第一章 へだたりに、あいまみえる⑤
ウルスラの薄い唇をフレデリクはゆっくりと口に含んでいく。きゅっと吸われるたび口唇が形を変える。唇を呑むように、吸う力は徐々に強くなる。
──キスをしている、とようやくウルスラは思考を動かした。
塞がれた唇の奥で、悶える声が喉を震わせる。
一気に熱くなった全身から、力が抜ける。
不覚の軀がふっと背中から底深くに落下しそうな気がして、ウルスラは思わずフレデリクの首にしがみついていた。
さらした自分の素肌に触れる、フレデリクの服越しの胸板が熱い。
「…………ぁ」
唇が離れてやっと、喉奥から震える息を吐く。
柔らかく優しいキスが意識を蕩かせていた。頭がぼうっとしている。
フレデリクの唇はウルスラの耳を撫で、首筋をするりと伝う。頸動脈を這う湿った舌先──触診で肌を伝っていた指先とは違う感触に全身がぴくりと跳ねる。
「ぁ……っ」
熱く爛れた声が零れる。自分のものとは思えない淫靡な声音に思わず口を閉ざし、呼吸も止めてしまう。
──彼の唇が首筋から離れ、ようやくウルスラは喉の力をほどいて息を吐いた。
「フレデリク……」
名前を呼ぶも、続きが途切れる。フレデリクはウルスラの頬をそっと撫でながら小首をかしげる。彼女が一瞬言いかけていた言葉を促すように。
「フレデリク、さっき……へんな声が出た、から……わすれて」
自分では制御できない甘く凝った声が出てしまった。
かえって恥ずかしい申告をしてしまったと思いつつも、彼を幻滅させたくなくて取り繕う。
「聴かせてください」
ふっと微笑み、フレデリクは答えた。目じりに深く刻まれた皺がウルスラの胸を締め付けた。
「私だけに。あなたの声を、もっと」
もうすでに彼にしか見せていない傷痕があるのに、これ以上さらけ出すものなんてあるんだろうか。恥ずかしい声のほかに、別のなにかが。
あるのだとしたら。
──それはあなたに、あなただけにさらしたい──
ウルスラは自分からフレデリクに口づけした。彼がしてくれたようにと懸命に唇に触れていく。
上手にはできてないと自覚しているが、フレデリクは心地よさそうに目を閉じていた。
「……はぁ……」
唇の隙間からの陶然とした吐息は、フレデリクのものだった。少し理性を手放した声のとろみにウルスラの耳朶がじわりと痺れる。
互いの潤んだ視線が交わされ、繋がる。
なにかに火が点いたように、フレデリクの動きが熱を帯び出した。
キスで唇が開かれ、舌がウルスラの口の中へと押し入る。
「んぅ…………っ」
息の仕方が解らなくなって、思わず呻く。怯えて逃げるウルスラの舌をフレデリクが追う。熱くて柔らかいのに強引で、背筋が一気に強張ると同時に全身の力が抜ける。
手足が不意にぴくりと痙攣して、思うように動かせない。
軀だけでなく思考も乱れ始めていた。
息をしないといけないのに、舌を巡る感触に意識が持っていかれる。
それをもっと感じたくて、勝手に漏れる声がねだる色味になっていく。
舌だけでウルスラを囚われの身にしたまま、フレデリクは性急な動きで上衣を脱ぎ上半身を露わにした。
痩せて乾いた肌には、体力仕事でもある軍医の筋張った肉体があった。壮年にしか醸せない枯れた色気すら覚える。
鉄格子から握手が差し出されるとき、手の甲に浮いた血管を無意識に目で追っていたことをウルスラは思い出した。
上衣を足元に脱ぎ落した腕が、ぐっと力強くウルスラを抱き寄せる。
「……!」
上半身の肌と肌が触れた瞬間。鋭い衝撃が意識を灼く。
素肌を重ね、直に感じた熱がこの抱擁を特別にする。
鉄格子を隔てて互いの手を握ったときとまったく違う。
こんな風に誰かと触れ合ったことなんてない。
人肌の、他のなににも代えがたい心地よさにウルスラは泣きそうになる。
