第139話「守るべき秘密」
黒影衆の里。
朝の冷たい風が、家々の間を通り抜けていた。
里の北側にある小さな住宅。
その一室で、三枝ナオトは机に向かっていた。
目の前には、一枚の手紙。
『余計なことは話すな』
『お前の弟が暮らす町を忘れるな』
何度読み返しても、そこに書かれた言葉は変わらない。
「……」
ナオトは手紙を裏返した。
そして、引き出しの奥へしまう。
昨夜は、ほとんど眠れなかった。
弟のことが心配だった。
だが、今すぐ会いに行けば、かえって危険に巻き込むかもしれない。
「……どうすればいい」
小さく呟いた時だった。
玄関の戸を叩く音がした。
「三枝さん。いらっしゃいますか?」
聞き覚えのある女性の声。
ナオトの表情が強張る。
「……セツナ様?」
黒影衆本部・情報室。
「三枝ナオトには、弟が一人います」
情報部門の忍が、昨夜まとめた調査結果を読み上げていた。
「名前は三枝ハルキ。二十二歳。現在は黒影衆の里から離れた南東の宿場町で、薬草商の手伝いをしています」
如月セツナは書類を受け取った。
「忍ではないのね」
「はい。一般の住民です」
「最後に兄弟が会ったのは?」
「記録では、およそ二か月前です」
セツナは頷いた。
「宿場町に異変は?」
「今のところ、報告はありません」
「……そう」
セツナは少し考えた。
「現地に二人送って」
「弟の護衛ですか?」
「まずは無事を確認して。本人に不安を与えないよう、目立たずにね」
「承知しました」
「それと、三枝ナオトには私が話すわ」
部下が顔を上げる。
「再度の事情聴取ですか?」
「ええ。でも、今回は本部へ呼ばない」
「……?」
セツナは書類を閉じた。
「彼は誰かに見張られている可能性がある。本部へ何度も呼べば、相手を刺激するかもしれない」
部下は頷いた。
「分かりました」
セツナは立ち上がった。
「それから、ナオトが受け取った封筒の差出人も調べて」
「はい」
「封筒を届けた若い忍を責めないこと。本人も事情を知らない可能性が高いわ」
「承知しました」
三枝ナオトの自宅。
戸を開けると、セツナが立っていた。
「……おはようございます」
ナオトは深く頭を下げた。
「突然ごめんなさい」
「いえ……」
「少し、お話できる?」
ナオトは迷った。
しかし、やがて小さく頷いた。
「……どうぞ」
二人は居間へ入った。
セツナは部屋を見渡す。
質素な家具。
整理された帳簿。
壁には、家族の写真が飾られていた。
「……弟さん?」
セツナが写真を見た。
ナオトの表情が変わる。
「……はい」
「仲がいいのね」
「……昔から、二人で暮らしていた時期が長かったので」
セツナは椅子へ腰を下ろした。
「そう」
ナオトも向かいに座る。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、セツナが口を開いた。
「……昨日、手紙が届いたでしょう」
ナオトの肩が僅かに震えた。
「……」
「内容を聞いてもいい?」
「……仕事の連絡です」
セツナは首を振った。
「三枝さん」
「……」
「もう、無理に隠さなくていいわ」
ナオトは顔を伏せた。
セツナは静かに続ける。
「弟さんのことね」
その瞬間。
ナオトが顔を上げた。
「……!」
「三枝ハルキさん。南東の宿場町に住んでいる」
「……どうして」
「調べさせてもらったわ」
ナオトは立ち上がりかけた。
「弟に何かあったんですか!?」
「落ち着いて。今のところ、異変があったという報告はないわ」
「……」
「ただ、念のため無事を確認させている」
ナオトはゆっくり座り直した。
「……そうですか」
セツナは声を和らげた。
「脅されているのね」
ナオトは答えなかった。
しかし、握りしめた手が震えていた。
「……最初から話してくれる?」
長い沈黙。
やがて、ナオトが口を開いた。
「……最初は、ただの運搬依頼でした」
セツナは黙って聞いた。
「通常の補給とは別に、木箱を移動してほしいと……」
「誰から?」
「……分かりません」
「顔は?」
「隠していました」
ナオトは続ける。
「でも、本部の命令印が押された書状を持っていたんです」
「……」
「だから、最初は正式な命令だと思いました」
セツナは頷いた。
「その後は?」
「何度か、補給路の予定を聞かれました」
「監視塔の交代時間も?」
ナオトは顔を上げた。
「……それは」
「正直に話して」
「……一度だけ、聞かれました」
セツナの表情が僅かに変わった。
「答えたの?」
「補給の予定を立てるためだと言われて……」
ナオトは唇を噛んだ。
「……答えてしまいました」
セツナは静かに頷いた。
「それで?」
「しばらくして、弟の住む町の名前を出されたんです」
「……」
「協力をやめれば、弟に何が起こるか分からないと」
