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鎮魂歌《レクイエム》を知らない神たちへ  作者: ありんこ。


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第1話




私は知っている。


この世界の頂に立ち、すべてを見下ろしているあの者たちが、決して慈悲深い創造主などではないことを。


世界の均衡を保つだの、生命の循環を守るだの——そんなものは、もっともらしく飾り立てた建前にすぎない。


本当は違う。


奴らにとってこの世は、ただ退屈を慰めるための遊戯盤だ。


人が死ぬ。


魔物が滅ぶ。


精霊が捕らえられ、泣き、血を流す。


そのひとつひとつを、決して手の届かない高みから眺め、あざ笑い、時に賭けの種にさえする。


命は、盤上を這う駒にすぎない。


苦しみも、祈りも、愛も、絶望も。


すべて、奴らにとっては酒宴の余興のようなものだ。


私は、それを知っている。


誰よりもよく知っている。


だから、赦せなかった。


地上に生きる者たちは何も知らない。


雨に濡れた土の匂いも知らず、誰かを抱きしめた腕のぬくもりも知らず、ただ高みに座しているだけの者たちに、自分たちの生死を委ねていることを知らない。


知らないまま、祈る。


知らないまま、畏れる。


知らないまま、感謝さえしている。


それが、どれほど愚かで、どれほど残酷なことかも知らずに。


「勇気ある冒険者たちに、神の祈りを!」


澄みきった声が、天井高くまで響き渡った。


白亜の列柱が並ぶ美しい教会だった。


朝の光は高窓から細く射し込み、壁一面を飾る巨大なステンドグラスを透かして、床の上に赤や青や金の色彩を静かに落としている。聖人たちの姿を描いたその硝子絵は、まるで本当にこの場所を神の御許へと繋いでいるかのように神々しく、礼拝堂全体を淡い祈りで満たしていた。


祭壇の前には四人の若者たち。


これから旅立つ勇者一行だ。


彼らは一様に跪き、頭を垂れ、これから始まる長い戦いの無事を祈っている。


世界を蝕む魔族を討つために選ばれた者たち。


人々に期待され、希望を背負わされ、まだ幼さの残る肩でそれを受け止めようとしている、若き戦士たち。


……哀れだ、と私は思った。


自分たちが何のために剣を取り、誰の都合で命を賭けるのか、その真実を何ひとつ知らないまま、こんなにも真剣に祈っているなんて。


「今、加護の光を与えんとす」


大神官が祭壇の中央で神杖を掲げた。


年老いたその手に握られた長大な杖は、彼の身長ほどもあり、白銀の杖身には細やかな聖印が幾重にも刻まれている。先端に嵌め込まれた透明な宝玉が朝光を受けて揺れ、その次の瞬間、まばゆい輝きを放った。


強い光だった。


まるで天から降る滝のように、それは勇者たちの肩へ、髪へ、祈る手へと降り注ぐ。


金色にも白色にも見えるその光は、あまりに眩く、あまりに清らかで、この場にいる誰もが一瞬、自分たちは本当に神に祝福されているのだと信じてしまいそうになるほどだった。


