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影狼ノ忍  作者: 次男坊
第5章「黒影衆内部抗争編」
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第140話「沈黙の代償」

黒影衆の里。

夜が深まり、家々の灯りが一つずつ消えていく。

里の北側にある小さな住宅では、まだ一つの灯りが残っていた。

三枝ナオトの自宅だった。

机の上には、二枚の手紙が置かれている。

一枚目。

『余計なことは話すな』

『お前の弟が暮らす町を忘れるな』

そして、今夜届いた二枚目。

『最後の忠告だ』

『弟を守りたければ、明日の夜まで黙っていろ』

ナオトは、その文字を何度も読み返していた。

「……明日の夜」

何が起こるというのか。

なぜ、それまで黙っていなければならないのか。

答えは書かれていなかった。

ただ、相手が弟の居場所を知っていることだけは確かだった。

「……」

ナオトは机の引き出しを開いた。

そこには、小さな黒い欠片が入っている。

以前、正体不明の忍が持っていた黒い札。

その端が欠けて落ちたものだった。

ナオトは欠片を手に取った。

表面には、肉眼では読み取れないほど細い文字が刻まれている。

「……これさえ渡せば」

如月セツナの顔が浮かんだ。

『あなたが何かを隠していることは分かっているわ』

『なら、協力して』

ナオトは目を閉じた。

「……でも」

弟の顔が浮かぶ。

三枝ハルキ。

自分より八歳年下の弟。

幼い頃から身体が弱く、忍になる道を選ばなかった。

今は南東の宿場町で、薬草商の手伝いをしている。

忍の世界とは距離を置き、静かに暮らしているはずだった。

「……あいつだけは」

ナオトは欠片を握りしめた。

「巻き込みたくなかったのに……」


十年前。

黒影衆の里から離れた、小さな村。

まだ若かったナオトは、家の前で薪を割っていた。

「兄ちゃん!」

背後から声がした。

振り返ると、幼いハルキが走ってくる。

「どうした?」

「見て!」

ハルキは両手を差し出した。

そこには、小さな木彫りの鳥があった。

「……これ、お前が作ったのか?」

「うん!」

ナオトは受け取った。

形は少し歪んでいたが、羽の部分まで丁寧に彫られている。

「上手いじゃないか」

「本当?」

「ああ」

ハルキは嬉しそうに笑った。

「兄ちゃんにあげる!」

ナオトは驚いた。

「俺に?」

「うん!」

「どうして?」

ハルキは少し考えた。

そして、笑顔で答えた。

「兄ちゃん、いつも僕を守ってくれるから!」

ナオトは言葉を失った。

両親を亡くしてから、二人で暮らしてきた。

食べ物が足りない日もあった。

寒い夜もあった。

それでも、ハルキだけは笑っていてほしかった。

「……ありがとうな」

ナオトは弟の頭を撫でた。

ハルキが尋ねる。

「兄ちゃんは、これから忍になるんでしょ?」

「ああ」

「怖くない?」

ナオトは少し考えた。

「……怖い時もあるだろうな」

「じゃあ、やめればいいのに」

「そういうわけにもいかないんだ」

「どうして?」

ナオトは弟の目を見た。

「お前が安心して暮らせるようにするためだよ」

ハルキは首を傾げた。

「僕のため?」

「ああ」

「……じゃあ、僕も強くなる!」

ナオトは笑った。

「無理するな」

「兄ちゃんを守れるくらい強くなる!」

「それは頼もしいな」

二人は笑い合った。

あの頃。

ナオトは、忍になれば大切な人を守れると信じていた。


現在。

三枝ナオトは、引き出しの奥から小さな木彫りの鳥を取り出した。

十年前、弟から贈られたものだった。

片方の羽は少し欠けている。

それでも、捨てることはできなかった。

「……ハルキ」

ナオトは鳥を机へ置いた。

黒い札の欠片と並べる。

守りたかったもの。

そして、守るために手を染めてしまったこと。

二つを見つめながら、ナオトは深く息を吐いた。

「……俺は、何をしてるんだ」

忍になってから、長い年月が過ぎた。

危険な任務に出ることもあった。

仲間を失ったこともある。

それでも、黒影衆を裏切るようなことだけはしないと決めていた。

だが今は違う。

知らない人物の指示に従い、補給路の情報を渡した。

正式な手続きを経ない木箱を運ばせた。

その中から、古い巻物が持ち去られた。

「……」

ナオトは両手で顔を覆った。

「……もう、戻れないのか」

誰も答えなかった。


翌朝。

黒影衆・補給倉庫。

「三枝さん、おはようございます!」

若い補給忍が声をかけた。

ナオトは顔を上げる。

「……ああ、おはよう」

「今日の運搬予定、確認してもらえますか?」

「ああ。そこに置いてくれ」

若い忍は帳簿を机に置いた。

