第138話「忍び寄る疑念」
黒影衆の里。
朝の陽光が、山々に囲まれた里を照らしていた。
修行場からは若い忍たちの声が聞こえ、商店の並ぶ通りには少しずつ人が集まり始めている。
普段と変わらない朝。
しかし、黒影衆本部では、夜通し調査が続けられていた。
古文書庫から消えた第三巻。
北側監視塔の改ざんされた記録。
そして、正体不明の黒い札。
別々に見えていた出来事が、少しずつ結びつき始めていた。
黒影衆本部・情報室。
「……やはり、記録が合わないわね」
如月セツナは机の上に二冊の帳簿を広げていた。
一冊は古文書庫の管理記録。
もう一冊は本部の物資移動記録だった。
隣では、情報部門の若い忍が書類を確認している。
「セツナ様。こちらの記録では、古文書庫から補給倉庫への移動はありません」
「ええ」
「ですが、第三巻が消えている」
「そうね」
セツナは帳簿の一部分を指差した。
「この日を見て」
部下が覗き込む。
「……古文書庫の整理が行われた日ですね」
「その日に、補給倉庫へ古い木箱が三つ運ばれている」
「……!」
「でも、移動元が記載されていないの」
部下は別の帳簿を確認した。
「確かに……」
セツナは静かに続ける。
「第三巻がその中にあったとは限らないわ。ただ、確認する価値はある」
「運搬担当者を調べますか?」
「お願い」
「承知しました」
部下が退出すると、セツナは椅子の背にもたれた。
「……」
三枝ナオト。
補給管理を担当する中忍。
昨日の聞き取りでは、追加の木箱を運ばせたことを認めている。
しかし、指示した人物の名前は話さなかった。
『……今は、聞かないでください』
その言葉を思い出す。
「……何を恐れているのかしら」
セツナは小さく呟いた。
黒影衆・第二修行場。
蒼真は木刀を手に、ゆっくりと足を運んでいた。
右足を前へ。
腰を落とす。
呼吸を整え、木刀を斜めに構える。
そこから一歩踏み込もうとして、脇腹に僅かな痛みが走った。
「……」
蒼真は動きを止めた。
「まだ、少し痛むか」
木刀を下ろす。
その時、背後から声がした。
「無理をしないのは、いい判断だ」
振り返ると、風間コウガが立っていた。
「コウガさん」
「傷の具合は?」
「かなり良くなりました。でも、踏み込むと少し痛みます」
「なら、まだ踏み込むな」
「……はい」
コウガは隣に立った。
「今日は何を意識していた?」
「身体の動きです」
「風遁ではなく?」
「はい。宗玄に、風は無理に動かすものじゃないって教わったので」
コウガは頷いた。
「なるほどな」
蒼真は木刀を見下ろした。
「前は、速く振ることばかり考えてました」
「今は?」
「……相手がどう動くかを考えるようになりました」
コウガは少し笑った。
「悪くない」
「本当ですか?」
「ああ。ただし、相手を見ることに集中しすぎるな」
「……?」
「自分の足元も忘れるなということだ」
蒼真が首を傾げる。
コウガは木刀を一本手に取った。
「例えば、相手が右へ動いたとする」
「はい」
「お前は追いかけるか?」
「……状況によります」
「いい答えだ」
コウガはゆっくりと横へ移動した。
「相手を追えば、自分の立つ場所も変わる。そこで仲間との距離が開くこともある」
蒼真は頷いた。
「……地下で、それがありました」
「そうか」
「蓮司と離れそうになって、凛たちのところへ戻るのが遅れました」
コウガは木刀を下ろした。
「なら、次はその経験を生かせ」
「はい」
蒼真は少し笑った。
「……早く、みんなと修行したいです」
「焦るな。蓮司もレイも、まだ治療中だろう」
「そうですね」
コウガは蒼真の肩を軽く叩いた。
「今は考える修行をしておけ」
黒影衆本部・評定の間。
鬼塚ジンは、黒崎玄十郎の前に立っていた。
机の上には、風影刀に関する新しい調査計画が置かれている。
「……調査は三段階に分けます」
ジンが説明を始めた。
「まず、風影刀の外観と材質の確認」
玄十郎が頷く。
「続けろ」
「次に、風遁との反応を調べます。ただし、実際に術を使用するのは蒼真の傷が完治してからです」
「……うむ」
「最後に、過去の記録との照合を行います」
玄十郎は書類を読んだ。
「危険な試験は含まれていないな」
「はい」
「蒼真の同意は?」
「これから確認します」
玄十郎は書類を机へ戻した。
「ならば、この方針で進めてよい」
ジンが頭を下げる。
「承知しました」
その時、玄十郎が口を開いた。
「……ジン」
「はい」
「お前は、蒼真をどう見ている?」
ジンは少し考えた。
「……未熟ですが、見込みのある忍です」
「それだけか?」
「仲間を守ろうとする意志は強い」
玄十郎は頷いた。
「そうか」
ジンは続けた。
「ただ、その意志が強すぎるあまり、自分の危険を顧みないところがあります」
「……」
