第142話「風を持つ者の責任」
黒影衆の里。
朝の空には薄い雲が広がり、山々の間を穏やかな風が流れていた。
里の東側にある第二修行場。
そこには、まだ人の姿が少なかった。
蒼真は修行場の中央に立ち、一本の木刀を握っていた。
目を閉じる。
ゆっくりと息を吸い、吐く。
地下での戦いから帰還して、しばらくが経った。
脇腹の傷は順調に回復している。
しかし、白石ユズハからは、まだ本格的な修行を許されていなかった。
「……」
蒼真は木刀を持ち上げる。
右足を半歩前へ。
腰を落とし、肩の力を抜く。
風間コウガから教わった基本の構えだった。
以前なら、そのまま踏み込み、木刀を振り抜いていただろう。
だが、今は違う。
蒼真は動かなかった。
ただ、自分の足の位置を確かめていた。
「……ここから踏み込んだら」
視線を左へ向ける。
「後ろが空くな」
木刀を下ろし、もう一度構え直した。
その時だった。
「随分と慎重になったな」
背後から声がした。
蒼真が振り返る。
「コウガさん!」
風間コウガが、修行場の入り口に立っていた。
「朝から熱心だな」
「はい。でも、まだ木刀を振るのは控えてます」
「それでいい」
コウガは近づいてきた。
「今日は何を考えていた?」
蒼真は少し考えた。
「……自分の立ち位置です」
「立ち位置?」
「はい。戦っている時、どこに立てば仲間を守れるのかって」
コウガは頷いた。
「なるほど」
蒼真は続ける。
「地下では、目の前の敵を倒すことばかり考えてしまった時がありました」
「……」
「そのせいで、凛やレイのところへ戻るのが遅れたこともあって」
コウガは蒼真の構えを見た。
「なら、今日はそれを考える修行にしよう」
「……はい!」
第二修行場。
コウガは地面に四つの小石を置いた。
蒼真は首を傾げる。
「これは?」
「仲間の位置だ」
コウガは一つ目の石を指差した。
「これがお前」
続いて、二つ目。
「これが蓮司」
三つ目。
「凛」
四つ目。
「レイ」
蒼真は頷いた。
「なるほど」
コウガは少し離れた場所に、もう一つ石を置いた。
「そして、これが敵だ」
蒼真は地面を見つめる。
仲間の四人が横に広がり、正面に敵が一人いる形だった。
「さて、蒼真」
「はい」
「敵が凛を狙ったとする。お前ならどうする?」
蒼真はすぐに答えた。
「凛の前に出ます」
「なぜ?」
「凛を守るためです」
コウガは頷いた。
「悪くない」
そして、敵を示す石を動かした。
「だが、お前が凛の前に出た瞬間、敵がレイへ向かったら?」
「……!」
蒼真は考え込んだ。
「その時は、蓮司に……」
「蓮司が別の敵と戦っていたら?」
「……」
「レイが負傷して動けなかったら?」
蒼真は黙った。
コウガは小石を元の位置へ戻した。
「お前一人で、全員の前に立つことはできない」
「……はい」
「それを忘れるな」
蒼真は地面を見つめた。
「……俺、全部自分で守ろうとしてました」
コウガは首を振った。
「その気持ち自体が悪いわけじゃない」
「……」
「だが、仲間には仲間の力がある」
コウガは蓮司の石を動かした。
「蓮司には剣がある」
凛の石へ指を移す。
「凛には水遁がある」
最後に、レイの石を示した。
「レイには、周囲の動きを読む力と双短刀がある」
蒼真は頷いた。
「……はい」
「お前が全てを引き受ければ、仲間が動く余地を奪うこともある」
その言葉に、蒼真は顔を上げた。
「……仲間が動く余地」
「ああ」
コウガは蒼真を見た。
「守るというのは、必ずしも自分が前に出ることじゃない」
蒼真は小石を見つめた。
しばらくして、ゆっくり口を開く。
「……じゃあ、仲間が動ける場所を作るのも、守ることなんですね」
コウガは僅かに笑った。
「そういうことだ」
