届かなかった手紙 3
相談室には、静かな雨音のような沈黙が流れていた。早川は湯呑みを両手で包んだまま、しばらく何も言えずにいた。ほうじ茶の湯気が、かすかな揺らぎを残して消えていく。やがて、喉の奥から絞り出すように声が落ちる。
「…あの日も、朝から雨でした」
その一言で、部屋の空気がわずかに沈んだ。窓の外では四季庭に雪が舞い、桜が風に揺れている。けれど早川の瞳には、もうその景色は映っていなかった。ただ、灰色に濁った空と、絶え間なく降り続く雨だけが、遠い記憶の底から滲み出してくる。
「天気予報では、夕方から大雨になるって言っていました。局でも『今日は気を付けろよ』って、何人にも声を掛けられたんです」
そこで、早川はかすかに笑った。
「私は『いつもの雨ですよ』なんて、軽く返していました」
けれど、その笑みはすぐに消える。
「甘かったんです。昼を過ぎた頃には、もう道が道じゃなかった。水は溝からあふれて、低い場所は全部、川みたいになっていました。靴の中までぐっしょりで、自転車なんて…とても乗れない。押して歩くしかなかったんです」
尊は何も言わず、ただ静かに耳を傾けている。早川は湯呑みを見つめたまま、続けた。
「局へ戻ろうかとも思いました。でも配達を待っている人がいる。そう思ったら、足が止まらなかった」
少しだけ、懐かしむように目を細める。
「職業病ですね。今日届くものは、今日届けたい…それだけだったんです」
その言葉のあと、早川の指先に、わずかな力がこもる。湯呑みの縁が、かすかに鳴った。
「無線から『避難指示が出ました。配達は中止してください』そう連絡が入ったんです。私は返事をしました。『了解しました』……でも、あと数軒だけ…そう思ってしまった」
その声には、もう言い訳の色はなかった。ただ、あの日の自分を責め続けてきた年月の重さだけがあった。
「最後の担当区域は、山のふもとの集落でした。昔から配っていた町です。家の並びも、住んでいる人の顔も、犬の名前まで覚えていました。だからこそ行かなきゃいけないって、思ってしまったんです」
早川はゆっくりと息を吐く。
「坂を上っている途中で、近所のおじいさんが『早川さん!もう帰れ!』って、叫んでくれたんです」
その時の光景を思い出したのか、早川の眉がわずかに寄る。
「でも私は『あと少しです!』って、返してしまった。止まればよかった、引き返せばよかった。今なら、何度でもそう言えます」
けれど、その時は違った。
「最後から二軒目、一人暮らしのおばあさんの家でした。『まあまあ。こんな日に来てくれたの、ありがとうね』そう言って、濡れた手で封筒を受け取ってくれたんです」
早川の声が、少しだけ柔らかくなる。
「その一言を聞いたら…やっぱり、来てよかったって思ってしまった。誰かが待っていてくれる。そのことが、あんな雨の中でも、私を前へ進ませたんです」
だが、その温もりはすぐに冷えていく。
「残るは、あと一軒。たった一通…茶色い封筒でした。差出人も、宛名も、はっきり覚えています。でも中身だけは、知りません。配達員ですから、知ることはない。……そういう仕事でした。」
早川はそこで言葉を切った。視線が、ゆっくりと膝の上へ落ちる。
「坂道を歩いている時でした。地面が…揺れたんです」
短く息を呑む。
「最初は雷かと思いました。でも違った。山が音を立てて崩れ始めたんです」
相談室の空気が、ぴたりと止まる。
「土砂が流れてきました。木も、岩も、泥も、水も、全部一緒になって…ものすごい音でした。逃げようと思った。でも目の前で、小さな女の子が転んだんです」
その声が、震えた。
「まだ小学校に入ったばかりくらいの子でした。泣いていました。立ち上がれなくて、土砂の音に体がすくんでいたんです」
早川は目を閉じる。
「あの時、考えたわけじゃありません。体が勝手に動いていました。郵便袋を放り投げて、女の子を抱き上げて、近くの高台まで走ったんです」
その瞬間の息遣いまで、今もまだ身体に残っているようだった。
「背中に雨が叩きつけられ、足元はぬかるんで、何度も滑りそうになった。でも、離せなかった。この子だけは、絶対に…そう思っていました」
長い沈黙が落ちる。
「女の子は助かりました。高台に着いた時、泣きながら『ありがとう』って言ってくれたんです」
早川の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「その顔を見た瞬間…よかった、本当によかったって、そう思いました」
だが、その笑みはすぐに崩れた。
「……でも郵便袋は、濁流に流されていました。肩から外れた瞬間を、覚えています。茶色い袋が、泥水に飲まれていくのが見えた。手を伸ばした…でも、届かなかった。封筒も、仕分けした荷物も、最後の一通も……全部、一緒に流れていったんです」
相談室には、風鈴の音だけが響く。ちりん…早川は、唇を噛んだ。
「私は配達員なのに、届けられませんでした。最後の…たった一通だけ、届けられなかった」
その言葉は、誰かに向けた弁明ではなかった。何十年も郵便を届け続けてきた男が、自分自身にだけ向けて、ずっと胸の奥に閉じ込めてきた後悔だった。
「袋を失った瞬間、頭が真っ白になりました。雨の音も、土砂の音も、何も聞こえなくなって。ただ一通だけが、置き去りになった気がしたんです。誰かが待っていたかもしれない。誰かの人生を変える手紙だったかもしれない。誰かが、あの一通を読んで泣いたかもしれない。そう思うたびに…胸が、ずっと痛かった」
早川は顔を上げないまま、かすれた声で続ける。
「助けた女の子は、今でも覚えています。でも助けられなかった一通の方が、ずっと忘れられないんです。人を救ったはずなのに…最後の一通を失った自分ばかりが、残ってしまった」
その言葉が落ちたあと、相談室は再び深い静寂に包まれた。尊は何も言わない。ただ静かに、早川の言葉を受け止めている。湯呑みから立ちのぼるほうじ茶の香りだけが、二人の間をゆっくりと流れていた。早川は小さく息を吐く。
「……あの一通だけが、今でも心に残っているんです」
その声は、もうほとんど囁きだった。そして、その沈黙の先で、尊が初めて静かに口を開こうとしていた…その瞬間、相談室の静寂は何かを予感するように、ぴんと張りつめた。




