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鎮魂歌《レクイエム》を知らない神たちへ  作者: ありんこ。


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第2話





——暖かい。


まぶたの裏に、淡い光が滲んでいた。


深い水底からゆっくり浮かび上がるように、意識が少しずつ輪郭を取り戻していく。


最初に感じたのは、ぬくもりだった。


柔らかな寝具に包まれている感覚。


肌を撫でる空気は冷たすぎず、窓の隙間から差し込む朝の光は、目を焼くようなものではなく、ただ静かに、眠っている者を起こさぬよう忍び寄ってくるようだった。


次に聞こえたのは、鳥たちの声。


さえずり、というには少し澄みすぎていた。


まるで、まだ夜の名残を抱いた空へ捧げられる、小さな鎮魂歌のようだった。


細く、高く、時折重なり合いながら、窓の外からこぼれ落ちてくる。


……鎮魂歌。


誰のためのものだろう。


死に損なった私のためか。


それとも、これから死にゆく者たちのためか。


ぼんやりとそんなことを思いながら、私はゆっくりと瞼を開いた。


視界に映ったのは、見知らぬ天井だった。


白く塗られた木の梁。


壁際に置かれた小さな棚。


薄い布を掛けられた窓。


天界の冷たい白でも、神界の装飾過多な金でもない。


ひどく簡素で、けれどどこか人の生活の匂いがする、小さな一室だった。


私はベッドに寝かされているらしい。


身体を動かそうとすると、まだ重い。


けれど昨日——いや、どれほど前かは分からないが、教会で床に叩きつけられた直後のような、全身を引き裂く痛みはなかった。


鈍い怠さだけが、骨の奥に残っている。


頭はぼうっとしている。


意識の端に薄く霞がかかっているようだった。


私は鳥たちの鎮魂歌に耳を傾けながら、窓の外を見ようと首を傾けた。


その時だった。


私の顔のすぐ横で、何かが揺れていた。


窓から入り込む風に、そよそよと流される髪。


色の抜けた茶色。


焦げ茶に近いが、陽の光を受けると少し柔らかく透けて見える。


その髪の持ち主は、ベッドの脇に置かれた椅子に腰かけたまま、上半身だけをこちらへ倒し、私の寝ているベッドへ突っ伏して眠っていた。


……ロムアだ。


私を見張っていたのだろうか。


それとも、ただ看病していたつもりなのか。


どちらにせよ、あまりにも無防備だった。


私はぼうっと、眠っている青年の顔を眺めた。


前髪は重力に負けて額から流れ、頬にかかっている。


閉じられた瞼の縁には、思いのほか長い睫毛が影を落としていた。


年相応の幼さを残した顔立ち。


それなのに、教会で見たあの眼差しだけは、どうにも忘れられなかった。


この瞼の奥に閉じ込められた瞳は、今もまだ、美しく色彩を放っているのだろうか。


夜空を砕き、虹の欠片を沈めたような、あの異質な瞳。


星海。


選定の瞳。


本来ならば、地上の人間などが持つはずのないもの。


「……」


私の気配に気づいたのか。


ロムアの睫毛が微かに震えた。


それから、ゆっくりと瞼が持ち上がる。


寝起きのせいか、彼はしばらく焦点の合わない目でこちらを見ていた。


頭だけをベッドへ突っ伏したまま、瞳だけを上げる。


上目遣いになったその瞬間、朝の光が彼の虹彩に触れた。


途端に、瞳の奥で色が揺れた。


蒼。


紫。


金。


硝子片のような緑。


その全てが混じり合っているのに、決して濁らない。


