第四章 ただならぬ思いにふれたとき⑨
深い夜の物音に、牢のフレデリクは目を覚ます。
石畳を鳴らす軍靴の音が弱々しい。怪訝に思い鉄格子に寄ると、人影が近づいていた。
ウルスラだった。
軍の制服を着ているが、髪は乱れ朦朧としている。
ぞっとしたものすら感じて、フレデリクは手を伸ばしていた。「もう会わない」と遠ざかっていた彼女へと。気づけば「会いたかった」と晒した本心を伝えながら。
こんなにも鉄格子の隔たりを忌まわしく感じたことはない。
目の前で衰弱し、今にも息絶えてしまいそうなウルスラを前に、ただ見ているだけなんて。
──必死の懇願に、心身の限界にあったウルスラが倒れ込んできた。
白く冷たい手をフレデリクは握り、引き寄せる。
鉄格子の妨げにかまわず、腕の力だけで彼女を支えた。いつかの作戦の情報聴取で握手をして以来の感触はか細く、見た目以上に弱々しかった。
「……っ、は…………っ、……っ」
発作で細かく震えている。汗で濡れた髪が貼りつく首筋に触れた。
頻呼吸、いや、呼吸促迫に近い肩の上下。身体が正常に酸素を取り込めなくなっていることは明白だ。
横たえて今すぐ治療できない状況がもどかしい。
白く細いその首筋を、フレデリクはそっと撫でた。何もできない自分に怒りを覚えながら。
ゆっくりと鎮まってきたウルスラの息遣いを胸元で感じながら、フレデリクは呟いた。
「──あなたの容態が心配です」
乱れていた髪を手櫛で撫でた。発熱しているのに指先は冷たい。肉体的な消耗のみならず精神的な疲弊も深刻なものだった。
どうして。
彼女を脅かしていた味方の意識は、今や敵であるドルムトレクの撃破に注がれているはず。
ウルスラが、こんな姿で、意識すらままならない状態に追い詰められているなんて──
もう戦場から離れるべきだと思いながらフレデリクが意見すると、ウルスラは弱々しい声ではっきりとこう言った。
「変わらなければ。でなければ、死ぬだけだから。わたしは──行かないと」
たとえ味方から蔑まれ笑いものにされようとも、彼女は戦場に身を置く。
熱狂しておかしくなっていく戦場に順応しなければと追い立てられながら。
のみならず、彼女は熱を上げる味方兵士が大勢死んでいく状況に心を痛めていた。
今までもこれからも自分を傷つけ続けている戦場で──ウルスラはそれでも生き抜こうとしていた。正気を保とうとするがゆえに彼女は弱り、瀕死すら危ぶまれる呼吸を繰り返している。
フレデリクは愕然と──己の浅はかさを自覚する。
ウルスラを苛む存在に報いを与えるべく、フレデリクは謀ってきた。彼女を嘲笑し侮蔑する味方軍の思考を奪い、強制的に敵への戦意に集中させる。死に至る刺激薬によって。ウルスラを苦しめるものを婉曲的に排除しようと。
だが、今や彼女を追い詰めているのは、戦場そのものになっていた。憎み合い続けなければならない敵、否定し拒絶し続ける味方、殺し合いと死が横溢する、今の戦場が。
彼女のためにさりげなく混ぜた差し金により戦場は狂気を増した。
しかしその思惑が守るべきウルスラを逆に追い詰めていたなんて──
フレデリクは深く重い溜息をついた。
「報いどころか戦場であなたの憂慮になっていたなんて──」
私は、浅はかで愚かで──生ぬるかった。戦場から彼女の脅威を排除するだけでは足りなかったのだ。
嘆きの言葉が零れていた。訊ねるような目をするウルスラの頬に、フレデリクは手を添える。
疲労と寝不足で力を奪われた目元。それでも彼女の瞳は濁りなくフレデリクの姿を映し取っていた。
こんな綺麗な眼に自分の姿が映るなんて、奇跡のようだとすら感じる。
私が今ここに、彼女の目の前に居ることには意味がある。
そんな使命感すら芽生え、燃え立つほどに。
今日まで戦場で生き延びてきたウルスラへの深い敬意をこめて、フレデリクはその瞳を見つめる。
