第135話「黒札の行方」
黒影衆本部・東棟。
早朝の廊下には、まだ人の姿が少なかった。
如月セツナは、一人の部下を連れて小会議室の前に立っていた。
数日前、北側監視塔の中忍・北条ユウキが、偽の命令によって呼び出された部屋。
そして昨夜、何者かが再び侵入した場所だった。
「……ここね」
セツナが扉に手をかける。
鍵は閉まっていた。
隣にいた情報部門の忍が尋ねる。
「管理担当者を呼びますか?」
「その必要はないわ」
セツナは懐から正式な鍵を取り出した。
「頭領から調査許可を得ている」
扉を開く。
室内には長机と数脚の椅子が置かれていた。
窓は閉まり、書類も残されていない。
一見すると、何の変哲もない会議室だった。
「昨日の夜間巡回では異常なしと報告されています」
部下が言った。
セツナは室内を見渡す。
「異常がなかったことと、誰も入っていないことは別よ」
「……はい」
「まずは扉を調べて」
部下が膝をつく。
セツナは机の周囲を歩き始めた。
床板。
壁。
窓枠。
どこにも目立った痕跡はない。
しかし、机の下へ視線を向けた時だった。
「……?」
一枚の床板。
その縁に、僅かな傷がついていた。
セツナはしゃがみ込む。
指先で傷をなぞった。
「……新しい」
「セツナ様?」
「灯りを持ってきて」
部下が小さな灯火を差し出した。
セツナは床板を照らす。
木目に沿って、細い黒色の粉が付着していた。
「……これは」
懐から白い布を取り出し、粉を拭い取る。
布の上に、黒い粒が残った。
「墨……?」
部下が覗き込む。
セツナは首を振った。
「普通の墨とは少し違うわね」
そして、床板の端に細い忍具を差し込んだ。
慎重に持ち上げる。
床下には、小さな空間があった。
「……隠し場所ですか」
「ええ」
しかし、中は空だった。
セツナは床板の裏側を確認する。
そこには、細い線で描かれた術式の一部が残っていた。
「……封印術?」
部下が尋ねる。
「いえ、違う」
セツナは目を細めた。
「何かを隠すための簡易的な術式ね」
「では、ここに何かが?」
「恐らく」
セツナは立ち上がった。
「誰かが隠し、別の誰かが持ち去った可能性がある」
「……」
「ただし、同一人物が使っていた可能性もあるわ。まだ決めつけないこと」
部下が頷いた。
「承知しました」
セツナは白い布を折り畳んだ。
「この粉を調べましょう」
黒影衆・医務室。
「……もう一度、指を開いて」
白石ユズハの指示に従い、レイは左手をゆっくり開いた。
肩から腕にかけて、鈍い痛みが走る。
「……っ」
「痛む?」
「……少し」
「無理しなくていいわ」
ユズハは腕の状態を確認した。
「昨日より指の動きは良くなっているけど、肩はまだ安静が必要ね」
レイは頷いた。
「……分かりました」
「本当に?」
「……はい」
ユズハが少し笑う。
「あなた、昨日こっそり右手で短刀を握ろうとしていたでしょう」
レイの表情が止まった。
「……」
「見ていた子がいるの」
「……握っただけです」
「それも禁止」
「……承知しました」
ユズハは包帯を巻き直した。
その時、扉が開いた。
「おはようございます!」
蒼真だった。
後ろから凛と蓮司も入ってくる。
「レイ、調子どうだ?」
蓮司が尋ねる。
「……順調だ」
「そりゃよかった!」
ユズハが三人を見た。
「あなたたち、今日は診察の日だったわね」
蒼真が頷く。
「はい」
「じゃあ、まず蓮司から」
蓮司が顔をしかめる。
「……俺からですか?」
「何か問題?」
「ありません!」
凛が笑った。
「本当にユズハさんには弱いわね」
「うるせぇ!」
ユズハは蓮司の腹部を診察した。
「痛みはどう?」
「普通に歩く分には、ほとんど」