宇宙の奥で星雲が瞬くように、静かに、けれど確かに光っていた。


「……あれ」


ロムアが瞬きをする。


「いつの間にか寝ちゃってたな」


そう言って、彼はむくりと上半身を起こした。


寝癖のついた髪を片手で軽く整えながら、椅子に座り直す。


それから、へにゃりと力の抜けた笑みを浮かべた。


礼拝堂で見た勇者の顔とは違う。


少し気の抜けた、あまりにも人間らしい笑顔だった。


彼は何の躊躇もなく手を伸ばし、私の頬に触れた。


「君、凄いね」


その指先は暖かかった。


私は抵抗しなかった。


いや、抵抗するだけの気力がなかったという方が正しい。


ただじっと、彼の瞳を見ていた。


吸い込まれそうだった。


美しい。


その美しさが、ひどく不気味だった。


「……何が」


ようやく出た声は、自分でも驚くほど掠れていた。


冷たく言い放ったつもりだった。


けれどロムアは嫌な顔ひとつせず、むしろ安堵したように微笑んだ。


「声、出るんだね。よかった」


「……」


「エドウィンがね、君に“治癒魔法なんか必要ない”って言って聞かなかったんだよ」


「……」


「でも、エドウィンの言う通りだった。君はたった一日眠っただけで、完全回復してる」


凄いね、と彼は笑った。


無邪気な響きだった。


まるで本当に、奇跡でも見たように。


けれど、それは奇跡などではない。


眠っている間に、魔力が補填されただけだ。


地上に生きる者たちとは違う。


天界の存在に与えられる魔力量は、地上の人間や魔族の比ではない。


だから堕天使は魔族の頂点に立つ。


人間たちのいう、最終討伐標的になる。


堕天使を討つには、長い経験を積んだ者でさえ、相打ちになる覚悟が必要だ。


それほどの存在が、今こうして、勇者に見守られながらベッドの上で目覚めている。


なんとも滑稽な話だった。


「とにかく、あの酷い怪我が治ってよかったよ。見ているこっちまで辛くなるほどだったから」


「……その瞳」


心配するロムアの言葉を遮るように、気づけば私はそう口にしていた。


ロムアがきょとんとする。


「え?」


「その瞳。どうして」


私の声は低かった。


問いただすような響きになっていたかもしれない。


ロムアは一瞬だけ目を瞬かせ、それから困ったように笑った。


「ああ、この瞳のこと。どうしてって……僕も聞きたいよ。生まれた時から、既にこの瞳だったから」


彼は何でもないことのように言う。


けれど、何でもないはずがなかった。


この選定の瞳は、本来ならば最高神が持つ瞳。


私が知る中でも、全知全能の神王ゼウーザのみが持つ瞳だった。


神々の頂点に立つ男。


世界のすべてを盤上遊戯のように眺め、地上の命を駒として扱う、あの男。


そのゼウーザと同じ瞳が、どうして地上の人間に宿っている。


これも奴の一興なのか。


神に選ばれた勇者などと人間たちに崇めさせ、本人には何も知らされず、ただ運命だけを背負わせて笑っているのか。


「今度は僕の番ね」


「……何が」


「質問」


ロムアは椅子の背にもたれながら、少し得意げに言った。


「お互い聞きたいことを交互に聞いた方が公平でしょ」


何を言っている。


この状況で公平も何もあるものか。


「……君、名前は?」


本当は名前なんてどうでもいいくせに。


何者か知りたいはずだ。


どうして教会に落ちてきたのか。


なぜ死ななかったのか。


なぜ一晩で傷が治ったのか。


聞きたいことなど、いくらでもあるはずなのに。


白々しい問いに、思わず小さく笑ってしまった。


ロムアが首を傾げる。


「……? どうして笑うの?」


