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神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


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最後まで謝れなかった人 2


障子が静かに開く。


「尊様、相談者様をお連れいたしました」


部屋の中から、穏やかな声が返る。


「どうぞ」


松平は一礼した。


「失礼いたします」


相談室には、いつもの穏やかな空気が流れていた。丸い木の机、湯気の立つ二つの湯呑み。暖炉では小さな炎が静かに揺れ、窓の向こうには四季庭が広がっている。春の桜、夏の若葉、秋の紅葉、冬の雪。すべてが一つの庭で穏やかに息づいていた。机の向こうには、一人の青年が柔らかな笑顔で座っている。


「いらっしゃい。異世界相談所へようこそ」


その笑顔を見た瞬間、洋輔の肩から少しだけ力が抜けた。


「ありがとうございます」


自然と頭を下げる。


「私は仲川洋輔と申します」


尊も小さく頭を下げた。


「僕は尊。ここで皆さんのお話を聞いているよ。どうぞ座って」


洋輔は静かに椅子へ腰掛けた。目の前には湯気の立つ煎茶がある。一口飲むと、懐かしい香りがふわりと広がった。


「……懐かしいですね」


思わず笑みがこぼれる。


「職員室で、よくこういうお茶を飲んでました」


尊も同じ煎茶を口へ運ぶ。


「先生って、お茶が似合うよね」


洋輔は照れくさそうに笑った。


「そうですか?ありがとうございます」


相談室には穏やかな静けさが流れる。尊は何も急がせない。人生には、自分の歩幅でしか語れない記憶があることを知っているからだ。洋輔は湯呑みを両手で包み、小さく息を吐いた。


「私は三十五年間、小学校で国語を教えていました。本を読むこととか、言葉で気持ちを伝えることとか、そういうのを子どもたちに伝えるのが好きで」


尊は静かに頷く。


「好きだったんだね」

「はい。教師という仕事が大好きでした」


洋輔は少し笑う。


「朝、校門に立つとですね。子どもたちが『先生、おはよう!』『おはようございます!』って、元気に来るんです。それだけで一日が始まるんですよ。その感じが、すごく好きでした」


相談室には穏やかな空気が流れている。


「もちろん、叱ることもありました。宿題を忘れた子、友だちとけんかした子、授業中にうとうとしてる子、いろんな子がいました。でも、みんな大事な子どもたちでした」


暖炉の火が小さく揺れる。


「そんな中で一人だけ、どうしても忘れられない子がいます」


その一言で、相談室の空気が少しだけ変わった。洋輔は湯呑みを見つめたまま、ゆっくりと言葉を続ける。


「名前は翔太。小学六年生でした」


ここで、洋輔の記憶は少し前へ戻る。…教室の窓から、春の光が差し込んでいた。六年生の教室は、いつも少しだけ落ち着いていて、それでも子どもらしいざわめきが残っていた。その中に、翔太がいた。


「勉強はちょっと苦手で、漢字も、計算も。みんなより少し時間がかかる子でした」


洋輔は懐かしそうに微笑む。


「でも、すごく優しい子だったんです。誰かが転ぶと、すぐに『大丈夫?』って駆け寄る。泣いてる子がいたら、何も言わずに隣に座る。そういう子でした」


尊は静かに耳を傾ける。洋輔の声は、教室の空気を思い出すように少し柔らかくなった。


「掃除の時間も、いつも最後まで残ってて『もう帰っていいよ』って言っても『だって、まだ終わってないし』って、平気な顔で言うんです」


洋輔も小さく笑う。


「ある時なんて『先生、ぼくがやるよ』って、雑巾を二枚持ってきて、自分の分までやろうとするんですよ。本当に、まっすぐで、いい子でした」


ここで一度、洋輔は言葉を切った。教室での翔太の姿が、今の相談室の静けさの中に重なっていく。けれど、その温かな記憶は、次の瞬間には少しだけ曇る。洋輔の表情が、わずかに沈んだ。


