第143話「上忍たちの亀裂」
黒影衆本部。
朝の陽光が、長い廊下に差し込んでいた。
普段なら任務の報告に訪れる忍たちで賑わう時間帯だったが、今日はどこか静かだった。
本部の奥にある評定の間。
そこには、黒影衆の上忍たちが集められていた。
中央の席に座るのは、黒影衆頭領・黒崎玄十郎。
その右側には鬼塚ジン。
左側には影宗。
少し離れた席には、神楽トウマと風間コウガが座っている。
机の中央には、一枚の報告書が置かれていた。
題名は、
『風影刀調査及び管理方針に関する追加意見書』
提出者は、鬼塚ジンだった。
玄十郎は報告書を手に取った。
「……ジン」
「はい」
「先日の評定で、風影刀の扱いについては一定の結論を出したはずだ」
ジンは静かに頷いた。
「承知しております」
「では、これは何だ?」
ジンは姿勢を正した。
「決定を覆すためのものではありません」
影宗が顔を上げた。
「……ならば、何のためだ?」
ジンは影宗を見た。
「調査中の安全管理について、具体的な取り決めが必要だと考えました」
玄十郎は報告書へ視線を落とした。
「……説明してみろ」
ジンは立ち上がった。
「まず、風影刀の調査には、必ず二名以上の上忍が立ち会うこと」
コウガが頷く。
「それは問題ない」
「次に、調査中は風影刀を指定された場所から持ち出さないこと」
影宗が眉を寄せた。
「……待て」
ジンは言葉を止めた。
影宗が続ける。
「指定された場所とは、どこだ?」
「本部内の封印術研究室です」
「蒼真が調査を終えた後は?」
「本人へ返却します」
「……毎回か?」
「原則として」
影宗の表情が変わった。
「原則?」
ジンは静かに答えた。
「危険な反応が確認された場合は、調査責任者の判断で一時的に保管することを提案します」
評定の間に沈黙が広がった。
「……それは、先日の決定と違うだろう」
影宗が口を開いた。
ジンは視線を向ける。
「どこがですか?」
「風影刀の一時保管については、具体的な危険が確認されるまで見送ると決まったはずだ」
「その通りです」
「ならば、なぜ同じことを持ち出す?」
ジンは報告書を指差した。
「具体的な危険が確認された場合の対応を、事前に決めておくためです」
影宗は腕を組んだ。
「……」
ジンは続ける。
「危険な反応が起きてから、対応方法を話し合うのでは遅い場合があります」
「それは分かる」
「ならば、何が問題なのですか?」
影宗は静かに答えた。
「危険かどうかを、誰が判断する?」
ジンの目が細くなった。
「調査責任者です」
「その責任者は?」
「私と、風間コウガ殿、そして影宗様を想定しています」
影宗は首を振った。
「三人の意見が割れたらどうする?」
ジンは一瞬、言葉を止めた。
「……その場合は、頭領に判断を仰ぎます」
「緊急時にもか?」
「必要ならば、即座に使用を停止させます」
影宗は机に置かれた報告書を見た。
「……それでは、蒼真の意思が置き去りになる」
ジンの表情が引き締まった。
「危険な状況で、本人の意思だけを優先するわけにはいきません」
「本人の意思だけを優先しろとは言っていない」
「では?」
影宗はジンを見た。
「最初から、蒼真を危険な存在として扱うなと言っている」
ジンは黙った。
二人の視線が交わる。
そこには、互いに譲れない考えがあった。
玄十郎が口を開いた。
「……二人とも、落ち着け」
影宗とジンは、それぞれ姿勢を正した。
玄十郎は報告書を机へ戻した。
「ジン。お前の懸念は理解できる」
「はい」
「だが、影宗の言うことにも一理ある」
ジンは黙って聞いていた。
「風影刀を調べるのは、蒼真を疑うためではない」
「承知しています」
「ならば、調査に協力する本人の信頼を損なうような取り決めは避けねばならん」
ジンは少し考えた。
「……では、危険な反応が確認された場合は、どう対応するのですか?」
玄十郎は答えた。
「まず調査を中断する」
「それだけですか?」
「刀の状態と蒼真の身体を確認し、必要ならば改めて保管を協議する」
ジンは眉を寄せた。
「……その間に危険が広がる可能性もあります」