「いや」


喉の奥に残った笑いを飲み込む。


「私の名は、アナキア」


「アナキア」


彼はすぐにその名を繰り返した。


声に出して確かめるように。


その響きを大事そうに口の中で転がすように。


「僕はロムア。これからよろしく」


嬉しそうに笑みをこぼしながら、ロムアは手を差し出した。


私はそれを見た。


白い手。


剣を握る者にしては、まだ荒れきっていない手。


けれど昨日、私を抱き起こした時の力は確かだった。


私はその手を取らなかった。


「お前は……人間か?」


ロムアの右手が、宙を掴んだまま止まる。


ほんの少しだけ、彼の瞳に寂しさがよぎった。


けれど彼はすぐに手を引っ込め、何事もなかったように頷いた。


「僕は人間だよ。何の変哲もない、ただの人間」


「その瞳で何が見える?」


「おっとおっと」


ロムアが慌てて両手を振った。


「次は僕の番だよ」


焦れったい。


何だ、この茶番は。


お前が勝手に決めたルールに、なぜ私が従わなければならない。


私は身を起こした。


少し遅れて、背中に鈍い痛みが走る。


だが構わなかった。


ロムアの右腕を掴み、強く引く。


彼の身体がこちらへ傾いた。


距離が一気に縮まる。


互いの吐息がかかるほど近い。


彼の瞳が、私の目の前で大きく見開かれた。


その虹彩の奥で、星屑が揺れる。


美しい。


腹立たしいほどに。


「もう一度言う」


私は低く告げた。


「その瞳で、何が見える」


ロムアは一連の動作に少し驚いたようだった。


けれどすぐに、逃げるでも怯えるでもなく、まっすぐ私を見返してきた。


どうやら、肝は座っているらしい。


選定の瞳は、今もなお、神秘的な色彩を放っている。


「君が欲しい答えはないよ」


そう言って、ロムアは空いている左手で私の肩を優しく押した。


優しい手つきだった。


だが、やはり力は強い。


呆気なく私は彼との距離を戻される。


「僕はね、この瞳で何かを見たことも、感じ取ったこともない」


ロムアの声は穏やかだった。


けれど、その奥にほんの少しだけ、諦めに似たものが混じっていた。


「逆に、この瞳を持つせいで魔族から狙われる。今のところは、厄介な瞳なだけだよ」


「“今のところは”?」


「……君も、知っていて聞いてきたんじゃないの?」


ロムアは苦笑した。


「この瞳を持つ者は世界に一人。歴代、みんな勇者だ。“選定の瞳”でしょ? 『この世の理すべてを見通し、神の意志が宿る』って、耳にたこができるくらい聞かされたよ」


そう言って、彼は自分の目元に軽く触れた。


「けどね、僕に神の意志は見えない。歴代のこの瞳を持つ勇者たちは未来が見えたって言われてるけど、僕には何も」


ただの宝の持ち腐れだよ、と彼は困ったように笑う。


その笑みを見て、胸の奥に奇妙な感情が落ちた。


哀れだと思った。


きっと、その瞳のせいで散々な人生だったのだろう。


期待されて。


持ち上げられて。


崇められて。


けれど、自分自身には何の力もない。


周囲が求めるものを何ひとつ返せないまま、それでも勇者と呼ばれ続ける。


それを見越して、ゼウーザは人間にこの瞳を持たせたのだろうか。


今もどこかで嗤っているのだろうか。


「散々だったんだな」


ぽつりと、言葉がこぼれた。


ロムアは少しだけ目を丸くした後、曖昧に笑った。


「……まあね。でも勇者と期待されたおかげで、何の変哲もないただの一般人がこうやってみんなに持ち上げられて、何不自由なく過ごせているんだから、ある意味感謝しなくちゃね」


