第145話「黒札の解析」
黒影衆本部・封印術研究棟。
朝の冷たい空気が、石造りの廊下に漂っていた。
本部の東側に建てられたこの研究棟には、通常の任務では使用されない特殊な忍具や、古い封印術の記録が保管されている。
その最奥にある第二解析室。
天野ミコトは、机の上に置かれた小さな木箱を見つめていた。
中に収められているのは、三枝ナオトが情報部門へ提出した証拠品。
黒い札の欠片だった。
「……さて」
ミコトは椅子へ腰を下ろした。
「あなたは、何のために作られたのかしら」
箱を開く。
布の上には、親指の爪ほどの黒い破片が置かれていた。
表面には細かな文字が刻まれ、縁には三本の細い線が残っている。
一見すると、古い通行許可札の一部にも見える。
しかし、普通の許可札であれば、これほど複雑な加工を施す必要はない。
ミコトは手袋をはめ、欠片を専用の台へ移した。
「まずは、素材からね」
机の引き出しを開き、小さな筆と白い紙を取り出す。
欠片の表面に残された黒い粉を、ごく少量だけ紙へ移した。
そして、その紙を光へかざした。
「……墨だけじゃない」
粉の中には、僅かに銀色の粒が混じっていた。
ミコトは眉を寄せた。
「金属粉……?」
まだ断定はできない。
彼女は観察結果を記録し、次の準備を始めた。
午前。
第二解析室の扉が叩かれた。
「ミコト、入ってもいい?」
如月セツナの声だった。
「どうぞ」
扉が開き、セツナが姿を現した。
「おはよう」
「おはよう、セツナ」
ミコトは机の上の欠片を示した。
「ちょうど調べ始めたところよ」
セツナは隣へ歩み寄った。
「何か分かった?」
「まだ確かなことは少ないけど、普通の木札ではないわね」
「素材が違うの?」
「ええ」
ミコトは欠片の断面を示した。
「表面は黒く塗られているけど、内部には薄い金属の層がある」
セツナは目を細めた。
「……金属?」
「それも、かなり薄いものよ。外からは分からないように挟み込まれている」
「何のために?」
「そこを調べているところ」
ミコトは小さな道具を取り出した。
先端に透明な結晶が取り付けられた、封印術の反応を調べる器具だった。
「少し離れていて」
セツナが一歩下がる。
ミコトは結晶へ微量のチャクラを流した。
淡い光が結晶の内部に広がる。
そして、欠片へ近づけた。
「……」
結晶の光が僅かに揺れた。
セツナが尋ねる。
「反応しているの?」
「ええ。でも、かなり弱い」
「欠けているから?」
「その可能性は高いわ」
ミコトは器具を離した。
「ただ、この反応には少し気になるところがある」
「何?」
「術式そのものが力を生み出しているわけじゃないの」
セツナは首を傾げた。
「……どういうこと?」
ミコトは欠片を見つめた。
「外から与えられたチャクラに反応する構造なのよ」
「つまり?」
「この札だけでは、ほとんど何もできない可能性がある」
セツナは腕を組んだ。
「……別の術と組み合わせて使うのね」
「おそらく」
ミコトは頷いた。
「ただし、どんな術なのかまでは分からないわ」
セツナは椅子を引き寄せた。
「……これまでの証言では、この札を見せられた忍たちは、正式な命令だと思い込んでいた」
ミコトが顔を上げる。
「思い込んでいた?」
「ええ」
セツナは北条ユウキの証言を説明した。
北側監視塔で、頭巾を被った忍が黒い札を提示したこと。
その人物から東棟小会議室へ向かうよう指示され、ユウキが持ち場を離れたこと。
そして、命じられた場所には誰も現れなかったこと。
ミコトは黙って聞いていた。
「……なるほど」
セツナは続けた。
「三枝ナオトも、似た札を提示されたと言っている」
「二人とも、相手を正式な使者だと判断したのね」
「そう」