「風影刀が、その無理を助長しないか心配しています」
玄十郎はしばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「ならば、それを本人に教えてやれ」
ジンが顔を上げる。
「……私が、ですか」
「お前は上忍だろう」
「……はい」
「管理するだけが上忍の仕事ではない」
ジンは深く頭を下げた。
「……承知しました」
昼過ぎ。
黒影衆・医務室。
「だから、まだ駄目だって言ってるでしょう!」
白石ユズハの声が響いた。
蓮司は寝台の端に腰掛けていた。
「いや、少し歩くだけですよ!」
「さっき修行場まで走ろうとしたでしょう」
「……走ろうとはしてません」
「蓮司」
「……ちょっと早歩きしようとしました」
凛が呆れた顔をする。
「ほとんど同じじゃない」
蒼真は隣で笑っていた。
「お前、本当に懲りないな」
「だって、身体が鈍るだろ!」
レイが静かに言った。
「……傷が開いたら、もっと長く休むことになる」
蓮司はレイを見た。
「お前、最近ユズハさん側だな」
「……正しいことを言っているだけだ」
ユズハが頷く。
「レイを見習いなさい」
しかし、次の瞬間。
「それとレイ」
「……はい」
「昨日、右手で短刀の手入れをしようとしていたわね」
レイの表情が止まった。
蓮司が笑い出す。
「お前もじゃねぇか!」
「……手入れだけだ」
「駄目なものは駄目」
ユズハは二人を見比べた。
「まったく、似た者同士ね」
凛が笑う。
「本当にそうですね」
蒼真も頷いた。
「ああ」
蓮司とレイは、同時に顔を背けた。
午後。
黒影衆・補給倉庫。
三枝ナオトは、物資の帳簿を整理していた。
昨日から、ほとんど眠れていない。
セツナとの会話が頭から離れなかった。
『あなたが何かを隠していることは分かっているわ』
「……」
ナオトは帳簿を閉じた。
その時。
倉庫の入り口から、若い忍が声をかけた。
「三枝さん!」
「……何だ?」
「こちら、届いていました」
若い忍は小さな封筒を差し出した。
「誰からだ?」
「分かりません。荷物の確認台に置いてありました」
ナオトの表情が変わった。
「……そうか」
封筒を受け取る。
「ありがとう」
若い忍が立ち去ると、ナオトは周囲を確認した。
そして、封筒を開いた。
中には一枚の紙が入っていた。
『次の運搬は不要』
ナオトは息を吐いた。
「……終わったのか」
しかし、文章はそこで終わっていなかった。
『余計なことは話すな』
ナオトの顔から血の気が引いた。
さらに、紙の下には短い一文があった。
『お前の弟が暮らす町を忘れるな』
「……!」
ナオトは紙を握りしめた。
「……やめてくれ」
震える声が漏れた。
「弟には……関係ないだろ……」
倉庫には、誰もいなかった。
ナオトは椅子へ座り込んだ。
「……どうすればいいんだ」
黒影衆本部・古文書庫。
影宗とセツナは、第三巻が保管されていた棚を調べていた。
「……管理記録は?」
影宗が尋ねる。
「確認しました」
セツナは帳簿を開いた。
「第三巻の正式な持ち出し記録はありません」
「……」
「ただし、整理命令が出された日に、古い木箱が補給倉庫へ移動しています」
影宗が眉を寄せる。
「古文書庫からか?」
「移動元は空欄です」
「……なるほど」
セツナは続けた。
「その木箱を運んだ者を調べています」
影宗は棚を見つめた。
「……第三巻には何が書かれていた?」
セツナが尋ねる。
「影宗様は、ご存じないのですか?」
影宗は首を振った。
「昔、存在だけは聞いたことがある」
「……」
「だが、内容までは知らん」
セツナは少し考えた。
「第三巻ということは、第一巻と第二巻もあるはずですね」
「ああ」
「そちらを確認しましょう」
影宗は頷いた。
二人は隣の棚へ移動した。
第一巻。
第二巻。
どちらも古い木箱に収められていた。
セツナは第一巻を取り出す。
慎重に広げた。
そこには、風遁に関する古い記述が並んでいた。
「……」
影宗が覗き込む。
「何と書いてある?」
セツナはゆっくり読み上げた。
「『風を操る者、風に従う者にあらず』」
影宗は黙った。
セツナは続ける。
「『風を知る者、その道を守るべし』」
「……」
影宗が小さく呟いた。
「宗玄が守っていた教えに似ているな」
セツナが顔を上げる。
「神谷宗玄ですか?」
「ああ」
「……なるほど」
セツナは第二巻を開いた。
しかし、そこには破損した部分が多く、文章の一部しか残っていなかった。
「……読めない箇所が多いですね」
影宗は頷いた。
「古い記録だからな」
セツナは慎重にページをめくった。
そして、ある部分で手を止めた。
「……?」
影宗が尋ねる。
「どうした?」
セツナは一行を指差した。
『風影刀と風守刀、二つの刃は――』
その先は、破れていた。