ナオトの声が震えた。
「俺は……」
セツナは急かさなかった。
「……怖かったんです」
ナオトは顔を伏せた。
「弟は忍でもない。戦う力なんてないんです」
「……」
「俺が断ったせいで、あいつが傷ついたら……」
セツナは静かに答えた。
「弟さんを守りたかったのね」
ナオトは頷いた。
「……はい」
「でも、あなたが渡した情報で、別の誰かが危険にさらされた可能性もある」
ナオトは目を閉じた。
「……分かっています」
「……」
「だから、もう終わらせたいんです」
セツナは少し身を乗り出した。
「なら、協力して」
ナオトが顔を上げる。
「……俺に、できることがあるんですか?」
「あるわ」
セツナは真剣な表情で答えた。
「あなたが受け取った命令書や、相手の特徴を教えてほしい」
「……」
「弟さんの安全は、こちらでも確認する」
ナオトはしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「……分かりました」
黒影衆・第二修行場。
「……よし、今日はここまでだ」
風間コウガが木刀を下ろした。
蒼真も構えを解く。
「ありがとうございました!」
「まだ身体を動かしすぎるなよ」
「はい」
コウガは蒼真の足運びを振り返った。
「昨日より安定している」
蒼真が笑う。
「本当ですか?」
「ああ。ただ、踏み込みはまだ浅くていい」
「分かりました」
その時。
修行場の入り口から蓮司が顔を出した。
「おーい、蒼真!」
「蓮司?」
「飯行こうぜ!」
蒼真は笑った。
「もう昼か」
蓮司が頷く。
「凛も待ってる」
コウガが腕を組む。
「蓮司、お前は修行していないだろうな?」
蓮司の表情が止まった。
「……してませんよ」
「本当か?」
「本当です!」
蒼真が笑う。
「昨日、木刀持ってただろ」
「それ昨日の話だろ!」
コウガは苦笑した。
「元気なのは結構だが、怪我が治るまでは大人しくしていろ」
「……はい」
蒼真は木刀を片付けた。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ」
二人が歩き出す。
コウガはその背中を見送った。
「……」
以前の蒼真は、強くなることばかりを急いでいた。
しかし、地下から帰ってきてからは少し違う。
風を扱うこと。
仲間と歩調を合わせること。
そして、自分の限界を知ること。
「……宗玄」
コウガは小さく呟いた。
「いいものを教えたようだな」
黒影衆・食堂。
凛は先に席を取っていた。
「遅い!」
蓮司が笑う。
「悪い悪い!」
蒼真も腰を下ろす。
「コウガさんと話してたんだ」
凛が頷いた。
「修行はどう?」
「まだ軽い動きだけだけど、少しずつ」
「よかった」
蓮司は食事を受け取ると、早速箸を手にした。
「いただきます!」
蒼真が笑う。
「お前、本当に腹減ってるんだな」
「当たり前だろ!」
凛が呆れた顔をする。
「食べすぎないでよ。まだお腹の傷が治りきってないんだから」
「飯食うのまで制限されるのかよ!」
三人は笑った。
その時、蒼真がふと窓の外を見た。
本部へ向かう数人の上忍。
いつもより足早に歩いている。
「……」
凛が気づいた。
「どうしたの?」
「いや……」
蒼真は首を振った。
「最近、本部が忙しそうだなって」
蓮司が顔を上げる。
「風影刀のことか?」
「それもあると思う」
凛は少し考えた。
「何かあったら、影宗様たちが教えてくれるんじゃない?」
蒼真は頷いた。
「……そうだな」
蓮司が笑う。
「今は怪我治すのが先だろ!」
「お前が言うなよ」
三人は再び笑った。
黒影衆本部・古文書庫。
影宗は、第一巻と第二巻を調べていた。
隣には、古文書の管理担当者が立っている。
「……第三巻の保管記録は、いつからある?」
影宗が尋ねる。
「少なくとも、五十年以上前からです」
「その前は?」
「記録が残っていません」
影宗は頷いた。
「……そうか」
管理担当者が続ける。
「ただ、古い整理台帳に気になる記述がありました」
影宗が顔を上げる。
「何だ?」
管理担当者は一冊の古い帳簿を差し出した。
「こちらです」
影宗は慎重に開いた。
古びた紙には、昔の筆跡が残されている。
『風影刀関連古文書』
『第一巻 風の理』
『第二巻 二刀の誓い』
『第三巻 封じられた記録』
影宗の指が止まった。
「……封じられた記録」
管理担当者が頷く。
「はい」
影宗は続きに目を通した。
しかし、第三巻の説明部分は大きく削られていた。
「……」
削られた箇所の下。
僅かに残る文字。
『継ぐ者を――』
その先は読めなかった。
影宗は帳簿を閉じた。
「……セツナに見せる必要があるな」
夕方。
黒影衆本部・情報室。
セツナは、三枝ナオトから聞き取った内容を整理していた。
