第132話「里に潜む違和感」
黒影衆の里。
蒼真たちが帰還してから、二日が経過していた。
朝の修行場では、若い忍たちが組手を行っている。
刀を交える者。
手裏剣を投げる者。
印を結び、忍術を練習する者。
いつもと変わらない光景だった。
しかし、その一角。
木陰に置かれた長椅子では、蓮司が退屈そうに空を見上げていた。
「……暇だ」
隣に座っていた蒼真が笑う。
「まだ言ってるのかよ」
「だってよ! 帰ってきてから何もできねぇんだぞ!」
「怪我してるんだから仕方ないだろ」
「軽く刀振るくらいなら……」
「ユズハさんに怒られるぞ」
蓮司の動きが止まった。
「……それは困る」
蒼真は笑った。
「素直だな」
「お前もだろ!」
二人の前を、修行中の若い忍たちが走っていく。
蓮司はその姿を羨ましそうに眺めた。
「……いいよなぁ」
「何が?」
「修行できて」
蒼真は腰の風影刀へ視線を落とした。
「……俺も早く身体を動かしたいけどな」
「だったら一緒に――」
「駄目よ」
背後から声がした。
二人が振り返る。
凛だった。
手には小さな包みを持っている。
「……凛」
蓮司が苦笑する。
「聞いてたのか?」
「全部」
「……」
凛は二人の前に立った。
「ユズハさんから、ちゃんと休ませるように言われてるんだから」
蒼真が尋ねる。
「その包みは?」
「薬よ」
凛は包みを開いた。
中には、小さな薬瓶が二本入っている。
「蒼真と蓮司の分」
蓮司が顔をしかめる。
「……またかよ」
「またよ」
「苦いんだよなぁ、これ」
凛は笑顔で薬瓶を差し出した。
「飲む?」
「……飲みます」
蒼真が笑いを堪える。
「蓮司、顔がすごいぞ」
「お前も飲むんだぞ!」
「分かってるって」
二人は薬を受け取った。
蓮司は一気に飲み干す。
そして、しばらく黙った。
「……」
凛が首を傾げる。
「どう?」
「……最悪だ」
蒼真は思わず笑った。
黒影衆・医務室。
神崎レイは寝台に腰掛けていた。
左腕は固定されたまま。
肩には新しい包帯が巻かれている。
その前では、白石ユズハが診察を行っていた。
「……指を動かしてみて」
レイは左手をゆっくり開いた。
そして、握る。
「痛みは?」
「……あります」
「どの辺り?」
「肩から腕にかけて」
ユズハは頷いた。
「昨日より少し動くようになったわね」
「……任務への復帰は?」
ユズハの手が止まった。
「レイ」
「……はい」
「まだ二日よ」
「……」
「気持ちは分かるけど、焦らないこと」
レイは左腕を見つめた。
「……刀を握る感覚が鈍い」
ユズハは表情を和らげた。
「今は傷の回復を優先しましょう」
「……はい」
「それに、仲間たちも休んでいるんでしょう?」
レイは少し考えた。
「……蓮司は、恐らく我慢できていない」
ユズハが笑った。
「でしょうね」
その時。
医務室の扉が開いた。
「失礼します」
入ってきたのは、一人の若い医療忍だった。
「ユズハ様、薬草の補充が届きました」
「ありがとう。倉庫へ運んでおいて」
「はい」
医療忍が出ていく。
レイは扉の方を見つめた。
「……」
ユズハが気づく。
「どうしたの?」
「……いえ」
レイは少し間を置いた。
「今の忍、見たことがない」
「ああ、新しく配属された子よ」
「……そうですか」
ユズハは頷いた。
「最近、任務から戻った者が多くてね。医療部門も人手が足りないの」
レイはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、扉が閉まった後も、少しだけ視線を向けていた。
同じ頃。
黒影衆本部・情報室。
薄暗い部屋には、多くの巻物と報告書が並んでいた。
その中央で、一人の女性が机に向かっていた。
如月セツナ。
黒影衆の情報部門を統括する上忍。
幻術と情報収集を得意とする、冷静な忍だった。
「……」
セツナは一枚の報告書を読み返していた。
その向かいには、情報部門の忍が立っている。
「もう一度、説明して」
セツナが言った。
「はい」
部下は姿勢を正した。
「三日前、北東方面で夜叉衆と思われる忍の移動が確認されました」
「人数は?」
