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秘めたきずあと背中に沈む  作者: 熊谷茂太


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第二章 ほのがたり、やがて遠ざかる音①

 デュミナス王国騎士軍は、コクトード州占領地拡大を目指した大規模作戦の「後始末」に追われていた。


 じわじわと侵攻される前線、それを食い止めようとやぶれかぶれの火力が投入され、爆音と銃声が通り雨のように灰色の空へと響き渡っている。

 大規模作戦前に占拠していた土地も六割が奪われた。

 デュミナスの騎士軍は、まさかここまで急速な劣勢に追い込まれるとは予想もできず事実上の配送を余儀なくされていた。


 何もかもが慌ただしく、そして無様だった。

 騎士軍の誰もが想像すらしていなかったからだ。

 デュミナスの騎士軍が誇る総統ゴドウィンが指揮する作戦が、まさか当人の戦死によって失敗に終わるなど。

 騎士たちが敗走や失敗という言葉を口にすることは許されなかった。

〝不測の事態による撤退〟──あくまで作戦の一部として騎士たちは前線の後始末にとりかかる。

 戦場に身を置く者たちは、不安と当惑を無言で見合わせる視線のみで取り交わすしかない。


『無謀な突撃で総統の親衛隊は大勢が犠牲に』

『次の作戦が決行されるとして、誰が指揮をとる──』

『総統は、突然気がふれたと──』

『前線が停滞する』『まだ長引くのか』『故郷に帰れない』

『南の共和国が越境してくるんじゃないか』『共和国──白蛇にまで侵攻されたら終わりだ』


 緘口令(かんこうれい)が敷かれようと、あらぬ噂や嘆きは溜息とともに疲弊した騎士の口から流れ出る。

 騎士軍の本陣の士気は目に見えて下がっていた。






 誰もが武功なき戦況で、ウルスラが果たした役割は小さくなかった。

 最前線にありながら陣形を維持、作戦一日目に総統の戦死で味方が各所で崩れていくなかでも、即座に防衛に徹し敵方の侵攻を許さず、自陣を守り通したからだ。


 その結果は、記録されども評価はされなかった。


 本来のゴドウィン総統の名前を冠した大規模作戦とはまったく意向を異にする戦果だから、という点が大きい。むしろ想定していた決死の特攻が果たされなかったことで前線を率いた騎士団長のウルスラを『死にぞこない』と罵る幹部さえいたほどだ。