けれど。


その神聖を、容赦なく引き裂く音がした。


高い天井の一点で、硝子がひび割れる、乾いた音。


ぱきり、と。


次の瞬間にはそれが轟音へと変わっていた。


巨大なステンドグラスが砕け散る。


七色の破片が朝の光を巻き込みながら、まるで流星群みたいに礼拝堂へ降り注いだ。


悲鳴が上がる。


誰かが息を呑む。


祈りに満ちていたはずの空間が、一瞬にして破壊の音に呑まれた。


そして、その中心に——私が堕ちた。


最悪だ。


なんともまあ、趣味の悪いことをしてくれる。


よりによって、勇者たちの旅立ちの儀式の真っ最中に落とすなんて。


これもきっと、奴らの嫌がらせだ。


最後の最後まで、笑いものにしなければ気が済まないらしい。


床へ叩きつけられた衝撃で、肺の中の空気が一気に押し出される。


呼吸が止まる。


視界が明滅する。


全身の骨が軋み、砕けた音が身体の内側で遅れて響いた。


「……っ、ぁ……」


呻き声にならない息が漏れる。


少しでも動けば、全身のあちこちに突き刺さった硝子片が肉を裂いた。


腕に、脚に、脇腹に、肩に。


そして何より——背中が、痛い。


熱いのではない。


焼けているのでもない。


背の肉そのものが剥き出しになっているような、むきつけの痛みだった。


天界から堕とされる時、翼を奪われることは知っていた。


だが、まさかあんなふうに奪われるとは知らなかった。


羽を抜く、などという生易しいものではなかった。


引きちぎられたのだ。


骨ごと。


根元から。


白銀の羽が何枚も何枚も宙を舞い、そこに鮮血が散って、神々の白い床を赤く染めていった。


ぶち、ぶち、と。


生木を裂くような音がした。


肩甲骨のあたりに食い込んでいた翼の根が、肉も筋も神経もまとめて引き剥がされる感覚は、今もまだ背中に焼き付いている。


叫んだ。


泣いた。


許しを乞うたわけではない。ただ、あまりの痛みに声が漏れた。


けれど神々は、誰一人として顔色ひとつ変えなかった。


それどころか、愉快そうに見下ろしていた。


『出来損ないには、過ぎたものだ』


誰かがそう言って笑った。


その笑い声が、今も耳の奥にこびりついている。


背中からどくどくと血が流れているのが分かった。


そこへ墜落の衝撃。さらに砕けた硝子片。


身体中がもうぼろぼろだった。


せめてこの加護の光が完全に消える前に、ここから離れなければならない。


この場に留まるのは、あまりにもまずい。


そう分かっているのに、身体が起き上がらない。


打ちどころが悪かったのか、腰から下に鈍い痺れが広がっている。治癒魔法を使おうにも、落下の衝撃を抑えるために使った魔力で、余力はほとんど残っていなかった。


やがて、大神官の加護の光がゆっくりと落ち着き始める。


眩しさが薄れ、ぼやけていた視界の向こうに、礼拝堂の輪郭が戻ってくる。


その時だった。


跪いていた勇者一行のひとりと、目が合った。


「——!」


息が止まりかける。


……その瞳を見た瞬間だった。


青ではない。


蒼でも、紫でも、翡翠でもない。


そんな単純な色では括れない。


まるで夜空そのものを、虹の欠片で砕いて閉じ込めたみたいな瞳。


虹彩の奥に、無数の星彩が微かに揺れていた。


見る角度で色を変える。


蒼に見えたかと思えば、薄紫が滲み、その底で金が瞬く。


そのさらに深いところでは、宇宙の渦みたいな暗い光が静かに回っている。


——星海。


そう呼ぶしかない瞳だった。


思わず、背筋が凍る。


……いるはずがない。


この瞳を持つ者は。


神々のあいだでは、古くから“選定の瞳”とも呼ばれていた。


神意を映す器。


時に世界を救い、時に世界を滅ぼす者の証。


なぜ。


どうして、こんな場所に——人間の勇者に。


一瞬、痛みすら忘れていた。


その隙に、青年は立ち上がっていた。


こちらへ駆け寄ってくる。


その速さに、ほんの一瞬だけ私は呆気に取られた。


こんな得体の知れないものに、躊躇もなく。


「エドウィン! 治癒魔法を!」


私の身体を抱き起こしながら、青年が叫ぶ。


近い。


思っていたよりずっと近くに、彼の顔があった。


まだ青年と呼ぶ方がしっくりくる年齢の男。


成人したばかりだろうか。あどけなさを残しながら、それでもその眼差しには、揺るぎない意志と、信じがたいほどの憐れみが宿っていた。


その瞳はやはり、近くで見るほど異質だった。


宇宙をそのまま閉じ込めたような虹彩。


淡く色を変えながら、吸い込まれそうなほど深く、美しい。


こんな目をする勇者がいるのか。


こんな瞳を持つ人間が。


……いや。


本当に、人間なのか?