「優しいから狂気に中てられてしまっている。異常である戦場で、息をして立っていられるのはあなたが強いからです──ですが、ずっと居続ける必要はない。あなたが生きていることよりも価値のある戦場なんてありはしないのですから」
心の底からの思いを口にした瞬間。
フレデリクのなかで「答え」が見出された。
──ウルスラが生きていることよりも価値のある戦場なんて、ない。
そんなものは、なくしてしまうべきだ。
なんて簡潔な答えなのだろう。
────ウルスラが生き延びるためには、戦場そのものを破壊すればいい。
彼女が逃れることのできない現実を。
彼女を脅かし、殺そうとしている場所を。
存在自体をなくしてしまえばいい。
明快な結論にフレデリクは震えそうになった。感動や歓喜に通じる昂りまで感じてしまう。
ウルスラの頬に添えていた手がじわりと温かくなる。
自分のことを見つめていた水面のような碧い瞳が、滲んで潤んでいく。その美しさに見惚れていると、ウルスラの目から静かに涙が零れて落ちた。
頬に添えていた掌に伝う雫が柔らかい。
「フレデリク、わたしは、あなたのことを好きになって、今も好きなんだ」
「……」
「あなたがわたしのために、総統を……人殺しまでしたことが、その選択が、本当は嬉しかった」
掠れ声の吐露が、フレデリクの耳朶を熱く震わせた。
ウルスラは──自分を恐れ、避けて、だから「もう会わない」と告げたのではなかった。
医師であるフレデリクをこれ以上戦場での殺し合いに関わらせるべきではない、命を救ってきた医師を戦場から遠ざけるべきだと。
この人が、こんなにも私のことを思ってくれていたなんて──
ウルスラの告白に、フレデリクは目も眩みそうな喜びに満たされる。
ウルスラが伝えてくれた思いが、フレデリクの意志を熱く強固にしていく。
それは自分でも初めて触れる感情だった。
すべてを爛れさせ形を変えるほどの熱さと、何もかもを貫く鋭い冷たさが共存している。
彼女のためにどんなことでもする。この感情は恩義でも敬意でもない。一切の見返りを求めない、己の最も深いところから湧き生まれた愛と呼べるものだ。
触れて気付いた感情によって。
フレデリクは明瞭な思考を保ったまま、狂れるに至った己の意識を自認する。
涙を零しているウルスラと見つめ合い、フレデリクは微笑んだ。
純然たる狂気を自覚しながら。
ウルスラは医師であるフレデリクが戦場の血腥さに深く関わる事態を危ぶんでいたようだが、それはもはや憂えることではない。
──この手はとうに罪に染まっている。
総統を殺し、大勢の騎士や兵士を薬物で汚染し、戦死者を増加させてきた。
すべてはウルスラが何にも脅かされることなく生きるために。
まだ足りない。もっと為すべきことがある。やっとその答えが見つかった。
この戦場を、破壊する。
政治も軍事も力を及ぼすことのできない自分ができることはつまり。
戦場の人間をすべて消し去ることだ。
要は命を奪うこと──フレデリクにとっては充分に可能な行いだ。
医師として、人として、取返しのつかない領域に踏み込むことになるだろう。だが躊躇するつもりはない。
今日までの神への祈りには、何の力もなかった。
魂と引き換えに願いを叶えてくれる悪魔のような都合のいい存在も、この世界にはいなかった。
ならばこの手で実現させるしかない。どれだけの命を奪おうと。必ず、成し遂げてみせる。
フレデリクのなかにあるのは、万能の神より冷静で、狡猾な悪魔より凶暴な望みだった。
何でもする、どんなことでもやり遂げると誓っていた──だからこそ、ようやく為すべきことを見出せたことに、深い充足感と高揚を感じながら。
「ウルスラ」
今、再び誓いをたてるように。
「あなたのことを、愛しています」
フレデリクは己のすべてを捧げて守る者へ口づけする。
戦場を破壊する。戦場にいる者を鏖にする。自分の命も含めて消し去ることになろうとも。
最後にウルスラが生きて残れる世界があれば、それでいい。




