比較的はっきり残っています」
イツキもしゃがんだ。
「……確かに」
足跡は二組あった。
一つは、底の広い履物。
もう一つは、忍が使う足袋に近い形だった。
セツナが尋ねる。
「どちらも同じ時間についたもの?」
シンは首を振った。
「そこまでは分かりません。ただ、足袋の方が上から重なっています」
「……後から通った可能性があるのね」
「はい」
セツナは足跡を見つめた。
「向きは?」
「北です」
シンは道の先を指差した。
「少なくとも、ここを北へ向かった人物がいたことは確かです」
イツキが顔を上げた。
「頭巾の忍でしょうか?」
セツナは答えた。
「まだ分からないわ」
「……はい」
「旧街道を使う忍が、全くいないわけではないもの」
セツナは続けた。
「ただし、通行記録と照らし合わせる価値はある」
イツキは手帳へ書き留めた。
シンは足跡の大きさを測り、簡単な図を描いた。
「……もう少し先を確認しましょう」
三人は再び歩き始めた。
三 途切れた痕跡
旧街道を進んで半刻ほど。
シンが再び立ち止まった。
「……おかしいな」
セツナが振り返る。
「どうしたの?」
シンは道の中央を見つめていた。
「さっきの足袋の跡が、ここで途切れています」
イツキが周囲を見渡した。
「木の上へ移動したんじゃないですか?」
「その可能性はある」
シンは頷いた。
「でも、枝が折れた様子もないし、木の幹にも目立った痕跡がない」
セツナはしゃがみ込んだ。
地面には、最後の足跡が一つ残っていた。
その先は、湿った土が続いている。
しかし、足跡はない。
「……跳躍した可能性は?」
セツナが尋ねる。
シンは周囲を確認した。
「忍なら、ここから数間ほど跳ぶことはできます」
「着地点は?」
「それらしい跡が見つかりません」
イツキが木々の上を見上げた。
「枝を伝って移動したとか?」
「考えられる」
シンは立ち上がった。
「ただ、それなら枝の表面に何か残っているかもしれません」
セツナは頷いた。
「調べましょう」
三人は手分けして周囲を確認した。
木の幹。
枝。
落ち葉。
岩の表面。
しかし、決定的な痕跡は見つからなかった。
しばらくして、イツキが戻ってきた。
「……見つかりません」
シンも首を振った。
「こちらもです」
セツナは最後の足跡を見つめた。
「……消したのかもしれないわね」
イツキが顔を上げる。
「足跡を、ですか?」
「ええ」
「そんなことができるんですか?」
シンが答えた。
「できる。足跡を消す技術自体は、忍なら珍しくない」
「……」
「ただ、湿った土の上で完全に消すのは簡単じゃない」
セツナは静かに頷いた。
「それに、最初から足跡を残さず移動することもできたはず」
イツキが考え込む。
「……途中から、わざわざ?」
「そう」
セツナは周囲を見渡した。
「ここで移動方法を変える理由があったのかもしれない」
しかし、それが追跡を警戒したためなのか、別の道へ入るためなのかは分からなかった。
四 古い分かれ道
三人は旧街道の脇を調べ始めた。
やがて、シンが草むらの前で立ち止まった。
「……セツナ様」
「何?」
「ここに、古い道があります」
イツキが近づく。
「道?」
「ええ。今は草に覆われていますが、昔は人が通っていたようです」
シンは草をかき分けた。
その先には、細い獣道のような通路が続いていた。
セツナは地図を広げた。
「……この道は載っていないわね」
イツキが尋ねる。
「旧街道の支道でしょうか?」
「可能性はあるわ」
セツナは周囲を見た。
「ただ、今も使われているかどうかは分からない」
シンはしゃがみ込み、地面を調べた。
「……」
しばらくして、指先で草の根元を示した。
「ここです」
イツキが覗き込む。
「……何かありますか?」
「草が倒れています」
「風じゃないんですか?」
「風でも倒れる。でも、ここは根元から同じ方向へ押されています」
セツナは頷いた。
「何かが通った可能性があるのね」
「はい」
シンは続けた。
「ただし、人か獣かまでは分かりません」
セツナは立ち上がった。
「少しだけ進みましょう」
イツキが尋ねる。
「奥まで調べますか?」
「いいえ。まずは道の状態を確認するだけ」
セツナは二人を見た。
「地形を把握せずに深入りするのは危険よ」
三人は慎重に草むらへ入った。
五 山中の石標
細い道を進んでしばらくすると、古い石標が現れた。
表面には苔が生え、刻まれた文字の一部は読めなくなっている。
イツキが近づいた。
「……こんな場所に石標が」