そんな疑念が、瀕死の頭の隅をかすめる。


だが同時に思う。


人間というのは、本当に愚かなほど優しい。


「……いや、僕じゃなくて、大神官様がいらっしゃるんだから……僕の力より遥かに治癒魔法に秀でた大神官様にお願いするべきだよね」


そう言いながらも、エドウィンと呼ばれた小柄な青年は、慌ててこちらへ駆け寄ってきた。


途中で一瞬、はっとした顔をして立ち止まる。


けれど結局、不満そうに眉を寄せたまま、私の顔を覗き込むように屈み込み、掌をかざした。


「アポカタスタシス!」


柔らかな光がこぼれる。


治癒魔法。


その響きとともに、切り裂かれていた皮膚がじわじわと閉じ、腕や脚の中で歪んでいた骨が元の形へと戻されていくのが分かった。


完全ではない。


深い傷は浅くなっただけだし、砕けた骨も形を戻しただけで、しっかりと繋がるまでは至っていない。


それでも、十分だ。


逃げ出すくらいなら。


「ロムア、やっぱり今の僕の魔力じゃ、ここまでボロボロの怪我人の完全治癒は難しいよ」


エドウィンが悔しそうに唇を噛む。


ロムア。


——そうか、この青年はロムアというのか。


名前を知ったところで、どうなるものでもないのに、妙にその響きが耳に残った。


「……そもそも即死だぞ、普通は。この高い天井からステンドガラスを割って落ちてきたんだから。どれだけ高いところから落ちてきたんだ?」


低く落とされた声。


視線だけ向けると、ガタイのいい青年が腕を組んで立っていた。驚きはあるようだが、恐れより先に呆れが勝っている顔だ。


「恐らく、地面に叩きつけられる寸前に魔力で衝撃を抑えたんだろう」


その隣で、眼鏡をかけた勤勉そうな青年——この男の目だけは冷たかった。


じっと私を観察している。


助けるでもなく、ただ見極めるためだけに見ている目だ。


嫌な男だ。


そして、鋭い。


「大神官様!」


ロムアが振り返り、祭壇の方を呼ぶ。


大神官は、今なお私を警戒している様子だった。神杖を握る老いた指先がわずかに強ばっている。


おずおずと、だが慎重にこちらへ歩み寄ってくる。


「ああ……一体、これはどういう……今日の神聖な儀式は、君たち以外に何人たりとも教会に足を踏み入れてはならんというのに……」


「今は儀式よりこの女性です! とにかく助けてください!」


ロムアの声は切実だった。


彼は本気で私を助けようとしている。


どうして。


どうして、そんな目をする。


「むむ……しかし、得体の知れない生物に私の力を与えるわけには……」


「得体の知れない? どう見ても人間です!」


ロムアが声を荒らげる。


その言葉に、私は心の奥で皮肉っぽく笑った。


人間、か。


なるほど、そう見えるのだろう。


翼を奪われ、血にまみれたこの姿は、たしかにただの瀕死の娘にしか見えないのかもしれない。


だが大神官の目は、半分だけ正しい。


私は人間ではない。


魔物でもない。


天界から堕とされた、堕天使だ。


「大神官様、お言葉ですが、神聖なる教会には神の御加護がありますので、魔物は入れません。……なので、“得体の知れない”ではなく、“素性の分からない”という表現の方が正しいのでは」