「何の力もないのか?」


「ないよ」


あまりにもあっさりと、彼は答えた。


「僕以外のメンバーはみんな、その道に長けた人物ばかりだ。あの歳で大物ばかりだよ。けど、僕はこの瞳だけ」


彼は少しだけ肩をすくめる。


「その瞳ですら、今のところはみんなと同じ、見たものをそのまま映すだけの瞳だよ」


「……そうか」


なんと哀れなのだろう。


けれど、だからと言って私が救ってやれるわけではない。


私もまた、出来損ないと謳われ、この地に堕とされた堕天使なのだから。


「……じゃあ、君は?」


「え?」


「君は人間?」


その問いに、私はすぐに答えられなかった。


人間ではない。


魔物でもない。


天使でも、もうない。


神でも、ない。


では、私は何だ。


何と答えるのが正しいのだろう。


仮に正直に堕天使だと答えれば、お前は私をこの場で殺すのだろうか。


この選定の瞳を持つ勇者は。


私をじっと見つめるその瞳に吸い込まれそうになりながら、私は言葉を探した。


沈黙は、ほんの数秒だったかもしれない。


けれど私には、ひどく長く感じられた。


「……まあ、君が何者でも」


ロムアが先に口を開いた。


「え?」


「あのタイミングで空から降ってきたんだ。出立する僕たちのパーティに、神からのプレゼントだよね」


「……何が言いたい」


「君も僕たちと共に、魔族討伐の旅に出るんだよ」


「!」


その言葉と同時に、ロムアは私の手を掴んだ。


次の瞬間、強引にベッドから引っ張り出される。


「ほら、もう体調は回復したんだから。君を紹介しなくちゃ」


「か、勝手に決めるな!」


足元がふらつく。


まだ完全に身体が戻っていないというのに、ロムアはお構いなしに私の腕を引いた。


「僕が決めたんじゃないよ。神が決めたんだから、抗う余地はないよ」


「神など……!」


「ほら、早く」


強い力だった。


優しい顔をしているくせに、こちらの抵抗などまるで通じない。


私はほとんど引きずられるように部屋を出た。


そこはどうやら宿屋らしかった。


廊下には同じような扉がいくつも並び、床板は朝の湿った光を受けて淡く艶めいている。


壁には古びた燭台。


階下からは人の話し声と、食器の触れ合う音、焼いたパンの香ばしい匂いが漂ってきた。


人間の生活の匂い。


天界にはないもの。


私はそれに一瞬だけ気を取られた。


廊下の突き当たりに出ると、左右に分かれた階段が扇状に広がっていた。


どちらから降りても、一階の受付へ辿り着く造りらしい。


ロムアは迷わず階段を下りていく。


受付にいた老婆が、彼の姿を見るなり深々と頭を下げた。


ロムアは軽く手を上げるだけで、そのまま宿屋の外へ出る。


「お、おい! どこへ連れて行く!」


「どこって、みんなのところだよ」


外へ出た途端、朝の街のざわめきが一気に押し寄せてきた。


そこは繁華街だった。


石畳の通りには、朝早くから多くの人が行き交っている。


野菜や果物を並べる商人。


荷車を押す男。


籠を抱えた女。


走り回る子ども。


焼き菓子の甘い香りと、馬の匂いと、人の熱気が混じり合う。


あまりにも賑やかで、あまりにも生々しい。


これが地上。


これが、奴らが遊戯盤と呼ぶ世界。


その中を、ロムアは私の手を引いたまま歩いていく。


行き交う人々は、彼を見るたびに顔を輝かせた。


勇者様、と誰かが囁く。


ロムア様、と誰かが手を合わせる。


人々の視線には希望があった。


期待があった。


何も知らない者たちの、無垢な祈りがあった。


胸の奥が、わずかに軋む。


やがて辿り着いたのは、街の中央にある広い噴水広場だった。


澄んだ水が朝日を受けてきらきらと跳ねている。


その周囲に、見覚えのある顔ぶれが並んでいた。


「みんな、お待たせ!」


ロムアの声に、三人がこちらを向く。


その表情は分かりやすかった。


呆れた顔。


怪訝そうな顔。


そして、やけにやつれた顔。


少なくとも、歓迎されていないことだけはすぐに分かった。


