第140話「沈黙の代償」
黒影衆の里。
夜が深まり、家々の灯りが一つずつ消えていく。
里の北側にある小さな住宅では、まだ一つの灯りが残っていた。
三枝ナオトの自宅だった。
机の上には、二枚の手紙が置かれている。
一枚目。
『余計なことは話すな』
『お前の弟が暮らす町を忘れるな』
そして、今夜届いた二枚目。
『最後の忠告だ』
『弟を守りたければ、明日の夜まで黙っていろ』
ナオトは、その文字を何度も読み返していた。
「……明日の夜」
何が起こるというのか。
なぜ、それまで黙っていなければならないのか。
答えは書かれていなかった。
ただ、相手が弟の居場所を知っていることだけは確かだった。
「……」
ナオトは机の引き出しを開いた。
そこには、小さな黒い欠片が入っている。
以前、正体不明の忍が持っていた黒い札。
その端が欠けて落ちたものだった。
ナオトは欠片を手に取った。
表面には、肉眼では読み取れないほど細い文字が刻まれている。
「……これさえ渡せば」
如月セツナの顔が浮かんだ。
『あなたが何かを隠していることは分かっているわ』
『なら、協力して』
ナオトは目を閉じた。
「……でも」
弟の顔が浮かぶ。
三枝ハルキ。
自分より八歳年下の弟。
幼い頃から身体が弱く、忍になる道を選ばなかった。
今は南東の宿場町で、薬草商の手伝いをしている。
忍の世界とは距離を置き、静かに暮らしているはずだった。
「……あいつだけは」
ナオトは欠片を握りしめた。
「巻き込みたくなかったのに……」
十年前。
黒影衆の里から離れた、小さな村。
まだ若かったナオトは、家の前で薪を割っていた。
「兄ちゃん!」
背後から声がした。
振り返ると、幼いハルキが走ってくる。
「どうした?」
「見て!」
ハルキは両手を差し出した。
そこには、小さな木彫りの鳥があった。
「……これ、お前が作ったのか?」
「うん!」
ナオトは受け取った。
形は少し歪んでいたが、羽の部分まで丁寧に彫られている。
「上手いじゃないか」
「本当?」
「ああ」
ハルキは嬉しそうに笑った。
「兄ちゃんにあげる!」
ナオトは驚いた。
「俺に?」
「うん!」
「どうして?」
ハルキは少し考えた。
そして、笑顔で答えた。
「兄ちゃん、いつも僕を守ってくれるから!」
ナオトは言葉を失った。
両親を亡くしてから、二人で暮らしてきた。
食べ物が足りない日もあった。
寒い夜もあった。
それでも、ハルキだけは笑っていてほしかった。
「……ありがとうな」
ナオトは弟の頭を撫でた。
ハルキが尋ねる。
「兄ちゃんは、これから忍になるんでしょ?」
「ああ」
「怖くない?」
ナオトは少し考えた。
「……怖い時もあるだろうな」
「じゃあ、やめればいいのに」
「そういうわけにもいかないんだ」
「どうして?」
ナオトは弟の目を見た。
「お前が安心して暮らせるようにするためだよ」
ハルキは首を傾げた。
「僕のため?」
「ああ」
「……じゃあ、僕も強くなる!」
ナオトは笑った。
「無理するな」
「兄ちゃんを守れるくらい強くなる!」
「それは頼もしいな」
二人は笑い合った。
あの頃。
ナオトは、忍になれば大切な人を守れると信じていた。
現在。
三枝ナオトは、引き出しの奥から小さな木彫りの鳥を取り出した。
十年前、弟から贈られたものだった。
片方の羽は少し欠けている。
それでも、捨てることはできなかった。
「……ハルキ」
ナオトは鳥を机へ置いた。
黒い札の欠片と並べる。
守りたかったもの。
そして、守るために手を染めてしまったこと。
二つを見つめながら、ナオトは深く息を吐いた。
「……俺は、何をしてるんだ」
忍になってから、長い年月が過ぎた。
危険な任務に出ることもあった。
仲間を失ったこともある。
それでも、黒影衆を裏切るようなことだけはしないと決めていた。
だが今は違う。
知らない人物の指示に従い、補給路の情報を渡した。
正式な手続きを経ない木箱を運ばせた。
その中から、古い巻物が持ち去られた。
「……」
ナオトは両手で顔を覆った。
「……もう、戻れないのか」
誰も答えなかった。
翌朝。
黒影衆・補給倉庫。
「三枝さん、おはようございます!」
若い補給忍が声をかけた。
ナオトは顔を上げる。
「……ああ、おはよう」
「今日の運搬予定、確認してもらえますか?」
「ああ。そこに置いてくれ」
若い忍は帳簿を机に置いた。
「昨日の第二補給所への運搬、無事に終わったそうですね」
ナオトの手が止まった。
「……そうか」
「はい。管理人から受領の報告が届いています」
「……」