玄十郎は頷いた。
「そうだな」
「ならば――」
「ただし」
玄十郎が言葉を遮った。
「危険が差し迫っている場合に限り、現場の上忍が安全確保のために刀の使用を止めることは認める」
ジンは顔を上げた。
「……」
「だが、それを恒常的な保管命令へ変えてはならん」
影宗が頷いた。
「それならば、俺も異論はない」
ジンはしばらく考えた。
「……承知しました」
しかし、その表情には納得しきれないものが残っていた。
評定は続いた。
ジンは別の書類を取り出した。
「では、次の議題です」
玄十郎が頷く。
「続けろ」
「風影刀を使用する任務の承認基準についてです」
影宗が顔を上げる。
「……それも決まったはずだ」
「上忍の承認を必要とすることは決まりました。しかし、承認する際の基準が曖昧です」
ジンは書類を広げた。
「例えば、任務中に敵の襲撃を受けた場合」
玄十郎が聞いた。
「うむ」
「蒼真が風影刀を抜くことは、許可されるのか」
影宗は即座に答えた。
「当然だろう」
ジンは影宗を見た。
「では、風遁を使ってよいのか?」
「仲間の命が危険ならな」
「どの程度の危険なら?」
影宗は眉を寄せた。
「……何が言いたい?」
ジンは静かに続けた。
「現場で判断が分かれれば、部隊の行動が乱れます」
「……」
「だから、事前に一定の基準を設けるべきだと考えています」
影宗は腕を組んだ。
「戦場の全てを、書類で決められると思っているのか?」
「全てとは言っていません」
「ならば、現場の判断を信じろ」
ジンの声が少し強くなった。
「現場の判断だけで済ませた結果、何人の忍が命を落としたと思っているのですか」
影宗は黙った。
ジンは続けた。
「私たちは、部下を死なせないために規律を作ってきたはずです」
「……」
「それを、今になって不要だと言うのですか?」
影宗はゆっくり首を振った。
「規律が不要だとは言っていない」
「では?」
「規律は忍を守るためのものだ」
影宗はジンを真っ直ぐ見た。
「忍が規律を守るために死ぬようでは、本末転倒だろう」
ジンは口を閉じた。
「……一つ、聞いてもよろしいですか」
それまで黙っていた神楽トウマが口を開いた。
玄十郎が頷く。
「言ってみろ」
トウマはジンを見た。
「ジン殿。仮に、蒼真が風影刀を使わなければ仲間を救えない状況になったとします」
「……はい」
「しかし、その任務では風影刀の使用が認められていなかった」
ジンは黙って聞いている。
「その時、蒼真が刀を使ったら、どう判断しますか?」
ジンは少し考えた。
「……状況を確認します」
トウマが頷く。
「つまり、規則違反という理由だけで処罰するわけではない?」
「当然です」
「……そうですか」
トウマは椅子に深く腰掛けた。
「ならば、私はその点を明文化すべきだと思います」
影宗が顔を向ける。
「……どういうことだ?」
トウマは答えた。
「任務中の緊急事態において、仲間の生命を守るために必要な行動を取った場合、事後に状況を確認する」
玄十郎が頷いた。
「……うむ」
「その上で、行動が妥当だったか判断する」
ジンは少し考えた。
「……それなら、私も異論はありません」
影宗も頷く。
「俺もだ」
トウマは静かに続けた。
「ただし、逆も必要です」
玄十郎が尋ねる。
「逆?」
「蒼真が風影刀を使わなかったことで仲間が危険にさらされた場合、それも確認するべきです」
評定の間が静かになった。
トウマは続ける。
「刀を使う危険だけではなく、使わない危険も考えなければなりません」
玄十郎は頷いた。
「……もっともだ」
ジンは腕を組んだ。
「……確かに、その視点は必要ですね」
影宗はトウマを見た。
「よく言ってくれた」
トウマは小さく首を振った。
「私は、現場の部隊が迷わず動けるようにしたいだけです」
しばらくして、玄十郎は短い休憩を命じた。
上忍たちは、それぞれ席を離れた。
評定の間に残ったのは、影宗とジンだけだった。
窓の外から、修行場で訓練する忍たちの声が聞こえてくる。
影宗は立ち上がり、窓際へ歩いた。
ジンは机の書類を整理していた。