机の上には、黒い札の特徴を書き留めた紙が置かれている。
「……札の縁に、三本の細い線」
部下が頷いた。
「北条ユウキの証言とも一致しています」
「ええ」
「では、同じ人物でしょうか?」
セツナは首を振った。
「同じ札を使っている可能性は高い。でも、同じ人物とは限らない」
「……なるほど」
セツナは続ける。
「三枝ナオトによると、相手は毎回顔を隠していた」
「声は?」
「低い声だったそうよ。ただ、声色を変えていた可能性もある」
部下は記録を取った。
その時、別の情報忍が入ってきた。
「セツナ様!」
「どうしたの?」
「南東の宿場町から連絡です」
セツナが顔を上げる。
「三枝ハルキは?」
「無事を確認しました」
「……よかった」
「ただし、一つ気になることが」
セツナの表情が引き締まる。
「何?」
「ここ数日、見知らぬ旅人が薬草店の周囲を訪れているそうです」
「……」
「店主によると、買い物をせずに帰ることが多いと」
セツナは少し考えた。
「人数は?」
「少なくとも二人です」
「特徴は?」
「一人は背が高く、もう一人は小柄だったとのことです」
セツナは頷いた。
「現地の忍には、引き続き警戒を指示して」
「はい」
「ただし、旅人をすぐに捕らえないこと」
「……?」
「本当に関係者かどうか、まだ分からないわ」
部下は頭を下げた。
「承知しました」
セツナは窓の外を見た。
「……弟さんが無事なのはよかった」
しかし、安心はできない。
三枝ナオトへの脅迫が、単なる言葉だけではない可能性が出てきた。
黒影衆本部・頭領室。
影宗は、古い整理台帳を玄十郎へ見せていた。
「……第三巻の題名が分かった」
玄十郎が顔を上げる。
「何と?」
「封じられた記録」
玄十郎は眉を寄せた。
「……封じられた?」
「ああ」
影宗は帳簿を開いた。
「説明部分は削られているが、風継ぎに関わる記述があった可能性がある」
玄十郎は静かに読んだ。
「……なるほど」
影宗が続ける。
「蒼真が地下で見た記録とも、何か関係があるかもしれん」
「……」
玄十郎は帳簿を閉じた。
「だが、まだ確かなことは分からんな」
「ああ」
「第三巻を取り戻す必要がある」
影宗は頷いた。
「セツナが追っている」
玄十郎は少し考えた。
「……影宗」
「何だ?」
「この件は、風影刀の管理問題とは分けて扱え」
影宗が顔を上げる。
「……なぜだ?」
「第三巻が盗まれたことを理由に、蒼真を疑う者が出るかもしれん」
「……」
「だが、蒼真が関与した証拠はない」
影宗は静かに頷いた。
「……分かっている」
玄十郎は続けた。
「組織の内部で疑いが広がれば、真実を見失う」
「……ああ」
「誰を守るべきか、間違えるな」
影宗はその言葉を聞き、僅かに目を細めた。
地下で蒼真が聞いたという、古い言葉。
『守るべきものを、間違えるな』
偶然なのか。
それとも、何か意味があるのか。
影宗には、まだ分からなかった。
夜。
黒影衆の里。
三枝ナオトは、自宅の机に向かっていた。
昼間、セツナに話したことを思い返す。
自分が渡した情報。
運ばせた木箱。
そして、弟への脅迫。
「……」
ナオトは引き出しを開いた。
中には、黒い札の欠片が入っていた。
以前、正体不明の忍から命令書を渡された際、札の端が欠けて床に落ちたものだった。
ナオトはそれを拾い、誰にも言わずに保管していた。
「……これを渡せば」
セツナの顔が浮かぶ。
『なら、協力して』
ナオトは欠片を握りしめた。
「……もう、逃げるのはやめよう」
立ち上がる。
そして、外套を手に取った。
しかし。
玄関へ向かおうとした時だった。
戸の隙間から、一枚の紙が差し込まれた。
ナオトの足が止まる。
「……!」
ゆっくり拾い上げる。
紙には、短い文章が書かれていた。
『最後の忠告だ』
その下には、さらに一文。
『弟を守りたければ、明日の夜まで黙っていろ』
ナオトの表情が強張った。
「……明日の夜?」
その意味は分からなかった。
しかし、何かが起ころうとしている。
それだけは理解できた。
ナオトは手の中の黒い札の欠片を見つめた。
「……」
弟を守るために黙り続けるのか。
それとも、全てを話すのか。
ナオトは長い間、その場から動けなかった。
やがて、ゆっくり顔を上げる。
「……俺が黙っていても」
震える声で呟いた。
「本当に、弟は守られるのか……?」
その問いに答える者はいなかった。
外では、冷たい夜風が吹いていた。
黒影衆の里。
守るためについた嘘が、別の誰かを危険にさらしていく。
そして、その嘘を終わらせるためには、真実を語る勇気が必要だった。
三枝ナオトは、まだ決断できずにいた。
しかし、手の中には、真実へ繋がる小さな欠片が残されていた。
第139話 完