しばらくして。
コウガは小石の配置を変えた。
今度は、蒼真と蓮司が前方。
凛とレイが後方にいる。
敵を示す石は、二つに増えていた。
「次だ」
蒼真は地面へ目を向けた。
「はい」
「敵が二人。片方はお前に向かい、もう片方は凛を狙っている」
「……」
「どうする?」
蒼真は少し考えた。
「蓮司に、凛の方を頼みます」
「蓮司は、お前の隣で敵と戦っている」
「……なら」
蒼真は木刀を置き、小石を動かした。
「俺が、少し後ろへ下がります」
コウガが眉を上げる。
「ほう」
「そうすれば、敵二人の動きを見られるので」
「それで?」
「凛には、水壁で攻撃を防いでもらいます」
蒼真は凛の石を少し後方へ動かした。
「その間に、俺が敵の進路を塞ぐ」
コウガは頷いた。
「悪くない」
蒼真が顔を上げる。
「本当ですか?」
「ああ。ただし、凛が水壁を使える状態とは限らない」
「……確かに」
「戦場では、想定通りに動けないことも多い」
コウガは石を一つ動かした。
「なら、もう一度考えろ」
蒼真は地面を見つめた。
「……」
すぐには答えが出なかった。
しかし、コウガは急かさなかった。
蒼真は何度も石を動かした。
自分が前へ出る形。
蓮司と位置を入れ替える形。
凛とレイを後退させる形。
どれにも利点があり、弱点があった。
やがて、蒼真が呟いた。
「……正解って、一つじゃないんですね」
コウガは頷いた。
「その通りだ」
「……」
「だからこそ、仲間と話し合っておく必要がある」
蒼真は顔を上げた。
「……今度、みんなで考えてみます」
「ああ。怪我が治ったらな」
「はい!」
昼前。
修行場の端にある木陰。
蒼真は腰を下ろし、水筒の水を飲んでいた。
コウガも隣に座る。
しばらく、二人は黙って風に揺れる木々を見つめていた。
やがて、蒼真が口を開いた。
「……コウガさん」
「何だ?」
「風影刀のことなんですけど」
コウガは蒼真へ視線を向けた。
「調査の話か?」
「はい」
蒼真は頷いた。
「ジン様から説明を受けました」
「そうか」
「コウガさんと影宗様も立ち会ってくれるって」
「ああ。その予定だ」
蒼真は少し安心した表情を見せた。
しかし、すぐに真剣な顔になる。
「……俺、少し怖いんです」
コウガは黙って聞いていた。
「何が怖い?」
「……刀のことを知るのが、です」
「……」
「もし、風影刀に危険な力があったら」
蒼真は膝の上で拳を握った。
「もし、俺が今まで知らずに使っていた力が、仲間を傷つけるものだったら……」
コウガは静かに答えた。
「その可能性を考えるのは、大切なことだ」
蒼真が顔を上げる。
「……はい」
「だが、怖いからといって、知らないままでいる方が危険なこともある」
「……」
「お前は、刀を使い続けたいんだろう?」
蒼真は頷いた。
「はい」
「なら、知る必要がある」
コウガは続けた。
「何ができるのか。何ができないのか。どんな時に危険なのか」
蒼真は真剣に聞いていた。
「……はい」
「それを知って初めて、使うかどうかを自分で判断できる」
蒼真は少し考えた。
「……ジン様も、同じことを言っていました」
コウガが僅かに笑う。
「そうか」
「最初は、刀を取り上げられると思ってました」
「……」
「でも、ちゃんと話してくれたので」
蒼真は少し笑った。
「今は、調べてもらいたいと思ってます」
コウガは頷いた。
「それならいい」
蒼真は腰に差した風影刀へ目を向けた。
黒い鞘。
古い装飾。
地下の風の道で、何度も不思議な反応を見せた刀。
蒼真は鞘に触れた。
「……この刀」
コウガが顔を向ける。
「どうした?」
「宗玄が持っていた風守刀と、何か関係があるんですよね」
「ああ。少なくとも、古い記録には二つの刀が一緒に描かれていたそうだ」
