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秘めたきずあと背中に沈む  作者: 熊谷茂太


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第一章 へだたりに、あいまみえる④

 その日の夜。ウルスラはフレデリクの牢で治療を受けていた。

 さらした背中をすいすいと流れるように、フレデリクの指が巡る。


「──糸は抜けました。ひと月前の傷なので痕は残りますが」

「ありがとう。これでもう、明日は問題なく戦場に出られる」

「ゴドウィン総統の作戦ですね」

「そうだ。わたしは先陣を任されている。しばらくここに来ることはない──」


 前に抱えていた服を着ようとして、フレデリクの指が背中に留まっていることに気付く。


「これは、味方に付けられた傷だったのですね」

「……!」

「妙だと思っていたのです。戦場で受けた後ろ傷を兵士たちに知られるわけにはいかないとあなたは言っていた。

 ですが、あなたの鎧は背面も守られる形状だ。こんな風に背中を切り裂けるとしたら鎧の必要ない場所──本陣内である方が辻褄は合います」

「それは……」

「これはただの推測です。元は同じ国であるドルムトレク王国の軍規律と照合した場合。軍の増援要請には現場の損失に見合った補充されますが、その損失の算定には階級が重視されます」


 階級の高い騎士が失われるほど補充も増える──それはデュミナス王国も同じだった。

 フレデリクは、淡々と推測を語り始める。


「ひと月前、あなたを背後から襲った者は、この戦地への兵士増援のために騎士団長であるあなたを闇討ちし『損失』にしようとして──失敗した。軍内部の醜聞を相手もあなたも口外できず、結局今に至ったのではと。違いますか?」


 驚いて見開かれたウルスラの目がもはや答えを物語っていた。

 あわてて目を逸らしても遅かった。


「そんなこと、言えない」


 服を前に抱えたまま固まるウルスラの肩を、フレデリクはそっと掴んで覗き込む。


「どうして。あなたが数合わせの貴族だから、騎士軍は何をしても許されるとでも?」

「……そうだ」


 問い質す目から逃れるように、ウルスラは俯いた。


「貴族が孤児を騎士に仕立てるのは、国の勅令だろうと血縁者を戦場に送りたくないからだ。わたしのような者はごまんといて、どんなに武勲をあげても簡単に使い捨てられる──そういう存在なんだ」

「なんて、ひどい」

「──わたしなりに簡単にはくたばるかと、鍛えて戦ってきたんだ」


 ふっと顔を上げ気丈に笑ってみた。だがウルスラの表情を見たフレデリクは、信じられないくらい哀しい顔をしていた。


「どんな過酷な戦場でも、負けないように、死なないように──戦果は評価されて騎士団長にはなれたけど……まさか味方に斬られるなんて。油断した。わたしは小娘で、数合わせの孤児で……だから戦場に駒を大量に追加するため切り捨てるにはちょうどよかったんだ」


 それだけだ──と、言い聞かせるような声が掠れる。


「明日の作戦は、先陣が全滅することが前提だから──今度こそ駄目かもしれない」


 作戦を聞かされ、戦術の算定をして確信していた。

 死ぬのだという運命を、ウルスラは静かに悟っていた。

 孤児になって、騎士になるべく励んでも結局は貴族の数合わせで。

 戦場で戦っても、階級は形だけでぞんざいに扱われ簡単に切り捨てられて。

 結局は、簡単に死ぬ役回りをあてがわれる。

 自分なりに生きてきたことを、やってきたことを、とことん否定されてきたのだと思う。今まであまり考えないようにしてきたけれど、この現実は認めざるを得ない。


「だけど最後にいい手柄ができた」


 ウルスラの声は静かだった。あらゆる感情が一過したあとの凪のように。


「あなたを捕虜として生かした判断は、我ながら悪くなかった──と──」


 ふと見ると、フレデリクが涙を流していた。

 不器用にも気丈に振る舞おうとしていたウルスラは、驚いて言葉をなくす。


「私はあなたを失いたくないです」

「フレデリク……」

「今まであらゆるものがあなたを苦しめていたはずなのに、あなたはこんなにも優しい。

 戦争を憎み、人の死を悲しみ、私を救ってくれました──

 どうしてあなたまで失わなければならないのです。せっかく大切だと、心から思えたのに」


 ──弟を失い、人の命を救いたいと医師としての身を戦場に置いた。

 終わらない戦争の渦中で、いつか戦争が終わることを願いながら。

 だが彼はまた失おうとしている。戦争は再び大切なものを奪う。長年の願いなど無力だとフレデリクを打ちのめしながら。


 雫の伝う頬、まつげを濡らすその目元に、ウルスラはみとれてしまった。

 身を知る雨のごとき涙の美しさが、哀しくもあり嬉しくなる。


「……フレデリク、ありがとう」


 綺麗な輪郭を崩さないようにと、ウルスラはそっと彼の頬を拭った。


「救われたのは、わたしも同じだ。同じような思い方をする人がいて、わたしがしてきたことを認めてくれて──こんなこと、今までなかったから」


 明日には戦場に行く。これが精一杯の感謝だった。

 無言で涙を流すフレデリクを見つめているうち、ウルスラは気付いた。


 ──わたしも、この人のことを失うんだ──


 その事実がウルスラのなかに火花のような衝動をもたらした。

 戦場で散ることを受け入れている凪の境地とは別の、身を焼くような熱。


「フレデリク。あなたは何もしなくていい、から……一度だけ、抱きしめさせてくれないか」


 鉄格子のないこの距離でできることを、最後だけでも。

 ウルスラは潜り込むようにその胸元に飛び込んだ。脱いでいた上衣がぱさっと床に落ちる。

 素肌をさらしたままだったと一瞬恥じらうが、フレデリクの服越しの身体の温もりを肌で感じ取ることができた。

 戦場の恐怖を慰めるための本能的な行為なのかもしれないけれど、今、このときを逃せばもう二度と彼には触れられない──戦場で死ぬことより、その方が怖かった。

 小娘の浅はかな行動だと拒まれたらどうしよう──不安を払拭したのは、フレデリクの腕だった。ウルスラを包むように背中へ回された腕には、触診とは違う力がこもる。

 自分のものとは違う熱。溶けるようで混ざらない体温。それが今はただ心地良い。

 音もなく、心が昂り出す。

 触れ合うこの先、行きつくところまで行きたくて、どう伝えればいいかわからない。

 ウルスラは少しだけ身体を離した。今までで一番近い距離に乾いた涙を頬に残した彼の顔がある。

 その濡れた瞳には、自分の姿がほの映っている。


「フレデリク、わたしは……」


 恋心を知っていても、恋愛経験が未熟なまま騎士になって戦場にいる──女性としての拙さが恥ずかしくて、薄く開いた唇からは上気した吐息ばかりが零れる。


 ──わたしは。

 ──あなたのことを。


「…………」


 思いを言葉にして口にすることが、急にできなくなる。

 自分の思いを拒まれることが、言葉を否定されることが、こわい。

 これ以上踏み込むことを口にしたら、嫌われてしまうかも。

 もう求めてはいけない。抱きしめて温もりを分けてもらった。わたしには、それで充分──

 脳裏をよぎる惑いが、不意に途切れる。


「っ」


 開きかけていたウルスラの唇に、フレデリクが唇を重ねていた。彼女が口にできなかった言葉を、そこから汲み取ろうとするように。

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