「走ったら?」
「……まだ痛いです」
「じゃあ走らないこと」
「はい……」
続いて蒼真。
脇腹の傷を確認したユズハは、少し表情を和らげた。
「傷は塞がり始めているわね」
「本当ですか?」
「ええ。でも、風遁を使った激しい修行はまだ駄目」
「……はい」
「返事だけはいいのよね、あなたたち」
蓮司が小声で呟く。
「……信用されてねぇ」
凛が笑った。
「今までの行動を考えたら当然でしょ」
蒼真も苦笑する。
そんな三人を、レイは静かに眺めていた。
昼前。
黒影衆本部・情報室。
セツナは、床板から採取した黒い粉を調べていた。
机の上には、複数の資料が並んでいる。
「……」
粉を水に溶かす。
しかし、普通の墨のようには広がらない。
細かい粒が沈み、僅かに紫色を帯びた。
セツナは眉を寄せた。
「……幻術を定着させるための顔料?」
その時、扉が開いた。
「セツナ様」
部下が入ってくる。
「過去の記録を確認しました」
「何か分かった?」
「はい。この顔料に似たものが、以前の調査報告に記載されています」
セツナが顔を上げる。
「いつの報告?」
「三年前です」
部下は一枚の巻物を差し出した。
セツナが開く。
そこには、黒い札の簡単な図が描かれていた。
「……!」
札の表面には、細い文字。
縁には独特の紋様。
北条ユウキが証言した札と、特徴が似ていた。
「どこで発見されたもの?」
セツナが尋ねる。
「西国方面の任務です」
「使用者は?」
「不明です。ただし、報告書には……」
部下が一部分を指差す。
『命令偽装に使用された可能性あり』
セツナは静かに読み進めた。
さらに下には、別の記述があった。
『札を提示された者は、短時間、命令の出所を疑わなくなる傾向を示した』
「……なるほど」
セツナが呟く。
部下が尋ねる。
「幻術でしょうか?」
「可能性は高いわ」
セツナは巻物を閉じた。
「ただ、強制的に操るほどのものではないでしょうね」
「……?」
「本来なら不審に思う命令でも、一時的に自然なものだと受け取らせる」
セツナは続ける。
「そういう術なら、北条ユウキの証言とも一致する」
部下が頷いた。
「では、夜叉衆の術ですか?」
「まだ分からない」
セツナは首を振った。
「三年前の記録にも、使用者は不明とある」
「……」
「札が同じでも、作った者と使った者が同じとは限らないわ」
セツナは地図へ目を向けた。
「問題は、どうやって黒影衆の本部に持ち込まれたかね」
黒影衆本部・管理棟。
「東棟の鍵の管理記録?」
管理担当の忍が、セツナを見た。
「ええ。直近十日分を確認したいの」
「承知しました」
管理担当者は棚から巻物を取り出した。
「こちらです」
セツナは記録を開く。
鍵の貸し出し日時。
使用目的。
返却時刻。
そして、使用者の名前。
「……」
一つずつ確認していく。
すると、ある記録で指が止まった。
『東棟小会議室・備品確認』
使用者――三枝ナオト。
「……この人は?」
セツナが尋ねる。
管理担当者が答える。
「本部の補給管理を担当している中忍です」
「普段から東棟へ?」
「はい。備品の点検などで出入りしています」
「最近、何か変わった様子は?」
「……特には」
セツナは記録を見つめた。
「この日の貸し出しは、何時?」
「午前中です」
「返却は?」
「昼過ぎですね」
セツナは頷いた。
北条ユウキが呼び出されたのは夜。
時間が一致しない。
だが、部屋の構造や鍵の扱いを知る機会はあった。
「三枝ナオトは、今どこに?」
「補給倉庫にいると思います」
「分かったわ」
セツナは巻物を閉じた。
「ありがとう」
黒影衆・補給倉庫。
広い建物には、忍具や食料、薬草などが保管されていた。