「昨日の第二補給所への運搬、無事に終わったそうですね」

ナオトの手が止まった。

「……そうか」

「はい。管理人から受領の報告が届いています」

「……」

「ただ、追加の二箱について、内容確認の欄が空白なんです」

ナオトは顔を上げた。

「……何?」

若い忍は帳簿を開いた。

「こちらです」

通常の物資なら、運搬先で中身を確認し、受領印を押す。

しかし、追加された二箱には、受領印しかなかった。

「……特別保管品だったからな」

ナオトは答えた。

「中身の確認は不要という指示だった」

若い忍は不思議そうな顔をした。

「そうなんですか?」

「ああ」

「でも、特別保管品なら、別の管理帳簿に記載するはずですよね?」

ナオトは黙った。

「……」

若い忍が続ける。

「その記録も見当たらないんです」

ナオトは帳簿を閉じた。

「……俺が確認しておく」

「分かりました」

若い忍は頭を下げた。

「よろしくお願いします!」

その背中を見送りながら、ナオトは拳を握りしめた。

自分が隠したことによって、何も知らない部下まで不審な運搬に関わってしまっている。

「……」

ナオトは帳簿を開き直した。

追加の二箱。

記録のない物資。

そして、消えた古文書。

「……このままじゃ」

小さく呟いた。

「また、誰かを巻き込む……」


昼。

補給倉庫の裏手。

ナオトは一人、木箱の整理をしていた。

その時、背後から声がした。

「……三枝ナオト」

振り返る。

そこには、頭巾を被った忍が立っていた。

顔の上半分は影に隠れている。

「……!」

ナオトは身体を強張らせた。

「……何の用だ」

相手は答えなかった。

代わりに、懐から一枚の黒い札を取り出した。

札の縁には、三本の細い線が刻まれていた。

ナオトの表情が変わる。

「……お前か」

「声を抑えろ」

低い声だった。

ナオトは周囲を見た。

倉庫の裏手には、今のところ誰もいない。

「……もう、運搬は終わったはずだ」

「終わった」

「だったら、俺に何の用がある」

相手は黒い札を懐へ戻した。

「確認だ」

「……何を?」

「如月セツナに、どこまで話した?」

ナオトの背筋に冷たいものが走った。

「……」

「答えろ」

「……大したことは話していない」

「何を話した?」

ナオトは唇を噛んだ。

「……追加の木箱を運んだことだけだ」

「誰の指示かは?」

「知らないと答えた」

相手はしばらく黙っていた。

そして、静かに言った。

「それでいい」

ナオトは拳を握りしめた。

「……もう、終わりにしてくれ」

「何?」

「俺は、これ以上協力しない」

相手の視線がナオトへ向けられる。

「……自分の立場を理解しているのか?」

「分かっている」

「なら、余計なことを言うな」

ナオトは一歩前へ出た。

「弟に手を出すな」

相手は答えなかった。

「……頼む」

ナオトの声が震える。

「あいつは何も知らない。俺が勝手にやったことだ」

「……」

「責任は俺が取る。だから、弟だけは……」

相手は静かに口を開いた。

「責任?」

ナオトは顔を上げた。

「……」

「お前が何の責任を取れる?」

「……!」

「補給路の情報を渡したのも、お前だ」

「……」

「木箱を運ばせたのも、お前だ」

ナオトは何も言えなかった。

相手は続けた。

「今さら正義を語るつもりか?」

その言葉が、ナオトの胸に突き刺さった。

「……違う」

「何が違う?」

「……俺は」

ナオトは拳を握りしめた。

「……間違えたんだ」

相手は黙った。

ナオトは続ける。

「最初は正式な命令だと思った。でも、途中からおかしいと気づいていた」

「……」

「それでも、弟が怖くて逆らえなかった」

相手の表情は見えない。

「……だから、もう終わりにしたい」

ナオトは真っ直ぐ相手を見た。

「これ以上、仲間を裏切りたくない」

しばらく沈黙が続いた。

やがて、相手が言った。

「……ならば、黙っていろ」

「……」

「それが、お前に残された最後の役目だ」

相手は背を向けた。

ナオトが声を上げる。

「待て!」

しかし、相手は振り返らない。

「弟は……本当に無事なんだろうな!」

足が止まった。

「……明日の朝になれば分かる」

「……何?」

相手はそれ以上答えず、建物の陰へ姿を消した。

ナオトは追いかけようとした。

だが、足が動かなかった。

『明日の朝になれば分かる』

その言葉だけが、頭の中に残っていた。


午後。

補給倉庫。

ナオトは机に向かっていた。

しかし、仕事はほとんど進んでいない。

先ほどの言葉が、何度も思い出された。

『明日の朝になれば分かる』

「……」

弟に何かが起こるのか。

それとも、ただ脅しているだけなのか。

分からない。

分からないことが、何よりも恐ろしかった。