「ロムア……やっぱり嫌だよ、僕は」


最初に口を開いたのはエドウィンだった。


彼は私をちらりと見て、露骨に眉を寄せる。


「そんな未確認生物を一緒に連れていくなんて」


「未確認生物なんかじゃない。彼女はアナキア」


ロムアはすぐに言い返した。


「ほら、みんなも自己紹介してよ」


「……無茶を言うな。私は認められない」


メルザクが冷たく言い放つ。


「メルザク! そんなこと言わないで、ほら」


「……」


ロムアは促すが、メルザクは私を睨むようにじっと見るだけだった。


眼鏡の奥の瞳は冷え切っている。


だが、その冷たさの奥にあるのはただの嫌悪ではない。


警戒。


疑念。


そして、おそらく正しすぎる勘。


「俺は賛成だけどな」


一方で、ガタイのいい青年——シャガールはあっさりと言った。


「何が駄目なんだ? あのタイミングで天から降ってくるなんて、そういうことだろ?」


そう言う彼の顔は、どこか青ざめていた。


目元に疲労が濃い。


「……酒臭いよ、シャガール。昨晩何時まで飲んでたの」


エドウィンが鼻をつまみながら、じりじりと距離を取る。


やつれた表情の原因は酒か。


勇者一行のメンバーだというのに、締まりのない奴だ。


「仕方ねえだろ。この街の人たちが俺たちを応援してくれてんだ。昨日の宴でお前らがそそくさと逃げていきやがったから、仕方なくだな……」


「はいはい、分かったから。その醜悪な酒臭を放つお口を閉じましょうね」


「エドウィン、てめえな……」


「シャガール、エドウィン。やめろ。話が進まない!」


メルザクが頭を抱える。


ロムアはその様子を見て、少し困ったように笑った。


「……はは。ごめんね、騒々しいメンバーで」


「私は、お前たちと共に行くつもりなど一切ない」


終わりが見えなかったので、私はばっさりと言い放った。


ロムアの手は、まだ私の腕を掴んだままだった。


その手にほんの少し力がこもる。


彼だけが、酷く悲しそうな顔をした。


「そんなこと……」


「本人がそう言うんだ。無理に付き合わせる必要はない」


ロムアの言葉に、メルザクが被せるように言った。


その声には、はっきりとした拒絶があった。


「そうだよ、ロムア」


エドウィンも頷く。


「それに僕は言ったでしょ? 彼女の内に秘めた魔力は人間のものじゃないって。だから一晩寝ただけで、あれだけの傷が完全回復したんだよ。彼女は人間じゃない」


「でも魔族でもねえだろ?」


シャガールが口を挟む。


「教会に落っこちてきたんだから。魔族は教会の敷居を跨ぐことすらできねえんだぞ?」


「シャガールは黙っててよ。くさい」


「エドウィン、てめえ……」


「二人とも黙れ!」


メルザクの声が噴水広場に響く。


周囲の通行人が何事かとこちらを見た。


メルザクは深く息を吐き、改めてロムアへ向き直る。


「……とにかく、人間でも魔族でもない得体の知れない存在を、これから魔族討伐に向かう私たちのパーティに入れるわけにはいかない」


彼の声は低く、重かった。


「この旅は旅行じゃないんだ。命を賭けてる。死ぬかもしれない。いや、死ぬ可能性の方がずっと高い。そんな旅に、不確定要素を抱え込む余裕はない。幸先が悪くなる」


正論だった。


何一つ間違っていない。


だからこそ、私は黙っていた。


ロムアもきっと、この正論には逆らえない。


そう思った。


「じゃあ、僕は勇者をやめる」


唐突な声だった。


一瞬、空気が止まった。


エドウィンは口を開けたまま固まり、シャガールは瞬きを忘れたようにロムアを見た。


メルザクはさらに深く頭を抱える。


「ロムア……いい加減に……」


「僕はね」


ロムアが私の右手を掴む手に力を込めた。


そして、にっと笑う。


さっきまでの柔らかい笑みではない。


どこか悪戯めいた、けれど底の見えない笑みだった。


「僕はね、君の望んだ世界を創り出すことができる」


何を言っている。


突然、何をそんな自信ありげに言い出す。


私の望む世界?


それを、ただの人間であるお前が?