「確認できたのは三名です」
「所属は?」
「不明です。ただ、黒い装束と夜叉衆特有の印を確認しています」
セツナは報告書へ目を落とした。
「……移動方向は?」
「北東の山道から、西側の旧街道へ」
「旧街道?」
「はい」
セツナの眉が僅かに動いた。
「その道は、今はほとんど使われていないはずね」
「その通りです」
「何かを運んでいた?」
「確認できませんでした」
セツナはしばらく黙っていた。
そして、別の報告書を取り出す。
「……こちらの記録と一致するわね」
部下が顔を上げる。
「何の記録でしょうか」
「蒼真たちが地下施設から帰還した日」
セツナは机の上に地図を広げた。
「夜叉衆の動きが、ほぼ同じ時期に変わっている」
部下が地図を見る。
「……確かに」
「それだけなら偶然かもしれない」
セツナは指先で地図の一点を示した。
「でも、気になるのはここ」
「……黒影衆の北側?」
「ええ」
セツナは静かに続けた。
「夜叉衆は、こちらの監視が薄い道を選んでいる」
部下の表情が変わる。
「……内部の情報が漏れている可能性が?」
「まだ断定できない」
セツナは報告書を閉じた。
「ただし、調べる必要はあるわ」
「承知しました」
部下が頭を下げる。
セツナは続けた。
「この件は、まだ他の部署には伝えないで」
「……よろしいのですか?」
「確証がない段階で広めれば、無用な混乱を招く」
「分かりました」
部下が退出する。
セツナは一人、地図を見つめた。
「……誰が、何を知っているのか」
小さく呟く。
「まずは、そこからね」
昼過ぎ。
黒影衆の食堂。
蒼真、蓮司、凛の三人は、久しぶりに里の食事を楽しんでいた。
「うまっ!」
蓮司が勢いよく箸を動かす。
「やっぱ里の飯は最高だな!」
凛が呆れる。
「もう少し落ち着いて食べなさいよ」
「腹減ってんだから仕方ねぇだろ!」
蒼真も笑った。
「地下じゃまともに食えなかったしな」
「そうそう!」
蓮司が頷く。
「もう干し肉はしばらく見たくねぇ!」
凛が笑う。
「そんなに嫌だった?」
「嫌っていうか、飽きた!」
三人が笑っていると、隣の席から声が聞こえてきた。
「……聞いたか?」
蒼真が何気なく顔を向ける。
二人の若い忍が話していた。
「何を?」
「風影刀のことだよ」
蒼真の箸が止まった。
「……」
「上忍たちの間で、管理するべきだって話が出てるらしい」
「本当か?」
「ああ。鬼塚様が提案してるって」
もう一人の忍が声を落とす。
「でも、影宗様は反対してるんだろ?」
「らしいな」
「……揉めそうだな」
蒼真は黙っていた。
蓮司がその様子に気づく。
「……蒼真」
「……ああ」
凛も二人の会話を聞いていた。
「気にしないで」
蒼真は小さく笑った。
「……分かってる」
だが、胸の奥に引っかかるものがあった。
自分がいない場所で、自分の刀について話が進んでいる。
それが、少しだけ怖かった。
午後。
黒影衆・第一修行場。
蒼真は一人、木刀を手にしていた。
ユズハから激しい修行は禁止されている。
そのため、今は軽く構えを確認するだけだった。
「……」
木刀を正面へ構える。
足を開く。
呼吸を整える。
そして、ゆっくり振り下ろした。
一度。
二度。
三度。
「……」
地下での戦いを思い出す。
獅堂の鉤爪。
玄岳の黒雷。
宗玄の風守刀。
そして、風影刀を巡る議論。
「……俺は」
蒼真が呟く。
「もっと強くならないと」
その時。
「強くなるだけでは足りんぞ」
背後から声がした。
蒼真が振り返る。
そこには、一人の男が立っていた。
黒影衆の上忍。
風間コウガ。
風遁を得意とする、経験豊富な忍だった。
「……コウガさん!」
蒼真が頭を下げる。
コウガは軽く手を上げた。
「戻ったそうだな」
「はい」
「怪我は?」
「まだ少し……」
コウガは蒼真の木刀を見た。
「なら、無理はするな」
「……はい」
コウガは修行場へ足を踏み入れた。
「しかし、風遁の扱いが変わったようだな」
蒼真が顔を上げる。
「……分かるんですか?」
「ああ」
コウガは笑った。
「お前の立ち方を見ればな」
「立ち方?」
「以前のお前は、風を強く放つことばかり考えていた」