その時、若い補給忍が近づいてきた。

「三枝さん?」

ナオトが顔を上げる。

「……何だ?」

「顔色、悪いですよ」

「……そうか?」

「はい。少し休まれた方がいいんじゃないですか?」

ナオトは首を振った。

「大丈夫だ」

「でも……」

「……大丈夫だと言っている」

思わず、強い口調になった。

若い忍が驚いた顔をする。

「……すみません」

ナオトは我に返った。

「……いや」

深く息を吐く。

「すまない。お前に怒るつもりじゃなかった」

若い忍は首を振った。

「いえ……」

ナオトは少し考えた。

「……今日は、もう上がっていい」

「え?」

「残りは俺がやっておく」

「でも、まだ確認が……」

「頼む」

若い忍はしばらく迷った。

そして、頷いた。

「……分かりました」

頭を下げ、倉庫を出ていく。

ナオトはその背中を見送った。

「……」

自分が何をしているのか。

もう、分からなくなりそうだった。


夕暮れ。

黒影衆の里。

仕事を終えたナオトは、家へ向かって歩いていた。

通りには、買い物帰りの住民たちが行き交っている。

小さな子どもが母親の手を引いていた。

「ねえ、今日のご飯は?」

「帰ってからのお楽しみよ」

楽しそうな声が聞こえる。

ナオトは足を止めた。

「……」

かつて、自分も弟とこんな会話をしていた。

食べ物が少なかった頃。

何とか手に入れた野菜を、二人で分け合った。

それでも、ハルキは笑っていた。

『兄ちゃんがいるから、大丈夫だよ』

「……」

ナオトは目を閉じた。

「……ハルキ」

弟を守るために、何をしてきたのか。

本当に守れているのか。

答えは、まだ出なかった。


夜。

三枝ナオトの自宅。

机の上には、黒い札の欠片が置かれていた。

ナオトは、その隣に一枚の紙を広げた。

筆を手に取る。

そして、ゆっくりと文字を書き始めた。

『如月セツナ様』

そこで手が止まる。

「……」

書けば、後戻りはできない。

自分が関わったことを全て明らかにすれば、処罰を受けるかもしれない。

弟が危険にさらされる可能性もある。

それでも。

黙っていれば、また別の誰かが傷つくかもしれない。

ナオトは筆を握り直した。

『私は、黒影衆の補給管理において、正式な手続きを経ない物資の移動に関与しました』

一文字ずつ書き進める。

『また、北側補給路に関する情報を、身元不明の人物へ渡しました』

ナオトは一度、筆を置いた。

手が震えている。

「……」

それでも、再び筆を取った。

『相手は黒い札を所持しています』

『札の一部は、私が保管しています』

『弟の安全を確認していただきたい』

最後に、自分の名前を書いた。

三枝ナオト。

「……」

書き終えた紙を見つめる。

これまで、何度も逃げてきた。

自分は知らなかった。

正式な命令だと思った。

弟を守るためだった。

どれも嘘ではない。

しかし、それだけで自分の行動が許されるわけではなかった。

ナオトは手紙を折り畳んだ。

黒い札の欠片を小さな布で包む。

そして、二つを懐へしまった。

「……明日の朝」

静かに呟く。

「セツナ様に、全部話そう」

立ち上がり、窓の外を見た。

夜の里は静かだった。

遠くには、黒影衆本部の灯りが見える。

あそこへ行けば、自分のしたことが明らかになる。

それでも、行かなければならない。

ナオトは小さな木彫りの鳥を手に取った。

「……ハルキ」

欠けた羽を指先でなぞる。

「兄ちゃんは、間違えた」

声が震えた。

「でも……もう、間違えたままにはしない」

鳥を机へ戻す。

そして、灯りを消した。


深夜。

三枝ナオトの自宅前。

人通りの絶えた道に、一つの人影が立っていた。

頭巾を被った忍。

その人物は、ナオトの家を静かに見つめていた。

「……」

窓からは、もう灯りが漏れていない。

人影は懐から黒い札を取り出した。

札の縁には、三本の細い線。

そのうち一つの角が、小さく欠けていた。

「……まだ持っていたか」

低い声が漏れた。

そして、ゆっくりと札をしまう。

「……余計なことを考えるなよ、三枝」

人影は家から離れた。

しかし、すぐには立ち去らなかった。

少し離れた路地で足を止め、再び家へ目を向ける。

ナオトが何を決断したのか。

その人物は、まだ知らない。

だが、ナオトの手元に札の欠片が残っていることだけは、気にしていた。

夜の闇が、二人の間に横たわっていた。

守るために沈黙を選んだ男。

その沈黙によって、仲間を危険にさらしてしまった男。

そして今。

真実を語る決意を固めた男。

三枝ナオトの選択が、黒影衆内部に広がる疑念を動かそうとしていた。

第140話 完

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