眼鏡の青年が静かに言った。


冷静な口調のくせに、その言葉の端には棘がある。


「メルザク……大神官様に向かって……」


エドウィンが青ざめた顔で止めに入る。


けれど大神官はゆっくり首を振った。


「いや、よい、エドウィン。メルザクの言う通りだ。魔物は教会には足を踏み入れられない。魔物ではないことは確かである」


「ならば、何が問題なのです。苦しんでいる人をお救いされるのが大神官様のお役目では」


ロムアが食い下がる。


その言葉に、大神官は苦い顔で黙り込んだ。


「ロムア、それはメルザクに問うてみよ。きっと彼は私と同じ考えだ」


「……?」


皆の視線が一斉にメルザクへ集まった。


メルザクは返事をしない。


ただひたすら、私を見つめている。


その眼差しは、嫌悪というより、違和感を解こうとする者のそれだった。


嫌な男だと、やはり思う。


こういう人間は、勘づく。


綺麗な理屈の向こう側にある、歪みを見つける。


私は、彼らの会話を聞きながら、静かに呼吸を整えていた。


エドウィンのおかげで出血は止まりつつある。


骨も、折れたままではあるが元の形には戻った。


逃げるだけなら十分だ。


今の私に必要なのは、ほんのわずかな隙だけ。


ふと視線を上げる。


高い天井の中央に、巨大なシャンデリアが吊られていた。


無数の硝子飾りを連ね、朝の光を受けて鈍くきらめいている。美しい。けれど今は、それ以上に使えるものだった。


あれを落とせば、全員の注意が逸れる。


それくらいの魔力なら、まだ残っている。


私は浅く息を吸った。


唇の裏で、小さく、誰にも聞こえぬように術式を編む。


——テムネイン。


切断。


目に見えぬ刃が、シャンデリアと天井を繋ぐ金具へ走る。


かちり、と小さな音がした。


次の瞬間。


轟音とともに、巨大なシャンデリアが礼拝堂の中央へ落下した。


硝子が砕け散る。


悲鳴が上がる。


空気が揺れた。


全員の視線が私から外れる。


今だ。


そう思った。


ロムアの腕から抜け出そうと、身を捻る。


途端に、背中から腰へかけて激痛が走った。


「っ……」


喉の奥から苦し紛れの息が漏れる。


だが、それ以上に問題だったのはロムアの腕だ。


この青年、見た目によらず力が強い。


私は満身創痍だとはいえ、少しもその拘束から逃れられなかった。


「大丈夫? あまり動かない方がいい。シャンデリアが落ちただけだよ。落ち着いて」


違う。


そのシャンデリアは私が落とした。


だから驚くわけがない。


落ち着けるはずもない。


私は、お前たちから逃げたいのだ。


そう叫びたかったのに、喉はかすれて、声にならなかった。


「……と、とにかく、儀式の真っ最中に現れたんだ。きっと神のお告げだろ。こいつも連れていけって、神がそう言ってるんだ」


ガタイのいい青年が言う。


その言葉に真っ先に首を振ったのは、やはりメルザクだった。


「駄目だ。こいつはきっと疫病神だ。私の勘がそう言っている」


その言葉に、大神官もゆっくり頷く。


「……私も同意見だ。魔物でないにしろ、何か、良くない気配を感じる」


当然だ。


お前たちが敬い、崇めているものと、同じ側にいた残り香を私がまだ纏っているのだから。


けれど、それに首を振ったのはロムアだった。


彼だけが、私を見ていた。


真っ直ぐに。


迷いなく。


「……いいえ。僕はシャガールの意見に同意する」


静かな声だった。


けれど不思議なくらい、広い礼拝堂の中でもはっきり聞こえた。


「きっと、ここで出会う運命だったんだと思うから。僕はこの子を、共に連れていくよ」


何を勝手に。


私の意志も聞かずに、何を決めている。


そう思うのに、酷く衰弱した身体は、もうそれに抗うことさえできなかった。


視界がぼやける。


ロムアの瞳だけが、最後まで妙にはっきり見えていた。


夜空を砕いて閉じ込めたみたいな、あの星海の瞳。


——愚かなほど、優しい目だ。


そんなもの、この世界では一番先に壊れるのに。


私は、そのことをよく知っている。


知っている、はずなのに。


なぜかその光だけが、暗く沈みかけた意識の底に残った。


そして私は——


もっとも都合の悪い場所で、


もっとも面倒な人間に抱き起こされたまま、


意識を手放した。






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