「でも私は、あの子にきつく当たってしまっていたんです」


尊は何も言わない。洋輔は湯呑みを見つめたまま続ける。ここからは少しずつ時系列を追うように、洋輔の後悔が語られていく。


「宿題を忘れると『また忘れたのか』って言ってしまう。漢字を間違えると『ちゃんと見直したのか』って、強く言ってしまう。テストの点が悪いと『もっと頑張れ。お前ならできるだろ』って、何度も何度も言ってしまったんです」


洋輔は目を伏せる。


「本当は、あの子ならもっとできるって…そう思ってたんです。期待してたんです。だからつい、厳しくなってしまった」


相談室には静かな沈黙が流れる。その沈黙の中で、洋輔の記憶はさらに進む。洋輔は湯呑みを見つめる。


「翔太は叱られるたびに『はい』って、返事をするんです。それでちょっと困った顔して、でも最後には笑うんですよ。『先生、また怒ってる』なんて、ふざけて言うこともあって。でも言い返したりはしませんでした。先生のこと、嫌いだなんて。…一度も言わなかった」


洋輔は少しだけ笑う。


「卒業式の日、式が終わったあと…翔太は教室の前へ出てきて、深く頭を下げて『先生。今まで、ありがとうございました』って。私は『中学校でも頑張れよ』それしか言えませんでした。もっと、ちゃんとした言葉があったはずなのに『よく頑張ったな』とか、『お前はえらいぞ』とか、『また会おうな』とか。そういう言葉を、ひとつも言えなかった」


暖炉の火だけが静かに揺れている。卒業式の日の教室が、相談室の静けさの中に重なっていく。洋輔は小さく息を吐いた。


「卒業して一年くらい経った頃でした。学校に一本の電話がかかってきました。最初は、ただの連絡だと思って取りました。けれど、受話器の向こうの声は妙に遠く、嫌な予感だけが胸の奥でじわじわ広がっていったんです」


洋輔はそこで言葉を切った。相談室が、しんと静まり返る。尊も松平も、何も言わない。その沈黙が、かえって洋輔の耳には大きく響いていた。


「……翔太が」


喉が詰まる。一度、深く息を吸う。それでも、うまく続けられない。


「事故に遭ったって……亡くなったって」


その二つの言葉を口にした瞬間、洋輔の顔から血の気が引いた。まるで、今ようやく現実になったかのようだった。尊は何も言わず、ただ洋輔を見つめている。松平もまた、静かに立ったまま、その話を受け止めていた。洋輔は目を閉じる。閉じた瞼の裏に、翔太の笑顔が浮かぶ。もう二度と、その笑顔は返ってこない。その事実が、遅れて胸を裂いた。


「私は…」


声が震える。


「私は、最後まで…」


一度、言葉が途切れる。相談室には、息を呑むような静けさが満ちていた。洋輔は唇を噛みしめる。肩が小さく震える。息が浅く、苦しい。言葉が喉の奥で引っかかる。それでも、もう逃げられない。


「……あの子に、何も言えなかった」


短く、途切れ途切れに、まるでその一言を口にするだけで崩れてしまいそうだった。洋輔は顔を伏せる。


「ありがとうも、ごめんも、ちゃんと伝えたかったのに…間に合わなかった。間に合わなかったんです」


最後の一言は、ほとんど息だった。声にならない声だった。洋輔の肩が大きく揺れる。湯呑みを持つ手が震え、茶がわずかに波立つ。


「……先生なのに、一番大事な言葉を言えなかった」


その言葉が落ちた瞬間、相談室の空気がさらに重くなる。尊はただ静かに、洋輔を見つめていた。松平もまた、微動だにしない。けれど、その沈黙は冷たいものではない。崩れそうな心を、そっと受け止めるための静けさだった。洋輔は顔を上げられない。涙が、ぽたりと湯呑みの縁へ落ちる。一滴、また一滴。


「……翔太」


名前を呼ぶ、呼んでしまう。もう返事はないと分かっているのに。


「翔太……」


声が、完全に崩れた。


「ごめん、ごめんなさい。先生、ちゃんと言えなかった。ごめん、ごめん……」


その謝罪は、誰に届くでもなく、ただ相談室の静けさへ溶けていった。


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