その奥で、一人の男が荷物の確認を行っていた。
三枝ナオト。
黒影衆の補給管理を担当する中忍。
年齢は三十歳前後。
目立った戦闘実績はないが、几帳面な仕事ぶりで知られていた。
「……三枝ナオトさん?」
セツナが声をかける。
男が振り返った。
「はい……あっ、セツナ様!」
慌てて姿勢を正す。
「何か御用でしょうか?」
「少し確認したいことがあるの」
「……はい」
セツナは倉庫の棚を見渡した。
「最近、東棟の小会議室へ入ったわね」
ナオトは頷いた。
「はい。備品の点検で」
「何を確認したの?」
「机と椅子、それから灯具です」
「異常は?」
「ありませんでした」
セツナは静かに尋ねる。
「床板は調べた?」
ナオトの表情が僅かに変わった。
「……床板、ですか?」
「ええ」
「いえ、そこまでは……」
セツナは男を見つめた。
「そう」
ナオトは少し困惑した様子だった。
「何か問題でもありましたか?」
「まだ調査中なの」
「……そうですか」
セツナは続ける。
「東棟の鍵について、詳しい?」
「仕事で使うことがありますので、ある程度は」
「管理担当者を通さずに開ける方法は?」
ナオトは眉を寄せた。
「……ありませんよ」
「本当に?」
「はい。少なくとも、私は知りません」
セツナは頷いた。
「分かった。ありがとう」
ナオトが頭を下げる。
「いえ……」
セツナは倉庫を出ようとした。
しかし、扉の前で足を止めた。
「……そうだ」
ナオトが顔を上げる。
「はい?」
「最近、黒い札を見なかった?」
その瞬間。
ナオトの手が止まった。
ほんの僅かな変化だった。
しかし、セツナは見逃さなかった。
「……黒い札?」
ナオトが聞き返す。
「ええ」
「……いえ、見ていません」
「そう」
セツナは表情を変えなかった。
「ありがとう」
そして、倉庫を後にした。
ナオトはしばらく扉を見つめていた。
「……」
手に持っていた帳簿を、ゆっくり閉じる。
「……何で、今になって」
小さな呟きが、誰もいない倉庫に消えた。
午後。
黒影衆・中庭。
蒼真は木陰に座り、風影刀を見つめていた。
そこへ風間コウガがやってきた。
「……また刀を眺めているのか」
蒼真が顔を上げる。
「コウガさん」
コウガは隣に腰を下ろした。
「怪我はどうだ?」
「だいぶ良くなりました」
「そうか」
コウガは風影刀へ目を向ける。
「……ジンと話したそうだな」
蒼真が頷く。
「はい」
「何を言われた?」
「風影刀を持つにふさわしいことを、里の人たちに示す必要があるって」
コウガは静かに頷いた。
「……あいつらしいな」
蒼真が尋ねる。
「コウガさんは、どう思いますか?」
「何についてだ?」
「俺が風影刀を持っていることです」
コウガは少し考えた。
そして、答えた。
「俺は、お前が持ち続けるべきだと思う」
蒼真の表情が和らぐ。
「……ありがとうございます」
「だが」
コウガは続けた。
「ジンの心配も理解できる」
蒼真は黙った。
「風影刀が夜叉衆に狙われている以上、お前だけの問題ではない」
「……はい」
「だからこそ、必要なのは対立ではなく、理解だ」
蒼真は顔を上げた。
「……理解?」
「ああ」
コウガは笑った。
「ジンがお前を知り、お前もジンの考えを知る」
「……」
「その上で、どうするか決めればいい」
蒼真は頷いた。
「……分かりました」
コウガは立ち上がる。
「それと、怪我が治ったら俺のところへ来い」
「え?」
「風遁の修行だ」
蒼真の目が輝いた。
「本当ですか!」
「ああ」
コウガは笑う。
「地下で学んだことを、俺にも見せてくれ」
蒼真は大きく頷いた。
「はい!」
夕方。
黒影衆本部・情報室。
セツナは三枝ナオトの記録を調べていた。
任務履歴。
