第一章 へだたりに、あいまみえる⑥
甲冑には戦場で浴び続けてきた血と硝煙の匂いが濃く残る。
それでもウルスラは引きずるような脚で、廊下を進んでいた。
「──鍵を」
突如現れた騎士団長に、衛兵はぎょっと息を呑んで立ち上がる。
剣や銃弾の擦過でぼろぼろの鎧、返り血と泥が跳ねた肌──戦場からそのままのウルスラの壮絶な姿がそこにあった。
ゴドウィン総統の大規模作戦の先陣で散るはずの──
戦場の色濃い死の気配を残り香のように漂わせた姿に、衛兵は命令通り鍵を手渡すことしかできない。
茫然とする衛兵を置き去りに、ウルスラは監獄房の扉を開けた。
「────ウルスラ……!」
扉の物音で鉄格子に駆け寄ったフレデリクが、ウルスラの姿を見るや喜びを声に滲ませた。
「よかった……! あなたが生きて還ってきて……!」
ウルスラを見つめる目がみるみる潤む。
自分の帰還を喜ぶその姿を、ウルスラは鉄格子の隔たりから見つめる。
「毎日作戦のことを野戦病院で漏れ聞いていました。不測の事態によりかなり戦況が乱れていたと」
「……ゴドウィン総統が、戦死された」
「初日は自ら出陣すると宣言されていましたね。流れ弾でしょうか……不運なことです」
「違う。突然前後不覚に陥って、強引に敵陣へ突撃してしまったんだ」
どこかぼんやりとした声で、ウルスラは告げた。
──作戦開始の第一日目から突如錯乱し、暴走も同然に敵陣へと突っ込んでいってしまった総統の戦死という事態に、騎士軍は大いに混乱した。
指揮系統も立ち行かなくなり、作戦どころではなくなってしまったほどだ。
結局、ゴドウィン総統による大規模戦力投入作戦は中断となった。
その結果、前線でしぶとく生き延びていたウルスラたち先陣も、帰還することができたのだ。
「──あなたが生きて還ってきてくださり、何よりです」
惑乱する騎士軍をよそに、フレデリクは純粋に喜びを露わにしていた。
「ウルスラ。その血はあなたのものですか? 怪我をされたのなら私が診ます──」
鉄格子から伸ばされた腕に、
「フレデリク。あなたがゴドウィン総統に何かしたのか? 戦場のあの状況は、あなたが」
ウルスラが微かに震える声でそう問うと。
「────はい」
フレデリクは、伸ばしていた腕をそっと自分の胸元に添えた。
「私が総統の傷口に遅行性の錯乱系毒薬を施しました。戦場で、誰よりも先に死ぬように」
「作戦の前日、野戦病院にゴドウィン総統が訪問されたとき、概ねの情報を把握することができていました」
鉄格子からの声は、静かで揺らぎない。
「ひと月前の『あなたのしくじり』で延期された作戦──そこであなたの背中の傷について推察できました。今回は懲りずにあなたを犠牲にした大規模作戦を敢行すると宣っていた。
私はそれを阻止したいと彼の傷口に遅行性の毒を。治療のていで塗布することは可能でした。痕跡が残る致死毒ではなく向精神薬を選びましたが、効能は有意義に発揮されたようですね」
告解にしては怖いほどの清廉さで、フレデリクは滑らかに語った。
──ウルスラは、わかりやすく話してくれた内容をまだ呑み込めない。
驚くべき洞察力で自分の傷の真相を見抜いた彼が、この異様な戦況に関わっているのではないかと思ったのは──ただの勘だ。
ウルスラの傷を見越して医療品を大胆にもくすねる行動力を持つ彼が。
『あなたを失いたくない』
そう涙していた彼が。
何か行動を起こしていたのではないかと。
「だけど、…………総統を、殺すなんて……」
「あなたを斬ったのは、あの男でしょう」
告解をしていた男は、突如冷血な断罪者のような声でそう言った。
「……!」
「兵士の増援を目論んであなたを亡き者にする計画を立てたのはもちろん、実行したのも彼だ。許されざる理由も、死すべき理由も充分でした」
「どうして……、総統だと……っ」
「抜糸をする前日の挨拶を覚えていますか?」
「あ……」
ウルスラは呻く。
フレデリクがいつもの挨拶で握手をしたとき。
ウルスラの手の冷えと脈拍から緊張を指摘した──
「あのときのあなたの動揺が、抜糸の緊張などではなく恐怖だとしたら。騎士であるあなたが怖れるとしたら、それはあなたを斬り殺そうとした者だ。翌日はあの男が本陣に現れる日でしたね。そんな存在を考えれば、恐怖するのも当然です。
やはりあの男を殺すことができてよかった」
「……っ」
──わたしはどこかで、彼に何か言ってしまっていたのではないか──?
ありえない思いが過るほど、彼の指摘は真相そのものだった。
「私はあなたを失いたくありません」
鉄格子の向こうから、フレデリクは厳かにそう言った。
「そのためにすべて私が選んだことです。後悔はありません」
総統を殺し、騎士軍を混乱させた──万一知られれば処刑は免れないのに。
フレデリクは一瞬で、躊躇いなく選択した。
──ウルスラを失わないために。
「フレデリク……」
真っ直ぐに自分を見る彼の瞳に凝った光を前に、ウルスラは小さな眩暈を覚える。
理知的で冷静なこの男の情動的で苛烈な本性と行動は。
自分への思いのために捧げられていたのだ。
倫理も正義も通用しない深い愛は、ウルスラが計り知れないほど底が見えない。
その愛に溺れるのだとしても。
わたしは。
「フレデリク」
ウルスラは呼吸をおくと、声を引き締めた。
「明日までには戦場の負傷者が大勢野戦病院に搬送される。これからも軍医として、あなたの力を尽くしてくれないか」
「仰せのままに」
無言で伸ばした手で鉄格子を握ると、フレデリクが牢から握り返してきた。
手を包むその指にウルスラは指を絡めていく。
鉄格子を隔てて、二人の指が繋がる。