しばらく、二人は何も話さなかった。
やがて、影宗が口を開いた。
「……ジン」
「何でしょう」
「お前は、蒼真が信用できないのか?」
ジンの手が止まった。
「……なぜ、そう思うのですか?」
「刀を管理することばかり考えているように見える」
ジンは書類を置いた。
「……蒼真個人を疑っているわけではありません」
「ならば、何を恐れている?」
ジンはしばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「……知らない力です」
影宗は振り返った。
ジンは続けた。
「私たちは、風影刀について何も知らない」
「……」
「地下で何が起きたのか。なぜ蒼真に反応したのか。刀にどんな力が眠っているのか」
影宗は黙って聞いていた。
「何一つ、確かなことが分かっていません」
「……ああ」
「それなのに、仲間を守るためだからと、自由に使わせてよいのでしょうか」
影宗は少し考えた。
「……俺は、蒼真を信じている」
ジンは頷いた。
「それは知っています」
「ならば――」
「ですが」
ジンは影宗を見た。
「蒼真が善良な忍であることと、風影刀が安全であることは、別の問題です」
影宗は言葉を止めた。
ジンは続ける。
「本人に悪意がなくても、力が暴走すれば誰かが傷つく」
「……」
「私は、それを恐れているのです」
影宗は静かに息を吐いた。
「……なるほどな」
ジンが顔を上げる。
「……」
「お前の考えは分かった」
影宗は窓の外を見た。
「だが、俺にも譲れないものがある」
「……何でしょう」
影宗は答えた。
「蒼真が、自分で考え、自分で選ぶ機会だ」
ジンは黙った。
「刀を調べることには賛成だ。危険なら、対策も必要だろう」
「……」
「だが、何も知らないからという理由で、全てを上忍が決めてしまえば、あいつはいつまでも成長できん」
ジンは少し考えた。
「……成長のために、危険を許容するのですか?」
影宗は首を振った。
「違う」
「……」
「危険を理解した上で、判断する力を育てたいんだ」
ジンは影宗を見つめた。
二人の考えは、完全には一致していない。
しかし、どちらも蒼真を傷つけたいわけではなかった。
「……影宗様」
ジンが静かに口を開いた。
「一つ、昔の話をしてもよろしいでしょうか」
影宗が振り返る。
「……何だ?」
ジンは椅子へ腰を下ろした。
「私がまだ中忍だった頃のことです」
「……」
「ある任務で、古い忍具を発見しました」
影宗は黙って聞いていた。
「任務の仲間が、その忍具を使えると言い出したのです」
「……」
「本人は優秀な忍でした。判断力もあり、仲間から信頼されていました」
ジンは机の上で拳を握った。
「ですが、忍具に仕込まれていた術式を、誰も理解していなかった」
影宗の表情が変わった。
「……それで?」
「敵と交戦した際、その忍具を使用しました」
ジンは一度、言葉を止めた。
「……術は発動しました」
「……」
「しかし、想定していた方向とは違う場所へ力が流れた」
影宗は黙った。
「近くにいた仲間が巻き込まれ、重傷を負いました」
ジンは視線を落とした。
「命は助かりましたが、以前のように任務へ出ることはできなくなった」
「……そうだったのか」
「使った本人も、深く後悔していました」
ジンは続けた。
「誰かを傷つけるつもりなど、なかったのです」
影宗は静かに頷いた。
「……ああ」
「だからこそ、私は未知の忍具を軽く扱えません」
ジンは顔を上げた。
「蒼真に、同じ思いをさせたくないのです」
影宗はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり口を開いた。
「……お前が厳しい理由は、分かった」
ジンは小さく頷いた。
「ありがとうございます」
「だが」
影宗は続けた。
「俺は、蒼真が風影刀を持っていることに意味があると思っている」
ジンが眉を寄せる。
「……意味?」
「あいつは、地下で仲間を守るために刀を使った」
「……」
「その経験まで、危険という言葉だけで否定したくない」
ジンは静かに答えた。