所属。
補給管理の担当区域。
そして、最近の行動。
「……」
ナオトはここ数年、問題を起こしていない。
むしろ、仕事ぶりは高く評価されていた。
しかし。
「……北側の補給路も担当している」
セツナは地図を広げた。
北側監視塔。
旧街道。
補給倉庫。
東棟小会議室。
それぞれの位置を確認する。
「……全てに出入りできる立場」
その時、部下が入ってきた。
「セツナ様」
「どうしたの?」
「三枝ナオトについて、追加の記録が見つかりました」
「……何?」
部下は書類を差し出した。
「監視記録が改ざんされた日の前日、ナオトは北側の補給路を確認しています」
セツナが顔を上げる。
「理由は?」
「物資の運搬経路を調べるため、と記載されています」
「同行者は?」
「……いません」
セツナは黙った。
部下が続ける。
「さらに、旧街道付近の倉庫にも立ち寄っていました」
「……」
「その倉庫から、黒い札に使われる顔料と似た物質が見つかっています」
セツナの目が細くなった。
「……なるほど」
「三枝ナオトが関与しているのでしょうか?」
セツナは首を振った。
「まだ断定できないわ」
「……」
「補給担当なら、北側へ行く理由はある」
セツナは書類を閉じた。
「それに、顔料を持ち込んだのが本人とは限らない」
部下が頷いた。
「では、どうされますか?」
セツナは少し考えた。
そして、静かに言った。
「監視をつけて」
「……三枝ナオトに?」
「ええ。ただし、気づかれないように」
「承知しました」
セツナは続ける。
「それと、他の補給担当者の行動も調べて」
「……他の者も?」
「一人だけを疑えば、本当の相手を見失うかもしれない」
部下は深く頭を下げた。
「分かりました」
夜。
黒影衆・補給倉庫。
三枝ナオトは一人、帳簿を整理していた。
「……」
机の上には、物資の一覧が並んでいる。
薬草。
食料。
忍具。
そして、北側補給路の運搬予定。
ナオトは一枚の書類を取り出した。
『北側の道、次の交代は三日後』
その文字を見つめる。
「……」
やがて、深く息を吐いた。
「……もう、やめるべきなのか」
誰に向けた言葉なのか。
その場には、答える者はいなかった。
ナオトは書類を折り畳んだ。
そして、懐へしまおうとする。
その時。
倉庫の外から声がした。
「三枝さん」
ナオトの動きが止まった。
「……!」
扉の向こうに、一人の忍が立っていた。
顔は暗く、よく見えない。
「……誰だ」
ナオトが尋ねる。
相手は答えなかった。
ただ、静かに言った。
「次の荷物は、予定通りに」
ナオトの表情が強張る。
「……もう、これ以上は」
「予定通りに」
同じ言葉が繰り返された。
ナオトは拳を握りしめた。
「……分かった」
扉の向こうの忍は、それ以上何も言わなかった。
足音が遠ざかっていく。
ナオトは一人、倉庫に残された。
懐に入れた書類を握りしめる。
「……」
その表情には、恐怖とも後悔ともつかないものが浮かんでいた。
一方。
少し離れた建物の屋根。
黒影衆の情報部門に所属する忍が、倉庫を監視していた。
「……」
屋根の陰から、倉庫の出入り口を見る。
しかし、訪ねてきた忍の顔までは確認できなかった。
監視役は小さな巻物を取り出す。
そして、短く記録した。
『夜間、正体不明の忍が三枝ナオトと接触』
巻物を閉じる。
「……セツナ様に報告しなければ」
黒影衆の里では、また一つ、隠されていた動きが明らかになろうとしていた。
しかし、その全容はまだ見えない。
黒い札。
偽装された命令。
消された監視記録。
そして、何者かの指示に従う補給担当の忍。
その背後に何があるのか。
まだ、誰も知らなかった。
第135話 完