影宗の表情が変わった。
「……二つの刃」
セツナが頷いた。
「蒼真が持つ風影刀と、宗玄が守っていた風守刀ですね」
「ああ」
セツナは第二巻を閉じた。
「第三巻には、この続きが記されていた可能性があります」
影宗はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「……だから狙われたのかもしれん」
セツナは頷いた。
「可能性はあります」
しかし、まだ断定できない。
第三巻が本当に第二補給所へ運ばれたのか。
持ち出した忍は誰なのか。
そして、何のために必要としているのか。
答えは、まだ見つかっていなかった。
夕方。
黒影衆・第二修行場。
蒼真は、風影刀を鞘に収めたまま座っていた。
そこへ鬼塚ジンが現れた。
「……蒼真」
蒼真が顔を上げる。
「ジン様」
ジンは隣へ立った。
「少し時間はあるか」
「はい」
「風影刀の調査について、方針が決まった」
蒼真の表情が変わる。
「……本当ですか?」
「ああ」
ジンは説明を始めた。
「まず、刀の材質と外観を確認する」
「はい」
「次に、風遁との反応を調べる。ただし、怪我が治ってからだ」
「……分かりました」
「調査には、風間コウガと影宗様も立ち会う」
蒼真は少し安心した表情を見せた。
「……そうなんですね」
ジンは続ける。
「そして、危険性が確認されない限り、刀を取り上げることはしない」
蒼真が顔を上げた。
「……本当ですか?」
「ああ」
ジンは頷いた。
「ただし、任務で使用する場合は上忍の承認が必要になる」
蒼真は少し考えた。
「……分かりました」
ジンは蒼真を見た。
「納得できるか?」
蒼真は頷いた。
「はい」
「……そうか」
蒼真は続けた。
「俺も、この刀のことをもっと知りたいです」
ジンは静かに頷いた。
「それなら、協力してもらう」
「はい!」
ジンは少し表情を和らげた。
「……蒼真」
「はい」
「お前は、この刀で何をしたい?」
蒼真は少し考えた。
そして、答えた。
「……仲間を守りたいです」
ジンは黙って聞いていた。
蒼真が続ける。
「でも、それだけじゃ足りないんですよね」
ジンの目が細くなる。
「……どういう意味だ?」
「仲間を守るためにも、刀のことを知らないといけない」
「……」
「知らないまま使って、誰かを傷つけたくないです」
ジンはしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「……少しは考えるようになったな」
蒼真が笑った。
「ありがとうございます」
「褒めたつもりはない」
「えっ?」
ジンは背を向けた。
しかし、その口元には僅かな笑みが浮かんでいた。
「調査の日程は、後日伝える」
「はい!」
夜。
黒影衆本部・情報室。
セツナのもとへ、情報部門の忍が駆け込んできた。
「セツナ様!」
「どうしたの?」
「三枝ナオトの様子に変化がありました」
セツナが顔を上げる。
「……何があった?」
「今日の午後、差出人不明の封筒を受け取っています」
「中身は?」
「確認できていません」
「その後は?」
「倉庫の仕事を早めに切り上げ、自宅へ戻りました」
セツナは少し考えた。
「……そう」
部下が続ける。
「普段より警戒している様子でした」
セツナは椅子から立ち上がった。
「三枝ナオトの家族について、調べて」
「……家族ですか?」
「ええ」
セツナは静かに続けた。
「彼が何を守ろうとしているのか、知る必要がある」
部下は頷いた。
「承知しました」
セツナは窓の外を見た。
夜の里には、静かな灯りが並んでいる。
「……三枝さん」
小さく呟く。
「一人で抱え込まないでくれればいいけれど」
同じ頃。
黒影衆の里・三枝ナオトの自宅。
ナオトは机の前に座っていた。
手には、昼間届いた手紙。
『お前の弟が暮らす町を忘れるな』
何度読んでも、その文字は変わらない。
「……」
ナオトは顔を覆った。
「……どうして、こんなことに」
最初は、小さな頼み事だった。
補給路の確認。
物資の移動。
誰にも迷惑をかけないと言われていた。
しかし、気づけば監視記録が消え、古い巻物が持ち出されていた。
そして今。
弟の名前まで持ち出されている。
「……」
ナオトはゆっくり立ち上がった。
棚の奥から、小さな木箱を取り出す。
中には、一枚の古い写真が入っていた。
まだ幼い頃の自分と弟。
二人で笑っている写真だった。
ナオトはそれを見つめた。
「……俺が、何とかしないと」
しかし、その言葉には自信がなかった。
窓の外では、夜風が木々を揺らしている。
黒影衆の里。
仲間を守るために存在するはずの組織。
その内部で、誰かが誰かを脅し、秘密を動かしていた。
そして、三枝ナオトはその渦中から抜け出せずにいた。
第138話 完