「否定するつもりはありません」
「……」
「ただ、次も同じように扱える保証はない」
影宗は頷いた。
「そうだな」
二人は再び黙った。
理解できる部分はある。
しかし、譲れない部分も残っていた。
休憩が終わり、評定が再開された。
玄十郎は上忍たちを見渡した。
「……意見は出揃ったようだな」
ジンが頭を下げる。
「はい」
影宗も頷いた。
玄十郎は報告書を手に取った。
「今回の追加意見については、一部を修正して採用する」
ジンが顔を上げた。
「……具体的には?」
玄十郎は説明した。
「調査には、原則として二名以上の上忍が立ち会う」
「はい」
「危険な反応が確認された場合は、即座に調査を中断する」
「……」
「差し迫った危険がある場合に限り、現場の上忍が刀の使用停止を命じることを認める」
ジンは頷いた。
「承知しました」
玄十郎は続けた。
「ただし、刀の継続的な保管については、改めて協議する」
影宗が頷く。
「異論はない」
「また、任務中の緊急使用については、事後に状況を確認するものとする」
トウマが頭を下げた。
「承知しました」
玄十郎は全員を見渡した。
「そして、最も重要なことがある」
上忍たちが顔を上げる。
「蒼真本人の意思を尊重することだ」
ジンも影宗も、黙って聞いていた。
「調査は本人の協力を前提とする。必要な説明を行い、理解を得た上で進めよ」
「承知しました」
上忍たちが答えた。
玄十郎は静かに頷いた。
「……では、今回の評定はここまでとする」
評定終了後。
黒影衆本部の廊下。
影宗が歩いていると、背後から声がした。
「……影宗様」
振り返る。
ジンが立っていた。
「何だ?」
ジンは少し考えた。
「……先ほどは、言葉が強くなりました」
影宗は首を振った。
「気にするな」
「……」
「俺も同じだ」
ジンは小さく頷いた。
影宗は続ける。
「お前が黒影衆を守ろうとしていることは分かっている」
「……ありがとうございます」
「だが、俺は蒼真を信じる」
ジンは影宗を見た。
「……私も、蒼真を信じていないわけではありません」
「分かっている」
「……」
影宗は静かに言った。
「ただ、俺たちは守り方が違うんだろうな」
ジンは少し考えた。
「……そうかもしれません」
二人はしばらく向かい合っていた。
やがて、ジンが口を開いた。
「……一つだけ、お願いがあります」
「何だ?」
「蒼真が無理をしようとした時は、止めてください」
影宗は僅かに笑った。
「言われるまでもない」
ジンも少しだけ表情を和らげた。
「……それなら、安心です」
しかし、影宗は続けた。
「お前も、あいつが前へ進もうとする時は、必要以上に止めるなよ」
ジンは少し考えた。
そして、静かに答えた。
「……努力します」
影宗は頷いた。
「ああ」
二人はそれぞれ別の方向へ歩き始めた。
夕暮れ。
黒影衆本部・頭領室。
玄十郎は一人、評定の記録を読んでいた。
机の上には、ジンの追加意見書。
そして、修正された風影刀の管理方針。
玄十郎は書類を閉じた。
「……」
黒影衆は、長い年月をかけて大きな組織になった。
任務を遂行する者。
仲間を育てる者。
里を守る者。
情報を集める者。
それぞれが異なる役割を担っている。
だからこそ、考え方が違うのは当然だった。
しかし、その違いが深まりすぎれば、組織は内側から崩れていく。
「……ジンも、影宗も」
玄十郎は静かに呟いた。
「どちらも、間違っているわけではない」
問題は、意見が違うことではない。
相手の言葉を聞かなくなることだった。
玄十郎は窓の外へ目を向けた。
遠くの修行場では、若い忍たちが訓練を続けている。
その姿を見つめながら、玄十郎は小さく息を吐いた。
「……この里を、守らねばならんな」
夕陽が山の向こうへ沈んでいく。
黒影衆の上忍たちは、同じ組織に属している。
しかし、全員が同じ考えを持っているわけではない。
信頼を重んじる者。
規律を重んじる者。
現場の判断を重んじる者。
それぞれの信念は、時に仲間との衝突を生む。
そして、その小さな亀裂は、まだ完全には埋まっていなかった。
第143話 完