 作戦の失敗という事実を紛らわす、体のいい八つ当たりの標的──


 だが、騎士軍のなかでぞんざいに扱われることには慣れている。周囲の剣呑な視線と嗤笑を受け流しながら、ウルスラは作戦の後始末に関わる書類仕事に昼夜を費やしていた。

 早い話が雑用だ。

 てっきり前線の防衛を命じられるかと思いきや、その役割は別の騎士幹部が担っていた。

 本来なら大規模作戦で獲得するつもりだった武功を、少しでも獲得したい──

 幹部たちによる熾烈な功績の奪い合いが、士気の低下した戦場で火種を生むようになった。

 その結果、功績とは無縁の雑務が騎士団長であるウルスラに押しやられ──数日が過ぎていた。

 ──デュミナス王国騎士団の本部あての報告書もようやく区切りがつく。

 休みなく集中力を費やしてひとりで完成させた報告書は辞書のような分厚さになっていた。

 両腕で抱えて、輸送木箱に納めて搬送させると──やっと一息つくことができる。

 ふと目をやった窓からは、戦火の黒煙と分厚い雲の鈍色が滲む空がある。


 その濁った色に、ふと、思う。


 あの戦場を生還したことが奇跡であると。

 幹部に粗雑に扱われ、煩雑な仕事を押し付けられ、疲労を覚え、ふと見上げた曇天が気の滅入るような色をしていても。ふとした瞬間に「生きている」と自覚する。

 胸の奥に、淡い熱を覚えながら。

 その理由を思うたび浮かぶのは、ひとりの人だった。

 フレデリク・ベイリー。敵方ドルムトレク王国軍にいた、捕虜の軍医。

 慌ただしい状況で言えばフレデリクの方が今や過酷だろう。軍医としての利用価値で捕虜になったフレデリクは、今回の大規模作戦による大量の負傷者の対処に追われている。

 監獄に収監する時間もなく、何日も野戦病院に留まり治療し続けているとも聞く。



『あなたを失いたくない』



 その思いで彼がこの大規模作戦にいかほどの翳をもたらしたかを、ウルスラは知った。

 それを知って、受け止めて以来──会えてはいない。

 騎士団長として、会うべき理由はない。

 でも────


「……」


 ふと過った思いを振り払うように、ウルスラは小さく首を振った。

 なにか、彼と会う理由を探そうとしていた、そんな自分を戒めるように。

 今「死にぞこない」とされている自分への風当たりを思えば、安易に接触するべきではない。

 捕虜であるフレデリクの立場が危うくなるような状況にはしたくなかった。

 ああ、そうだ……いくらフレデリクが軍医としてデュミナスの騎士軍の救助に貢献したとしても、彼は敵王国の者なのだ。自軍の誰かが、いかなる理由で彼を処刑しようとするかも判らない。


 ──あの人を、守る必要がある──


 捕虜の命を保証する仕組みや制度は、この戦争で機能しているのだろうか。

 あるとしたら過去の事例は。

 ウルスラは動き出した。






 その日も多くの負傷者が野戦病院に運び込まれた。

 院内は焦げた血と肉の臭いに満ちて(むせ)そうなほどだ。負傷兵から(もたら)される死に通じる気配。それを振り払うように軍医や衛生兵の声が飛び交い、息を吐く暇もない。


「切開します──メスの使用許可を願います」


 目の前に運び込まれた男の傷を覗き込むと、フレデリクは傍に立つ衛兵に申し出た。

 捕虜として、刃物を手にする際には見張りの許可が必要だった。

 衛兵には看護士としての医療知識を持つ者が配置されていた。フレデリクを軍医として利用する一方、武器になりうるものを扱い、戦力を直接削ぎうる存在への警戒もあった。

 すでに血塗れで、これ以上切り開く必要もないほどの傷を負った兵士を見た衛兵は訝しむ。


「すでに裂傷を負っている。貴様、これ以上傷を広げて我が騎士軍を削減する工作を目論んでいるのではあるまいな。とっとと縫合を、」

「砲弾の破片が喰い込んでいます。放置すれば大動脈を傷つける可能性が」


 威圧的な声に対し、フレデリクは冷静な声を差し込んだ。

 手元のペンライトで該当箇所を照らして示しながら、


「こちらです。断片がここに──まだ血管には達していません。破片を除去次第縫合します。メス、もしくはクーパーの使用許可を」

「……円刃──一〇番メスはない」

「尖刃メスでもかまいません」

「十一番の使用を許可する」

「感謝します」


 トレイに置かれたメスを手に取り、フレデリクは刃先を兵士の傷に向ける。

 尖刃メスはピンポイントの切開に使われるが、刃先が鋭利で扱いによっては医師すらも切創を負うことがある。

 明かりも不充分な野戦病院下で、フレデリクは切開、除去、縫合まで一気に進めていく。ひとりの処置とは思えない精密で迅速な手際を思わず衛兵が凝視していると。


「──次の方を」


 淡々と、新たな負傷者の救命を促す声に我に返った。

 傷をさらしていた負傷兵は、とうに縫合を済ませ血も拭われている。

 それを誇るでもなく、フレデリクは次に成すべきことのため命令を待っていた。

 そこにあるのは、戦場でもとりわけ死の気配が凝縮された空間に長年居続けた者の泰然に通じる気配だった。栄誉も打算もなく、ただ医術を尽くすひとりの医師。

 捕虜の軍医の静かな眼に衛兵は一瞬気圧され、はっと手元の書類のことを思い出す。


「その前に、署名を残せ」

「……署名。私のでしょうか」


 運び込まれ並んでいる負傷者順に、カルテとは別の書類が紐を通された束になっていた。

 衛兵は仏頂面で面倒そうに、


「そうだ。今日から負傷者に関わった診断者や施術者が都度署名を残すことになっている」


 フレデリクは手渡された書類とペンを手に、手早く署名して返す。


 ──どの軍医が誰の治療に関わったのかの記録だろうか──しかし、何のために。


 衛兵も余計な増えた手間が増えたことにうんざりした息を吐く。


「カルテとは別になっている。以後忘れないように」

「仰せのままに。では次の方を」


 フレデリクは面倒を思う時間すら惜しんで、隣に横たわる負傷者へと向かった。

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