「……」
蒼真は目を閉じた。
地下で見た光景を思い出す。
古い石柱。
消された名前。
そして、風の中から聞こえた言葉。
『守るべきものを、間違えるな』
蒼真は静かに口を開いた。
「……俺、まだ分からないことがあるんです」
「何だ?」
「地下で見た、あの記録です」
コウガは黙って聞いた。
「名前が消されていた人がいました」
「……ああ」
「その人が何をしたのか、どうして名前を消されたのか」
蒼真は風影刀を見つめた。
「……何も分からないままなんです」
コウガは少し考えた。
「なら、急いで答えを出す必要はない」
「……」
「分からないことを、分からないまま覚えておくのも大切だ」
蒼真が顔を上げる。
「……覚えておく?」
「ああ」
コウガは続けた。
「忍は、時に少ない情報で判断しなければならない」
「はい」
「だが、少ない情報から勝手に真実を決めつければ、間違えることもある」
蒼真は頷いた。
「……そうですね」
「だから、今は覚えておけ」
コウガは風影刀へ視線を向けた。
「お前が見たものを。宗玄から聞いた言葉を。そして、あの地下で何を守ろうとしたのかを」
蒼真は静かに答えた。
「……はい」
午後。
黒影衆・医務室。
蒼真は白石ユズハの診察を受けていた。
「……傷口は、かなり落ち着いてきたわね」
ユズハが包帯を確認する。
蒼真は少し期待した表情になった。
「じゃあ、そろそろ修行も……」
「まだ駄目」
即答だった。
蒼真は肩を落とした。
「……ですよね」
ユズハは新しい包帯を巻きながら言った。
「歩くことや軽い姿勢の確認はいいけど、急な踏み込みや風遁の使用は禁止」
「はい」
「特に風影刀を使った術は、まだ試さないこと」
蒼真は頷いた。
「分かってます」
ユズハは手を止めた。
「……本当に?」
「本当です!」
「蓮司と同じ返事をしないで」
蒼真は思わず笑った。
「蓮司、また何かしたんですか?」
「今朝、廊下で走ろうとしていたわ」
「……あいつ」
ユズハは呆れたように息を吐いた。
「あなたたち、元気になるとすぐ動こうとするんだから」
蒼真は苦笑した。
「すみません」
包帯を巻き終えると、ユズハは椅子へ座った。
「蒼真」
「はい」
「怪我が治ることと、以前と同じように戦えることは、必ずしも同じじゃないの」
蒼真は真剣な顔になった。
「……はい」
「傷が塞がっても、筋肉の動きや身体の感覚が戻るまでには時間がかかる」
「……」
「だから、焦らず戻していきなさい」
蒼真は頷いた。
「分かりました」
ユズハは少し表情を和らげた。
「……今日は素直ね」
「コウガさんにも、同じことを言われたので」
「いい先生がいるじゃない」
蒼真は笑った。
「はい」
夕方。
第二修行場。
診察を終えた蒼真は、再び修行場へ立ち寄った。
しかし、木刀は持っていない。
ただ、地面に置かれた小石を見つめていた。
朝、コウガと考えた仲間の配置。
蒼真はしゃがみ込んだ。
一つ目の石。
自分。
二つ目。
蓮司。
三つ目。
凛。
四つ目。
レイ。
「……」
蒼真は一つずつ石を動かした。
蓮司が前へ出る。
凛が後方から援護する。
レイが敵の側面へ回る。
そして、自分は仲間の動きに合わせて位置を変える。
「……こういう戦い方もあるのか」
以前なら、自分が先頭に立つ形しか考えなかった。
しかし、仲間の力を信じれば、別の戦い方が見えてくる。
蒼真は小さく笑った。
「……蓮司なら、絶対に前へ出たがるだろうな」
凛は、それを叱るかもしれない。
レイは黙って周囲を確認し、必要な時だけ短い言葉で指示するだろう。
そんな三人の姿が浮かんだ。
「……早く、みんなで戦いたいな」
蒼真は呟いた。
しかし、すぐに首を振る。