笑わせるな。


「アナキア」


ロムアは私の名を呼んだ。


「君にはこの世界が、哀れで残酷なものに見えているでしょう」


「……何が言いたい?」


その問いに、ロムアはまた笑った。


純粋で潔白そうな顔には似合わない笑みだった。


けれど、その瞳だけは笑っていなかった。


星海の瞳が、まっすぐに私を見ている。


「僕は、その元凶を正すことができる」


その言葉を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。


呼吸が詰まる。


まるで胸の奥に隠していたものを、無造作に掴まれたようだった。


「……その瞳は」


何も見えていないはずだ。


そう言おうとした。


けれどロムアは、唇の前に人差し指を立てた。


「しー」


言葉が止まる。


彼はただ、美しい瞳で私を見つめていた。


本当に、吸い込まれそうなほど美しい。


ゼウーザの瞳と同じ。


けれど、違う。


あの男の瞳は、世界すら己の所有物だと信じて疑わない、傲慢な星の海だった。


ロムアの瞳には、まだ迷いがある。


痛みがある。


そして、愚かしいほどの優しさがある。


「……分かった」


気づけば、口から言葉がこぼれていた。


「お前たちに、ついて行く」


「な……!」


メルザクが声を詰まらせる。


エドウィンも露骨に嫌そうな顔をした。


シャガールだけが、面白そうに口笛を吹こうとして、エドウィンに睨まれてやめた。


ロムアは優しく微笑んだ。


まるで最初から、私がそう答えることを知っていたみたいに。


「じゃあ、そういうことだから」


ロムアは仲間たちへ向き直る。


「エドウィン、メルザク。異論は聞かないよ。僕が決めたことだから、道中何かあれば僕の命をかける」


「ロムア……君が死ねばこの世界を救えないでしょ」


エドウィンがため息混じりに言う。


メルザクは何も言わない。


ただ、私を見ている。


疑いと警戒を隠そうともせずに。


「じゃあ、僕が死なないようにエドウィンが僕を守ればいい」


ロムアは軽く笑った。


「……その必要もないだろうけど」


エドウィンはさらに深いため息をついた。


それから、観念したように私へ視線を向ける。


「……僕はエドウィン」


不服そうな声だった。


「一応、このパーティでは一番魔力が強い。魔法使いだ」


栗色の少し癖のある髪。


やや小柄で、中性的な顔立ち。


その瞳は深い森のような緑色をしていた。


人懐こそうに見えるのに、口調には棘がある。


油断ならないが、悪人ではなさそうだった。


「俺はシャガール」


次に、ガタイのいい青年が胸を張る。


「力仕事は任せてくれ。このパーティでは戦士として前衛に立つ」


漆黒の髪。


鍛えられた筋肉質の身体。


濃い顔立ちは整っていて、瞳もまた黒い。


だがその黒は、メルザクのような冷たさではなく、深い土の底に沈む鉱石のような、重く強い意志を秘めている。


ただし、酒臭い。


「……メルザク。僧侶。以上」


最後に、眼鏡の男が短く言った。


黒髪。


整った顔立ち。


眼鏡の奥の瞳もまた漆黒。


だがシャガールとは違い、その黒は水面に張った薄氷のように冷たい。


疑い深く、理屈を重んじ、簡単には情に流されない男。


この中で一番厄介なのは、きっと彼だ。


「じゃあ、みんなの自己紹介も終わったし」


ロムアが明るく言った。


「この街ともお別れをしよう。僕たちの冒険の始まりだ!」


その言葉を合図に、彼らは歩き出した。


それぞれの思いを抱えたまま。


期待。


不安。


疑念。


諦め。


そして、私だけが胸の奥に違うものを抱えていた。


街の人々が道の両側に集まり、勇者一行へ希望の眼差しを向けている。


どうか世界を救ってください。


魔族を倒してください。


神の御加護がありますように。


そんな祈りが、視線だけで伝わってくる。


私はその中を歩きながら、どうしてこんなことになってしまったのかと頭を抱えたくなった。


これから、人間と共に魔族討伐の冒険に出る。


堕天使である私が。


笑い事では済まない。


本来ならば、堕天使は世界の均衡を守るという名目で、増えすぎた人間を殺めるために地上へ堕とされる。


魔族の頂点に立ち、人間たちの敵となり、勇者に討たれる存在。


それが私だ。


それなのに私は今、勇者の手に引かれている。


人々の祝福を浴びながら。


神の名を冠した旅の中へ、足を踏み入れようとしている。


けれど。


これで良かったのかもしれない。


奴らを心底嫌う私は、奴らの思い通りになどならない。


命を弄ぶ神々の言いなりになど、なってやるものか。


人間を殺せと堕とされたのなら、人間と共に歩いてやる。


魔族の頂点に立てというなら、魔族を討つ旅に紛れ込んでやる。


そしていつか。


ロムアが口にした“元凶”が何を指すのか。


その瞳が本当に何を見ているのか。


見極めてやる。


私はロムアの手に引かれるまま、ゆっくりと歩みを進めた。


鳥たちの鎮魂歌は、もう聞こえない。


代わりに響いているのは、人々の歓声。


希望に満ちた声。


そのすべてが、ひどく眩しくて。


ひどく愚かで。


そして少しだけ、胸に痛かった。


こうして私は、勇者一行と共に旅立つことになった。


神々が望んだ筋書きとは違う道を選ぶために。


そして、この世界の残酷な戯れを終わらせるために。





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