フレデリクの熱を軀で感じて吐息が溶ける。
腕を背中に回し合い、肌に吸い付く互いの素肌を確かめていると。
「…………ぁっ」
ウルスラがひくっと背中を反らせる。フレデリクの手がウルスラの背中の傷を守るように、その縁を指先で撫でていた。ぞわりと粟立つ感覚に浮き上がりそうになるウルスラの軀をその場に留めるように、フレデリクの腕が優しく絡む。
「背中は痛みませんか?」
「いたくない、から……」
ウルスラはフレデリクと向き合うと、その頬に指を添える。
「さわって」
自分の思いを理解し、傷を見抜き、その真相まで明らかにしたうえで、この人はわたしという存在を肯定して救ってくれた。だから彼を求めた。
フレデリクでなければだめだった。彼の肌、熱、動きがほしい。
だから、さわって──
「仰せのままに」
フレデリクはそっと微笑んだ。
はじめは指先だった。
フレデリクの頬に添えていた右手を取られ、小指から順に口づけされる。
自分の指に彼の唇が触れる。ただそれだけの動きに特別なものを感じ取った肌が、徐々に熱を帯びる。
火照る軀にも、フレデリクは触れていく。指先で、掌で、唇で。
触れられることが、恥ずかしいのに嬉しい。一つ所に収まらない感情は軀を加熱させ、ウルスラの吐息をも熱くさせていた。
堪え切れず喉で震えるのは、言葉になる前に溶けてしまう響だった。
乱れる息に混ざるいやらしい音は紛れもなく自分のもので、フレデリクに聴かせたくないのに止められない。
強張りながら、震えながら、熱く柔らかくなっていくウルスラの軀をフレデリクはそうっと包み込む。もっと触れたくて、触れてほしくて身悶えしているうちに、気付くとふたりは互いの体温を全身で感じ取れるような姿になっていた。
フレデリクはずっと優しかった。最後の一線を踏み越えるかをウルスラの瞳に尋ねながら、壊れもののように軀を大切に扱ってくれる。
──わたしは──あなたが──
──ただ、どうしても欲しい。
孤独を埋めるためでも恐怖を慰めるためでもなく、もっと深く触れたい。
自分からキスをして、乱れる息のなかでウルスラはフレデリクを求めた。
フレデリクはそれに応じた。
「……ウルスラ」
抱き寄せられ、耳元で低い声が滴り落ちる。燃えるように熱い吐息とともに。
ぞわりと全身が内側から震える。
こんなにまで自分の深いところに人を迎えたことなんて、ない。
誰かと触れ合うことが、その喜びが、震えになることをウルスラはその瞬間、軀で知った。
悲鳴のようになった響を抑えることができなかった。
揺すぶられ、突き動かされ、震える。
そのたびに喉を迸るのは、甘く爛れた呼吸だった。
いやらしくてみっともなくて、こんなの誰よりも彼に聴かれたくなかったはずなのに、自分のもっとも近いところにいるのはフレデリクだけだ。
響をとめられなかった。
「だめ」と思う一方で、聴いてほしい気持ちが去来する。この人だけに「もっと」
──ほかに伝え方がわからないから。
フレデリクと繋がっていられる、この瞬間の感情を。
言葉ではとうてい満たせない、言い尽くすことができない代わりに。
ウルスラは熱で溶けた響をあげる。
──やがて痺れに近い感覚に襲われ、頭が真っ白になると。
フレデリクの軀が、全身に覆いかぶさっていた。
「…………フレデリク……」
まだ熱の残った声でその名前を大切に口にする。
肘を使って自分のことを潰さないようにしてくれているその軀を、ウルスラはぎゅっと腕で引き寄せて抱きしめた。
「…………」
フレデリクはウルスラの耳元で呟いていた。
「……あなたを、失いたくない──」
だけど。
それは叶わない。
ウルスラは何も答えられない代わりに、抱きしめる腕に力をこめた。




