第五章 この世にある間は限りあろうと①
野戦病院のベッドで横たわるルーカスにフレデリクは目をやった。
「経過は順調ですね」
診察し、包帯を巻いた手足を診て、診察記録書に署名を残す。毎日淀みなく行われている滑らかな動きをルーカスは無言で眺めている。
「……」
「何か心配な点などございますか?」
穏やかに問いかけると、ルーカスはびくりと目元を動かした。注意深くこちらを窺うような視線。警戒というより怯えている──
フレデリクは自分を見張る衛兵が遠くに立っていることを確認していたので、普段の姿勢で声量を落としてルーカスに語り掛けた。
「そちらも順調のようですね」
「……なんの話だ」
「同室の者は重傷で夜の巡回もない。隠密で動くには絶好の環境であるとお見受けします。あなたの手足は動くのですから」
「…………っ」
ルーカスは唇を引き結び、顔面を強張らせた。
迂闊に何かを口にすれば、フレデリクの餌食にされると思っているかのように。どうしたことか、先日までの馴れ馴れしい態度はすっかり鳴りを潜めている。
フレデリクは訊ねるように小首をかしげた。
「私の見立てた容態であるという前提で、お話を進めてもよろしいでしょうか?」
ルーカスの四肢は仰々しい包帯に塗れ右腕にはギプスまで施されているが、本当は余裕で動かせる。それどころか夜には人目を盗み、本陣を動き回ることすら可能だと──
そう見なしている。実際にルーカスの身体を診ている当事者として。
むしろフレデリクは彼の負傷の偽装に加担している。
主導権を握られていると感じたのか、ルーカスは不服そうに眉間を翳らせた。
「俺は、銃弾で身体に風穴が空いたんだぞ」
「今は身動きに多少差し支える程度でしょう」
まるで彼の挙動を実際に見たかのようなフレデリクに即答され、ルーカスは押し黙ってしまった。
──肯定したも同然だ。負傷を偽り、夜に本陣を動き回っていることを。
簡単な問答でやり込められる若い通信兵にフレデリクは一抹の不安すら抱いた。
自分の駒として動かすには脆弱ではないかと。
だが、選り好みのできる状況ではない。少なくとも、自分の意のままにはなるとフレデリクは気を取り直した。
「本陣南の湿地帯まで足を運んでもらえませんか」
「南の……湿地帯?」
「見張り兵含め、昼夜人の立ち入りはほとんどないはずです」
ドルムトレクにいた頃から、南部についてはそう把握している。合わせ鏡のような戦況にあるデュミナスも似たような環境にあるはず。
──コクトード州本陣の南部はフレデリクの言う通り湿地帯が拡がる閑静な土地だ。ドルムトレクと交戦する平原や丘陵地帯の多い東部と異なり、常に霧に包まれている南部湿地帯は戦争を仕掛けるにはあまりに条件が悪く、両王国の戦争が南部では展開することはほぼない。
のみならず湿地帯のさらに奥、ルガナスク河越しにあるリスファランド共和国からの侵攻を阻む天然の国境線と化している。あらゆる干渉から逃れている霧地帯なのだ。
ルーカスは怪訝な表情でフレデリクを見上げた。
「そこで俺に何しろって言うんだよ」
「花の採取をお願いします」
「花?」
「ダチュラという名の一年草です。今の時季に花を咲かせています」
漏斗状の花弁、天使のトランペットという別名、アサガオに似た形などの情報とともにフレデリクは、
「毒性があります。触れる際にも丁重に扱うようお願いします」
「…………毒薬でも作るつもりか」
「まさか」無造作に否定する。「配合して麻酔薬として応用します」
ダチュラはスポコラミンなどの有機化合物を含む致死すらもたらす有毒草だが、要は使い方次第。手術麻酔薬として使用されていた記録も残っており、調整すれば鎮静剤としての効果が見込まれる。
野戦病院の睡眠剤を入手できれば話は早いが、薬剤は軍医が厳重に管理するようになったため容易に手が出せない。自力で生成するには、このエリアにある野草を使うしかなかった。薬の知識も野草からの生成技術も長年の軍医経験があり、問題なく実行できる。