「……でも、それだけでは幻術とは言い切れないわ」
セツナは頷いた。
「分かっている」
ミコトは机の上の記録用紙を手に取った。
「黒影衆の印章を持っていて、命令の内容にも不自然なところがなければ、普通に信用することはあるでしょう?」
「ええ」
「札に術式があったとしても、それが相手の判断を操った証拠にはならない」
セツナは静かに答えた。
「だから、あなたに調べてもらっているの」
ミコトは小さく笑った。
「責任重大ね」
「期待しているわ」
「期待されすぎると困るんだけど」
そう言いながらも、ミコトは再び欠片へ目を向けた。
「……少なくとも、札の構造には意図がある」
セツナが尋ねる。
「どんな?」
「普通の通行札なら、こんな細工は必要ない」
ミコトは欠片の縁を示した。
「特に、この三本の線」
「……」
「ただの装飾にしては、刻み方が不自然なの」
セツナは身を乗り出した。
「詳しく聞かせて」
ミコトは白い紙に、欠片の形を写し取った。
そして、縁に残る三本の線を描いた。
「見て」
セツナは紙へ視線を落とす。
「三本とも、同じ長さじゃないのね」
「そう」
ミコトは頷いた。
「中央の線が一番長い。両側の線は、それぞれ僅かに長さが違う」
「……」
「しかも、線の深さも一定じゃない」
セツナは考え込んだ。
「目印かしら」
「可能性はあるわ」
「札の向きを確認するため?」
「それも考えられる」
ミコトは筆を置いた。
「ただ、欠片が小さすぎるのよ」
「……」
「札全体のどの位置に、この線があったのかも分からない」
セツナは頷いた。
「三枝さんの証言では、札の角が欠けたそうよ」
「なら、外縁に近い部分だったのは確かね」
ミコトは紙に四角い札の輪郭を描き、欠片の位置を仮に当てはめた。
「……でも、元の大きさは推測に過ぎない」
「ええ」
セツナは腕を組んだ。
「北条ユウキにも、もう一度確認してもらう必要があるわね」
「その方がいい」
ミコトは頷いた。
「ただし、こちらの図を最初から見せない方がいいわ」
セツナが顔を上げる。
「……なぜ?」
「記憶が引っ張られるから」
ミコトは説明した。
「人は、後から見たものに影響されて、昔見た形を思い違いすることがある」
「……なるほど」
「まず本人に描いてもらって。それから、こちらの図と比べた方がいい」
セツナは頷いた。
「そうするわ」
昼。
セツナが情報室へ戻った後も、ミコトは解析を続けていた。
机の上には、数枚の紙が並んでいる。
素材の観察記録。
術式の反応。
縁の刻印。
そのどれもが、まだ途中段階だった。
「……次は文字ね」
ミコトは小さな拡大鏡を取り出した。
欠片の表面に刻まれた文字を、一画ずつ確認していく。
通常の封印術では、文字や記号の配置によってチャクラの流れを制御する。
しかし、この欠片に残された文字は、一般的な術式と少し違っていた。
「……これは、繋がっていない」
ミコトは紙へ写し取った。
文字の一部が、途中で途切れている。
欠けた部分へ続いていた可能性もある。
しかし、それだけでは説明できない空白もあった。
「……意図的に間隔を空けている?」
ミコトは別の資料を取り出した。
古い封印術の記録だった。
いくつかの術式と照らし合わせる。
だが、一致するものは見つからない。
「……違う」
次の資料を開く。
「これも違う」
さらに別の記録を調べる。
しかし、同じ構造は確認できなかった。
ミコトは椅子の背にもたれた。
「……簡単にはいかないわね」
窓の外では、昼の陽光が中庭を照らしている。
彼女は少し目を閉じた。
そして、もう一度欠片を見つめた。
「……そもそも」
小さく呟く。
「これは、本当に封印術なのかしら」
午後。
第二解析室。
ミコトは、黒い札に残る術式を別の方法で調べることにした。