「ただ、追加の二箱について、内容確認の欄が空白なんです」
ナオトは顔を上げた。
「……何?」
若い忍は帳簿を開いた。
「こちらです」
通常の物資なら、運搬先で中身を確認し、受領印を押す。
しかし、追加された二箱には、受領印しかなかった。
「……特別保管品だったからな」
ナオトは答えた。
「中身の確認は不要という指示だった」
若い忍は不思議そうな顔をした。
「そうなんですか?」
「ああ」
「でも、特別保管品なら、別の管理帳簿に記載するはずですよね?」
ナオトは黙った。
「……」
若い忍が続ける。
「その記録も見当たらないんです」
ナオトは帳簿を閉じた。
「……俺が確認しておく」
「分かりました」
若い忍は頭を下げた。
「よろしくお願いします!」
その背中を見送りながら、ナオトは拳を握りしめた。
自分が隠したことによって、何も知らない部下まで不審な運搬に関わってしまっている。
「……」
ナオトは帳簿を開き直した。
追加の二箱。
記録のない物資。
そして、消えた古文書。
「……このままじゃ」
小さく呟いた。
「また、誰かを巻き込む……」
昼。
補給倉庫の裏手。
ナオトは一人、木箱の整理をしていた。
その時、背後から声がした。
「……三枝ナオト」
振り返る。
そこには、頭巾を被った忍が立っていた。
顔の上半分は影に隠れている。
「……!」
ナオトは身体を強張らせた。
「……何の用だ」
相手は答えなかった。
代わりに、懐から一枚の黒い札を取り出した。
札の縁には、三本の細い線が刻まれていた。
ナオトの表情が変わる。
「……お前か」
「声を抑えろ」
低い声だった。
ナオトは周囲を見た。
倉庫の裏手には、今のところ誰もいない。
「……もう、運搬は終わったはずだ」
「終わった」
「だったら、俺に何の用がある」
相手は黒い札を懐へ戻した。
「確認だ」
「……何を?」
「如月セツナに、どこまで話した?」
ナオトの背筋に冷たいものが走った。
「……」
「答えろ」
「……大したことは話していない」
「何を話した?」
ナオトは唇を噛んだ。
「……追加の木箱を運んだことだけだ」
「誰の指示かは?」
「知らないと答えた」
相手はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「それでいい」
ナオトは拳を握りしめた。
「……もう、終わりにしてくれ」
「何?」
「俺は、これ以上協力しない」
相手の視線がナオトへ向けられる。
「……自分の立場を理解しているのか?」
「分かっている」
「なら、余計なことを言うな」
ナオトは一歩前へ出た。
「弟に手を出すな」
相手は答えなかった。
「……頼む」
ナオトの声が震える。
「あいつは何も知らない。俺が勝手にやったことだ」
「……」
「責任は俺が取る。だから、弟だけは……」
相手は静かに口を開いた。
「責任?」
ナオトは顔を上げた。
「……」
「お前が何の責任を取れる?」
「……!」
「補給路の情報を渡したのも、お前だ」
「……」
「木箱を運ばせたのも、お前だ」
ナオトは何も言えなかった。
相手は続けた。
「今さら正義を語るつもりか?」
その言葉が、ナオトの胸に突き刺さった。
「……違う」
「何が違う?」
「……俺は」
ナオトは拳を握りしめた。
「……間違えたんだ」
相手は黙った。
ナオトは続ける。
「最初は正式な命令だと思った。でも、途中からおかしいと気づいていた」
「……」
「それでも、弟が怖くて逆らえなかった」
相手の表情は見えない。
「……だから、もう終わりにしたい」
ナオトは真っ直ぐ相手を見た。
「これ以上、仲間を裏切りたくない」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、相手が言った。
「……ならば、黙っていろ」
「……」
「それが、お前に残された最後の役目だ」
相手は背を向けた。
ナオトが声を上げる。
「待て!」
しかし、相手は振り返らない。
「弟は……本当に無事なんだろうな!」
足が止まった。
「……明日の朝になれば分かる」
「……何?」
相手はそれ以上答えず、建物の陰へ姿を消した。
ナオトは追いかけようとした。
だが、足が動かなかった。
『明日の朝になれば分かる』
その言葉だけが、頭の中に残っていた。
午後。
補給倉庫。
ナオトは机に向かっていた。
しかし、仕事はほとんど進んでいない。
先ほどの言葉が、何度も思い出された。
『明日の朝になれば分かる』
「……」
弟に何かが起こるのか。
それとも、ただ脅しているだけなのか。
分からない。