──眠れずに衰弱していたウルスラのためだった。次はいつ会えるのかわからない。それでも彼女の助けになるものを備えておきたかった。
薬剤を生成しても臨床試験が必要になる。それは野戦病院にいる兵士で済ませられるが、早い方がいい。
フレデリクはルーカスに言い聞かせた。
「区別がつかなければ、適当な花をいくつか摘んでもらえればかまいません」
「俺が、言いなりになるのが当然みたいに言うんだな」
「違うのですか?」
「……っ」
フレデリクが再び訊ねるとルーカスはその目を凝視し、すぐに逸らした。
「夜のあなたは自由です。南の湿地帯はあなたにとって安全圏でもある。ことのついでに寄り道をしてもらえれば嬉しいのですが」
──この男は何を怯えているのだろうか。
本当の素性を知った上で、動かせる四肢を重傷だと欺く手助けをしてやり、先日まではそれをいいことに共犯者じみた不遜な態度を取ってきたというのに。
今、ルーカスがフレデリクを見る目には恐怖すら浮かんでいる。そう強張っては満足な動きが見込めなくなってしまう。やっと自分のなすべき事が明確になったのだ。この男にはこれからやってもらわねばならないことがある。
「私の望みはあなたの目的にも相通じる。ぜひ協力し合えればと」
フレデリクは、ルーカスの強張りをほぐすように、優しい口調で語り掛けた。
「あなたの手足を頼りにしています」
「……わかった……」
ルーカスはぎこちなくも頷いて見せた。
怯えは払拭するどころか濃厚になってしまったが、フレデリクは満足することにした。
その日の医療作業を終え、収監所に連行される。野戦病院では足首だけの拘束も、移動では手錠が追加される。
牢に入り、鍵をかけられると、鉄格子に後ろ向きに立つ。そこでようやく、手足の拘束を開錠される。
毎日繰り返される動作の一つだ。診察記録書の署名と同じ。
ただ、衛兵と向き合うため振り返ったフレデリクを見た瞬間、
「……!」
衛兵は小さく顔を引き攣らせていた。
幽霊か、魔物か、おぞましいものでも見たかのように。
フレデリクはそれを無言で見つめる。捕虜の側から許可なく話しかけることは許されない。
息を呑んだ気配を掻き消すように、衛兵の方から口を開く。
「妙な真似をすれば、病院内であろうと処分するからな」
「何かあったのですか」
幼稚な威嚇を静かな声でいなすと、衛兵は顔を歪めた。
「捕虜には知る権利はない……貴様は黙って運び込まれる兵士どもを診ていろヤブ医者が!」
「……」
理不尽な罵声を無言で受け止めていると。
「その目──」
衛兵の険しい表情の奥には怯懦があった。
──ああ、とフレデリクは納得する。今日やけにルーカスが怯えていた原因は自分だったのかと。
どうやら自分はよほど殺気じみていたようだ。
無理もない。彼女のため、目の前に居る者も含め鏖にしようと動き出したばかりなのだから。
決意を抑え、取り澄ました態度を装っていたが──これは失態だ。
フレデリクはゆっくりと瞼を開閉した。殺気を、感情を裡に押し込める。
穏やかで、従順な、羊のような気配を瞬時に装う。宮廷医師の頃を思い出しながら。
次に瞼を上げたフレデリクからは、殺気は影も形も消え失せていた。
衛兵は険しい顔のままだったが、牢の暗がりに幻でも見ていたかのように徐々に気を取り直した。
「明朝も同じ時刻だ。負傷兵の処置に当たれ」
「仰せのままに」
フレデリクは一礼する。衛兵は踵を返しさっさと廊下を立ち去った。
遠ざかる軍靴の音と閉ざされる扉の音が、ほどなく消える。
フレデリクは薄暗い牢でひっそりと目を細めた。
──己の気配には細心の注意を徹底するとして。
やはり行動が野戦病院に制限されることは厄介だ。戦場の状況を把握するのには不充分だし得られる情報も遅くなる。
駒はもちろん、周りにいる者は上手く使う必要もあるだろう。
騎士幹部から兵士に至るまで、薬物を広めたときのように。