机の上に、三枚の白い封印札を並べる。
それぞれには、異なる反応を調べるための術式が記されていた。
一枚目は、チャクラの残留を確認する札。
二枚目は、術式の流れを確認する札。
三枚目は、外部からの干渉を確認する札。
ミコトは慎重に準備を整えた。
「……一つずつ」
最初の札を欠片へ近づける。
淡い光が生まれた。
「……残留反応あり」
記録する。
次に、二枚目。
今度は、光が僅かに揺れた後、すぐに消えた。
「……流れは不完全」
ミコトは眉を寄せた。
「やっぱり、欠けた部分が必要なのね」
最後に、三枚目の札を近づける。
すると。
白い札の端に刻まれた文字が、ほんの僅かに変化した。
ミコトの目が細くなる。
「……?」
もう一度、同じ操作を繰り返す。
今度も、同じ場所が変化した。
「……なるほど」
ミコトは筆を取った。
「外部のチャクラに対して、何らかの反応を返している」
しかし、反応は極めて弱い。
欠片そのものが術を発動したわけではない。
ミコトは慎重に結論を記した。
『外部干渉に対する反応を確認。ただし、用途は不明』
「……ここまでね」
彼女は一度、解析を中断した。
無理にチャクラを流し続ければ、証拠品そのものを傷める恐れがある。
ミコトは欠片を箱へ戻した。
夕方。
黒影衆本部・情報室。
セツナは北条ユウキを呼び出していた。
「……お久しぶりです、セツナ様」
ユウキは少し緊張した様子で頭を下げた。
「久しぶりね」
セツナは椅子を示した。
「座って」
「はい」
ユウキは腰を下ろした。
セツナは白い紙と筆を差し出す。
「今日は、以前あなたが見た黒い札について確認したいの」
ユウキの表情が引き締まる。
「……はい」
「できる範囲で構わないから、形を描いてもらえる?」
「……形、ですか?」
「ええ。大きさや、線の位置も覚えている範囲で」
ユウキは筆を手に取った。
しばらく考える。
そして、ゆっくりと描き始めた。
四角い札。
やや細長い形。
縁に刻まれた細い線。
セツナは黙って見守った。
数分後。
「……こんな感じだったと思います」
ユウキが紙を差し出した。
セツナは受け取った。
「ありがとう」
紙には、札の右下付近に三本の線が描かれていた。
セツナの目が細くなる。
「……この線、覚えているのね」
ユウキは頷いた。
「はい」
「どうして?」
「……少し変わっていたので」
「変わっていた?」
「はい。普通の許可札には、あんな線はなかったと思います」
セツナは頷いた。
「なるほど」
ユウキは少し俯いた。
「……すみません」
「何が?」
「俺、あの時もっと疑うべきでした」
セツナは首を振った。
「今は、あなたを責めるために呼んだんじゃないわ」
「……」
「覚えていることを教えてくれるだけで十分よ」
ユウキは顔を上げた。
「……はい」
セツナは続けた。
「他に、札について覚えていることは?」
ユウキは少し考えた。
「……黒かったです」
「ええ」
「でも、光が当たった時……」
言葉を止める。
セツナが尋ねる。
「何か見えた?」
「……表面が、少しだけ銀色に見えた気がします」
セツナの表情が変わった。
「……銀色?」
「はい。でも、一瞬だったので」
セツナは頷いた。
「分かったわ」
それ以上、無理に思い出させることはしなかった。
夜。
第二解析室。
セツナは、ユウキが描いた図をミコトへ見せていた。
「……これを見て」
ミコトは紙を受け取った。
「本人が描いたの?」
「ええ。こちらの解析結果は見せていない」
ミコトは頷いた。
「それなら、比較する価値があるわね」
二人は机の上に、二枚の図を並べた。
一枚は、ミコトが欠片から写し取ったもの。
もう一枚は、ユウキの記憶によるもの。