「いや……」
戦うことが目的ではない。
四人で無事に帰ること。
それが、一番大切だった。
日が沈み始めた頃。
コウガが修行場へ戻ってきた。
「……まだいたのか」
蒼真が振り返る。
「コウガさん」
「何をしていた?」
蒼真は地面の石を指差した。
「朝の続きを考えてました」
コウガは近づいてきた。
「ほう」
蒼真は一つの石を動かした。
「俺、今まで仲間を守るって、自分が前に出ることだと思ってました」
コウガは黙って聞いていた。
「でも、それだけじゃないんですよね」
「ああ」
「仲間が動ける場所を作ることも、守ることになる」
蒼真は続けた。
「だから、これからは自分一人で全部やろうとしないようにします」
コウガは少し笑った。
「いい心掛けだ」
蒼真は顔を上げた。
「……でも」
「何だ?」
「それでも、俺が前に出なきゃいけない時はあると思うんです」
コウガは頷いた。
「もちろんだ」
「その時は、逃げたくありません」
「……」
「仲間が危険なら、俺が守りたいです」
コウガは蒼真を見つめた。
しばらくして、静かに答えた。
「……それでいい」
蒼真が少し驚く。
「いいんですか?」
「ああ」
コウガは続けた。
「前に出ることが悪いんじゃない。何も考えずに前へ出ることが危険なんだ」
「……」
「お前が状況を見て、仲間を信じた上で前に出るなら、それは立派な判断だ」
蒼真は頷いた。
「……はい」
コウガは地面の石を一つ拾った。
「ただし、忘れるな」
「何をですか?」
「お前も、守られる側の一人だ」
蒼真の表情が変わった。
「……俺も?」
「ああ」
コウガは静かに続ける。
「蓮司も、凛も、レイも、お前を失いたいとは思っていない」
「……」
「お前が仲間を守りたいように、仲間もお前を守りたいんだ」
蒼真は何も言えなかった。
地下での戦いを思い出す。
蓮司が傷つきながらも隣に立ってくれたこと。
凛が残された力で仲間を守ったこと。
レイが重傷を負いながらも、最後まで周囲を警戒していたこと。
誰も、自分だけが守られるつもりなどなかった。
「……そうですね」
蒼真は小さく笑った。
「俺、そこまで考えてませんでした」
コウガも笑った。
「なら、今日の修行は意味があったな」
「はい!」
夜。
蒼真は自室へ戻っていた。
机の上には、風影刀が置かれている。
黒い鞘を見つめながら、今日の会話を思い返した。
『お前も、守られる側の一人だ』
蒼真はゆっくりと鞘に触れた。
「……風影刀」
刀は何も答えない。
それでも、蒼真は言葉を続けた。
「俺は、お前のことをまだ何も知らない」
地下で見た古い記録。
風守刀との関係。
消された名前。
そして、刀が持つ未知の力。
分からないことばかりだった。
「……でも」
蒼真は静かに続ける。
「知らないまま、使い続けるつもりはない」
刀を手に取る。
抜くことはせず、その重さだけを確かめた。
「俺は、もっと強くなりたい」
少し間を置く。
「でも、強くなるだけじゃ駄目なんだよな」
蒼真は鞘を見つめた。
「仲間を守るために、何をするべきなのか」
「自分が、どこまでできるのか」
「それをちゃんと考えられる忍になりたい」
窓の外では、夜風が木々を揺らしていた。
蒼真は風影刀を机へ戻した。
「……まずは、怪我を治すところからだな」
小さく笑う。
そして、灯りを消した。
風影刀の調査は、まだ始まっていない。
刀に隠された秘密も、何一つ明らかになっていない。
しかし、蒼真の中では、一つの変化が生まれていた。
力を持つこと。
力を使うこと。
そして、その力で誰かを守ること。
その三つは、同じではない。
風を持つ者として、何を選ぶのか。
蒼真は、ようやくその意味を考え始めていた。
第142話 完