蒼真は黙った。
「だが、今は違う」
コウガは蒼真の足元を見た。
「風を感じようとしている」
蒼真は目を見開いた。
「……はい」
「何かあったのか?」
蒼真は少し考えた。
そして、地下で宗玄から教わったことを話した。
コウガは黙って聞いていた。
やがて。
「……神谷宗玄、か」
その名前を口にした時、コウガの表情が僅かに変わった。
蒼真が気づく。
「……知ってるんですか?」
コウガはすぐには答えなかった。
「名前だけはな」
「……」
「昔、影宗様から聞いたことがある」
蒼真は身を乗り出した。
「何をですか?」
コウガは首を振った。
「詳しいことは、俺から話すべきではない」
「……そうですか」
「ただ、一つ言える」
コウガは蒼真を見た。
「その男から学んだことは、大切にしろ」
蒼真は頷いた。
「……はい」
コウガは笑った。
「それと、今日はもう終わりだ」
「え?」
「怪我人が修行場に長居するな」
「……はい」
蒼真は苦笑した。
夕方。
黒影衆本部・情報室。
セツナのもとへ、新たな報告が届いていた。
「……失礼します」
部下が部屋へ入る。
「何か分かった?」
「はい」
部下は一枚の書類を差し出した。
「北側の監視記録を確認しました」
セツナが受け取る。
「それで?」
「夜叉衆が通過したと思われる時間帯ですが……」
部下は言葉を止めた。
セツナが顔を上げる。
「どうしたの?」
「その時間帯だけ、監視担当の交代が行われていました」
セツナの目が細くなる。
「……交代?」
「はい」
「誰の指示?」
「それが……」
部下は困惑した表情を浮かべた。
「記録には、正式な命令として残っています」
「命令者は?」
「……確認できません」
セツナは黙った。
「署名がないの?」
「いえ、署名はあります」
「なら、なぜ?」
部下は書類の一部分を指差した。
「この署名ですが……」
セツナが目を落とす。
そこには、黒影衆本部の正式な印が押されていた。
しかし。
署名の文字だけが、不自然に滲んでいた。
「……」
セツナは指先で文字をなぞった。
「幻術による偽装……?」
部下が頷く。
「可能性があります」
セツナは書類を机へ置いた。
「……なるほど」
「どうされますか?」
セツナはしばらく考えた。
そして、静かに答える。
「監視担当者を全員調べて」
「はい」
「それと、この命令書がどこで作られたのかも」
「承知しました」
部下が退出する。
セツナは一人、書類を見つめた。
「……内部に、誰かいる」
その声は、誰にも聞こえなかった。
夜。
黒影衆の里。
蒼真は自室の窓を開け、夜空を見上げていた。
月が雲の間から顔を出している。
「……」
風影刀を手に取る。
鞘に刻まれた模様を指でなぞった。
地下で見た古い紋様。
風守刀。
そして、消された風継ぎの名。
「……何なんだろうな、お前」
蒼真が小さく呟く。
刀は何も答えない。
ただ、窓から入る風が頬を撫でた。
その時。
廊下から足音が聞こえた。
「蒼真!」
蓮司の声だった。
蒼真が振り返る。
「何だ?」
扉が開く。
蓮司が顔を出した。
「明日、凛とレイのところ行かねぇ?」
「何で?」
「せっかく帰ってきたんだし、みんなで飯でも食おうぜ!」
蒼真は笑った。
「いいな」
「だろ?」
「でも、レイは医務室だぞ」
「なら、飯持ってけばいい!」
蒼真は少し考えた。
そして頷く。
「……そうだな」
蓮司が笑う。
「決まり!」
扉を閉めようとする。
しかし、蒼真が声をかけた。
「蓮司」
「ん?」
「……ありがとな」
蓮司が首を傾げる。
「何が?」
蒼真は笑った。
「いや、何でもない」
蓮司は少し不思議そうな顔をした。
そして、笑う。
「変な奴!」
扉が閉まった。
蒼真は再び窓の外を見た。
里には、穏やかな夜が広がっている。
だが、その静けさの裏側で。
黒影衆の情報が、誰かの手によって動かされていた。
そして、その事実に気づき始めた者がいた。
如月セツナ。
黒影衆の内部に潜む違和感は、まだ小さなものだった。
しかし。
その小さな違和感が、やがて里全体を揺るがすことになる。
第132話 完