分からないことが、何よりも恐ろしかった。
その時、若い補給忍が近づいてきた。
「三枝さん?」
ナオトが顔を上げる。
「……何だ?」
「顔色、悪いですよ」
「……そうか?」
「はい。少し休まれた方がいいんじゃないですか?」
ナオトは首を振った。
「大丈夫だ」
「でも……」
「……大丈夫だと言っている」
思わず、強い口調になった。
若い忍が驚いた顔をする。
「……すみません」
ナオトは我に返った。
「……いや」
深く息を吐く。
「すまない。お前に怒るつもりじゃなかった」
若い忍は首を振った。
「いえ……」
ナオトは少し考えた。
「……今日は、もう上がっていい」
「え?」
「残りは俺がやっておく」
「でも、まだ確認が……」
「頼む」
若い忍はしばらく迷った。
そして、頷いた。
「……分かりました」
頭を下げ、倉庫を出ていく。
ナオトはその背中を見送った。
「……」
自分が何をしているのか。
もう、分からなくなりそうだった。
夕暮れ。
黒影衆の里。
仕事を終えたナオトは、家へ向かって歩いていた。
通りには、買い物帰りの住民たちが行き交っている。
小さな子どもが母親の手を引いていた。
「ねえ、今日のご飯は?」
「帰ってからのお楽しみよ」
楽しそうな声が聞こえる。
ナオトは足を止めた。
「……」
かつて、自分も弟とこんな会話をしていた。
食べ物が少なかった頃。
何とか手に入れた野菜を、二人で分け合った。
それでも、ハルキは笑っていた。
『兄ちゃんがいるから、大丈夫だよ』
「……」
ナオトは目を閉じた。
「……ハルキ」
弟を守るために、何をしてきたのか。
本当に守れているのか。
答えは、まだ出なかった。
夜。
三枝ナオトの自宅。
机の上には、黒い札の欠片が置かれていた。
ナオトは、その隣に一枚の紙を広げた。
筆を手に取る。
そして、ゆっくりと文字を書き始めた。
『如月セツナ様』
そこで手が止まる。
「……」
書けば、後戻りはできない。
自分が関わったことを全て明らかにすれば、処罰を受けるかもしれない。
弟が危険にさらされる可能性もある。
それでも。
黙っていれば、また別の誰かが傷つくかもしれない。
ナオトは筆を握り直した。
『私は、黒影衆の補給管理において、正式な手続きを経ない物資の移動に関与しました』
一文字ずつ書き進める。
『また、北側補給路に関する情報を、身元不明の人物へ渡しました』
ナオトは一度、筆を置いた。
手が震えている。
「……」
それでも、再び筆を取った。
『相手は黒い札を所持しています』
『札の一部は、私が保管しています』
『弟の安全を確認していただきたい』
最後に、自分の名前を書いた。
三枝ナオト。
「……」
書き終えた紙を見つめる。
これまで、何度も逃げてきた。
自分は知らなかった。
正式な命令だと思った。
弟を守るためだった。
どれも嘘ではない。
しかし、それだけで自分の行動が許されるわけではなかった。
ナオトは手紙を折り畳んだ。
黒い札の欠片を小さな布で包む。
そして、二つを懐へしまった。
「……明日の朝」
静かに呟く。
「セツナ様に、全部話そう」
立ち上がり、窓の外を見た。
夜の里は静かだった。
遠くには、黒影衆本部の灯りが見える。
あそこへ行けば、自分のしたことが明らかになる。
それでも、行かなければならない。
ナオトは小さな木彫りの鳥を手に取った。
「……ハルキ」
欠けた羽を指先でなぞる。
「兄ちゃんは、間違えた」
声が震えた。
「でも……もう、間違えたままにはしない」
鳥を机へ戻す。
そして、灯りを消した。
深夜。
三枝ナオトの自宅前。
人通りの絶えた道に、一つの人影が立っていた。
頭巾を被った忍。
その人物は、ナオトの家を静かに見つめていた。
「……」
窓からは、もう灯りが漏れていない。
人影は懐から黒い札を取り出した。
札の縁には、三本の細い線。
そのうち一つの角が、小さく欠けていた。
「……まだ持っていたか」
低い声が漏れた。
そして、ゆっくりと札をしまう。
「……余計なことを考えるなよ、三枝」
人影は家から離れた。
しかし、すぐには立ち去らなかった。
少し離れた路地で足を止め、再び家へ目を向ける。
ナオトが何を決断したのか。
その人物は、まだ知らない。
だが、ナオトの手元に札の欠片が残っていることだけは、気にしていた。
夜の闇が、二人の間に横たわっていた。
守るために沈黙を選んだ男。
その沈黙によって、仲間を危険にさらしてしまった男。
そして今。
真実を語る決意を固めた男。
三枝ナオトの選択が、黒影衆内部に広がる疑念を動かそうとしていた。
第140話 完