シンは周囲を見渡した。
「昔は、こちらも正式な道だったのかもしれませんね」
セツナは石標の前にしゃがんだ。
苔を少し払う。
『北……』
その下には、さらに文字が続いていた。
しかし、風化が進み、判読できない。
「……古い道案内ね」
セツナは呟いた。
イツキが地図を確認する。
「この先は、北側第二補給所のある山域に近づきます」
セツナが顔を上げた。
「……そうなの?」
「はい。ただ、直通しているかどうかは分かりません」
セツナは考え込んだ。
北側第二補給所。
不正な物資が運び込まれ、古文書と思われる巻物が持ち去られた場所。
そして、今回の旧街道。
二つの場所が、地形の上では繋がる可能性がある。
「……調べる必要があるわね」
シンが尋ねる。
「このまま進みますか?」
セツナは首を振った。
「今日はここまでにしましょう」
イツキが少し驚く。
「……戻るんですか?」
「ええ」
セツナは石標を見つめた。
「今の情報だけで、これが相手の使った道だと決めつけるわけにはいかない」
「……」
「それに、この先の地形も分かっていない」
シンが頷いた。
「確かに、三人で奥へ進むのは危険ですね」
セツナは立ち上がった。
「石標の位置を記録して、戻りましょう」
六 巡回記録の空白
午後。
黒影衆本部・情報室。
セツナは旧街道の調査結果を整理していた。
机の上には、シンが描いた足跡の図。
イツキが記録した石標の位置。
そして、北側の巡回記録が並べられている。
「……」
セツナは一枚の記録を手に取った。
旧街道周辺の巡回担当者を記したものだった。
その中に、気になる部分があった。
「……この時間帯」
セツナは筆で印をつけた。
前日の夜。
本部北側を巡回していた忍の記録に、短い空白がある。
巡回開始時刻。
次の確認地点。
そして、帰還時刻。
通常なら記載されているはずの中間地点の確認が、抜けていた。
セツナは部下を呼んだ。
「イツキ」
「はい」
「この巡回記録を確認して」
イツキは書類を受け取った。
「……何かありましたか?」
「中間地点の記載がないの」
イツキは目を通した。
「……本当ですね」
「担当者は?」
「……北側巡回班の二名です」
セツナは頷いた。
「その二人に確認を取って」
「承知しました」
イツキが退出する。
セツナは別の記録を開いた。
「……」
以前、北側監視塔の記録が消されていた。
今回も、巡回記録に空白がある。
しかし、同じ人物が関わっているとは限らない。
単なる記入漏れの可能性もある。
セツナは慎重に書類を重ねた。
「……まずは、本人に聞かないと」
七 巡回忍の証言
しばらくして。
情報室に、二人の巡回忍が呼ばれた。
一人は中忍の松原ケンジ。
もう一人は若い下忍の藤堂アキラだった。
二人は緊張した様子で頭を下げた。
「……お呼びでしょうか」
セツナは頷いた。
「座って」
二人が椅子へ腰を下ろす。
セツナは巡回記録を広げた。
「昨日の夜の巡回について確認したいの」
ケンジが頷く。
「はい」
「この中間地点の確認が抜けているけど、何かあった?」
ケンジは書類を見た。
「……ああ」
少し考える。
「その時間は、道の確認をしていました」
セツナが尋ねる。
「道の確認?」
「はい。北側の通路に倒木があるという連絡が入ったので」
「誰から?」
ケンジは首を傾げた。
「……伝令だったと思います」
セツナの目が細くなる。
「名前は?」
「……すみません。覚えていません」
「顔は?」
「頭巾を被っていました」
セツナは筆を止めた。
「……頭巾?」
ケンジが頷く。
「はい」
セツナは慎重に尋ねた。
「その人物は、何か身分を示すものを持っていた?」
ケンジは少し考えた。
「……命令書は持っていました」
「札は?」
「……札?」
「黒い札よ」
ケンジは首を振った。
「いえ。見ていません」
セツナは頷いた。
「分かったわ」
隣のアキラが口を開いた。
「……あの」
セツナが顔を向ける。
「何?」
「俺、その伝令の人を少しだけ見ました」
「……そうなの?」
「はい」
アキラは続けた。
「でも、ケンジさんと話している時、俺は少し離れていたので」
セツナは頷いた。
「覚えていることだけでいいわ」
アキラは少し考えた。
「……背は、そんなに高くなかったと思います」
「他には?」
「……歩き方が、少し変でした」
セツナの表情が変わった。
「……どう変だった?」
アキラは自分の足元を見た。
「右足を、少し引くような……」
セツナは静かに筆を置いた。
三枝ナオトの証言。