ミコトは慎重に見比べた。
「……三本の線の位置が近い」
セツナが頷く。
「ええ」
「ただし、完全には一致しないわ」
「……」
「記憶による図だから、当然だけど」
セツナは静かに答えた。
「それでも、同じ種類の札だった可能性は高まった」
ミコトは頷いた。
「そうね」
セツナは続けた。
「ユウキは、札の表面が一瞬銀色に見えたとも話している」
ミコトが顔を上げる。
「……銀色?」
「ええ」
ミコトは欠片の記録を取り出した。
「内部の金属層と関係があるかもしれない」
「……」
「でも、これもまだ推測ね」
セツナは頷いた。
「分かっている」
ミコトは椅子へ座った。
「……セツナ」
「何?」
「一つ、気になることがあるの」
セツナが顔を向ける。
「聞かせて」
ミコトは黒い欠片を見つめた。
「この札、誰かに見せるためだけのものではない気がする」
「……どういう意味?」
「内部に金属層があって、外部のチャクラに反応する」
「ええ」
「しかも、表面には特殊な顔料が使われている」
ミコトは続けた。
「ただの身分証明なら、ここまで複雑にする必要がない」
セツナは腕を組んだ。
「……別の機能がある」
「その可能性があるわ」
「例えば?」
ミコトは少し考えた。
「……何かを開くための鍵」
セツナの目が細くなる。
「……鍵?」
「あるいは、特定の術式に反応する認証具」
セツナは黙った。
東棟小会議室。
正式な鍵の貸出記録がないまま、扉が開けられていた場所。
その記録が、頭に浮かぶ。
「……なるほど」
ミコトは続けた。
「ただし、まだ証拠はないわ」
「ええ」
「実際に何かを開けられるかどうかは、対応する術式がなければ確認できない」
セツナは頷いた。
「……調べる価値はあるわね」
しばらくして。
セツナは情報室へ戻った。
机の上には、東棟小会議室の調査記録が置かれていた。
鍵の貸出記録なし。
正式な使用予約なし。
床板の下に隠されていた何者かの痕跡。
そして、黒い粉。
セツナは報告書を読み返した。
「……」
黒い札。
扉。
外部のチャクラ。
それぞれが繋がる可能性はある。
しかし、まだ確かな証拠はない。
セツナは筆を取った。
新しい調査項目を書き加える。
『東棟小会議室の扉に残る術式の再確認』
続けて、もう一つ。
『黒札と本部内の認証術式との関連調査』
書き終えると、筆を置いた。
「……急がないと」
小さく呟く。
ただし、急ぐことと、結論を急ぐことは違う。
証拠を一つずつ積み重ねなければならない。
セツナは窓の外へ目を向けた。
夜の本部は、静けさに包まれていた。
同じ頃。
封印術研究棟。
天野ミコトは、一人で解析記録を整理していた。
机の上には、黒い札の欠片。
そして、今日確認した反応の記録。
ミコトは最後の頁を開いた。
そこには、外部干渉に対する反応が記されている。
「……」
彼女は少し考えた。
そして、筆を取った。
『黒札は、単独で完結する術式ではない可能性が高い』
続けて書き加える。
『認証、開閉、幻術補助などの用途が考えられるが、現段階では特定不可』
ミコトは筆を置いた。
「……まだ、分からないことだらけね」
欠片を木箱へ戻す。
そして、箱の蓋を閉じた。
一枚の黒い札。
その小さな欠片から、少しずつ新しい事実が見え始めていた。
しかし、札を作った人物も、使用した目的も、まだ分からない。
確かなのは、これが単なる通行許可札ではない可能性が高いということだけだった。
ミコトは立ち上がり、研究室の灯りを落とした。
「……明日は、扉の術式を調べましょうか」
そう呟き、研究室を後にした。
黒い札の謎は、まだ解けていない。
しかし、その正体へ近づくための道筋が、ようやく見え始めていた。
第145話 完