頭巾を被った人物。
そして、右足を引くような歩き方。
特徴が重なっていた。
しかし、それだけで同一人物とは断定できない。
「……ありがとう」
セツナは二人を見た。
「その伝令から受け取った命令書は、残っている?」
ケンジが頷いた。
「はい。巡回班の書類箱に保管しています」
セツナは静かに答えた。
「確認させてもらえる?」
「もちろんです」
八 不自然な命令
夕方。
情報室へ、巡回班の命令書が届けられた。
セツナは慎重に紙を広げた。
内容は簡潔だった。
『北側通路に倒木の報告あり。巡回班は確認を優先すること』
その下には、黒影衆本部の印が押されている。
そして、担当者の署名。
セツナは署名を見つめた。
「……」
文字の輪郭が、僅かに滲んでいた。
以前の北側監視記録。
古文書庫の整理命令。
どちらにも見られた、不自然な署名の状態。
セツナは書類を机へ置いた。
「……また、同じような処理がされている」
イツキが顔を上げる。
「……偽造ですか?」
「可能性は高いわ」
「……」
「ただし、印章そのものが偽物かどうかは、まだ確認できていない」
セツナは続けた。
「それに、命令を出した人物が誰なのかも分からない」
イツキは頷いた。
「……はい」
セツナは地図を広げた。
旧街道。
北側巡回路。
そして、倒木の確認地点。
それぞれを指でなぞる。
「……巡回班がこちらへ向かった間」
セツナは地図の一点を示した。
「旧街道の入り口付近は、監視が薄くなっていた可能性がある」
イツキが顔を上げた。
「……つまり、誰かが通るために巡回を移動させた?」
セツナは首を振った。
「まだ、そうとは限らない」
「……」
「本当に倒木があった可能性もあるわ」
イツキは頷いた。
「……確認します」
「お願い」
九 追跡の限界
夜。
情報室。
旧街道の調査を終えたシンが、最後の報告をしていた。
「……足跡について、もう一度確認しました」
セツナが顔を上げる。
「どうだった?」
「忍の足袋に近い形ですが、黒影衆の標準装備と断定できません」
「……そう」
「それと、足跡が途切れた場所ですが」
シンは図を広げた。
「周囲の木々には、目立った着地痕がありませんでした」
セツナは頷いた。
「つまり、地面を移動した可能性も残るわね」
「はい」
シンは続けた。
「足跡を消したのか、別の場所へ跳んだのか、今のところ判断できません」
セツナは静かに答えた。
「分かったわ」
シンは少し悔しそうな表情を見せた。
「……申し訳ありません」
セツナは首を振った。
「十分よ」
「……」
「追跡できなかったという事実も、記録しておく必要がある」
シンは頷いた。
「……はい」
セツナは地図を見つめた。
北側旧街道。
草に隠された古い支道。
そして、風化した石標。
今回の調査で、新しい道の存在が確認された。
しかし、そこを正体不明の忍が通った証拠は、まだない。
「……次は、古い地図を調べましょう」
シンが顔を上げる。
「古い地図ですか?」
「ええ」
セツナは続けた。
「この道が、昔どこへ繋がっていたのかを知りたい」
シンは頷いた。
「承知しました」
十 見えない通行人
深夜。
黒影衆本部・情報室。
セツナは一人、今日の調査記録をまとめていた。
確認できた事実は、いくつかある。
旧街道には、比較的新しい足跡が残されていた。
その足跡は途中で途切れていた。
道の脇には、地図に載っていない古い支道があった。
そして、北側巡回班は、頭巾を被った人物から倒木確認の命令を受けていた。
その命令書の署名には、不自然な滲みがあった。
「……」
セツナは筆を置いた。
疑わしいことは増えている。
しかし、まだ一つの結論には至らない。
「……同じ人物なのか」
ナオトに接触した忍。
北条ユウキを監視塔から離れさせた忍。
巡回班へ命令を伝えた忍。
そして、旧街道を通ったかもしれない人物。
それぞれが同一人物である可能性はある。
だが、別々の人物が協力している可能性もある。
セツナは小さく息を吐いた。
「……焦ってはいけないわね」
証拠を積み重ねる。
一つずつ確かめる。
その先にしか、真実はない。
セツナは地図を折り畳んだ。
最後に、古い支道の位置へ小さな印をつける。
その道が何を意味するのか。
今は、まだ分からない。
しかし、調査すべき場所が一つ増えたことだけは確かだった。
セツナは灯りを落とした。
黒影衆の里は、静かな夜を迎えていた。
その静けさの裏で、何者かの足跡は途切れたままだった。
第146話 完




