第四章 ただならぬ思いにふれたとき⑦
大規模作戦の中止による敗走を受け、野戦病院は連日殺伐としていた。
医師たちは貴族、平民、そして捕虜を問わず手の空いている者から次々割り振られて血塗れの兵士たちの治療に当たる。
「これは──駄目かもしれん」
担架で担ぎ込まれたひとりの兵士に、衛生兵がぼそりと口にした。
フレデリクの前に搬送されてきたのは身体のあちこちに銃弾が貫通した兵士だった。顔面も真っ赤で、よく見ると右耳が被弾で半分削り取られている。
フレデリクは素早く兵士の負傷状態を検めた。
「銃弾は貫通しています。止血を進めるので至急輸血準備を」
は、と衛生兵が怪訝な目を向ける。
「輸血ったってこの状況でどこから──」
すでに輸血製剤、造血剤の類は取り合いになっている。貴族の医師が貴族出身の騎士のために優先的に使用しているというのもある。この状況下でも刃物を取り扱うのに許可を要する捕虜の医師であるフレデリクの立場では、治療の選択肢はいっそう狭められていた。
「別館で治療中の兵士たちに献血をさせてください」
「! 負傷兵たちから?」
「身動き出来る方も少なくありません。多少の貧血は免れませんが、なるべく多くの方から少しずつ採血させてもらえれば負担も分散できます」
フレデリクは負傷兵が首に下げていた認識票を衛生兵に手渡した。血でよごれた銀の札。そこには今も息絶え絶えの兵士の名前と血液型情報とが刻印されている。
〈Lucas Watson B POS〉
「──急いでください。まだ助けられます」
静かな声に、衛生兵は反射的にドッグタグを受け取っていた。捕虜の指図に従う形になる。ましてや別館の負傷兵が多少余裕はあるとはいえど、輸血の要員にするなんて緊急処置──
問い質すべきことは多かったが、フレデリクは構わず止血の治療を始めていた。真剣な眼差しはそこにいる負傷兵の命を助けるためだけに注がれている。
衛生兵は急き立てられるようにその場を駆け去った。
──フレデリクは出血が深刻な箇所から処置を始めていく。同時並行で破れかけた臓器の縫合、腕や足、各所で剥き出しになっている神経の接合も素早く進行させる。
まずは輸血すべき器を安定させなければ。どこかが綻びていたら血を補っても無意味になってしまう。失血によるショック症状は出ていない。間に合う──
「────……」
喉は無事だった負傷兵から、掠れた声が発せられた。
右耳に止血ガーゼを当てていたフレデリクが耳を寄せると。
「……プランは三とおり……」
記憶した音を丸暗記したような、抑揚のない声が流れ出てきた。
「南西十七地区ポイント・キルギを軸に両翼を展開。東経108・41、南緯643・22開始プランをアルファとする────」
その後も座標情報と思しき数字と、位置座標ではない数字の羅列。ほどなくすると、録音のようにその情報は彼の口から再び繰り返される。
──この兵士は通信兵か。戦場で入手した情報か。
さらに二桁の数字の並びを聞いた瞬間フレデリクが考えたのは、この情報がドルムトレク軍のものでは、ということだった。ドルムトレクは常に現地のあらゆる状況を想定して幾通りのプランを立てる。プランの都度、攻防のバランスを変えるべく兵士の数を巧みに入れ替えるのだ。
故国での宮廷医師時代、さらに軍医であった頃、貴族や上級軍人たちがボードゲームのように兵士たちを数字に換えて扱っていたことを思い出す。
──この兵士は敵国であるドルムトレクの情報を入手したのでは。忘れぬよう、それを必死に記憶している。
苦悶に歪んだ表情が朦朧としている。かっと見開かれた目は焦点が合わず危うい。
「あなたは助かりますよ」
励ますようにフレデリクが声をかけると。
「ああそうだ、そう俺はこんなところでくたばれないんだ──必ずかえる、なしとげる、たとえ──
〝たとえ手足がなくなろうと〟
この身は──のために────」
意識が途切れ、負傷兵の身体からがくりと力が抜ける。
「…………」
フレデリクは無言でその頸動脈に触れる。脈はある。まだ死なない。
デュミナスの通信兵──この男は、まさか──
「輸血用の兵士を連れてきた!」
そこに衛生兵が別館から負傷兵を数人連れ立てて現れる。
「──すぐに血液のご提供をお願いします」
フレデリクは止血を終えたばかりの衛生兵のために、輸血チューブを手にした。
負傷した通信兵の名前──ルーカス・ワトソンの名前を記憶に刻みながら。
フレデリクは彼を死の淵から救い出した。
その後、フレデリクが耳にした通信兵の情報がドルムトレクの作戦内容であったことが判明し、デュミナス騎士軍は色めき立った。
瀕死で記憶障害に陥った通信兵に代わり、フレデリクは耳にした情報をそのまま伝えた。
臨時総統であるセルデン侯爵騎士はその真偽を多少は疑いつつも、結局は領地奪還の作戦のために採用した。
ゴドウィン亡き今、一刻も早く戦況を挽回したい。しかし臨時総統として失敗はできない。ましてや戦死なんてなおのこと避けたい。
そこで作戦部隊の指揮を任命されたのはウルスラだった。
相も変わらず、彼女はいつ死んでもおかしくない危険な作戦にばかり駆り出されているのか。
嘆かわしい怒りを覚えつつも作戦のための情報聴取に彼女が収監所に現れると、フレデリクは予期せぬ再会に安堵をしていた。
──大規模作戦から帰還して以来だ。ひどくなる戦況下で生きていて、よかった。
野戦病院で騎士団長ひとりの安否を窺うことなど到底かなわない。
いつ彼女が瀕死で運び込まれてもおかしくない。あるいは、戦地で果てるのかも。
再会はもとより、ウルスラが生きていることに深い喜びを感じる。
ウルスラはこの無謀とも言える作戦を成功させるべくフレデリクを訪ねていた。
自棄でも捨て身でもなく作戦に臨もうのしている彼女に、フレデリクは耳にした通信兵による情報のうち二桁の数字が兵士の数であることを伝えた。状況に即応するための兵士の振り分け。相手の出方を予め把握していれば、不利な状況を打開しうるのではと。
自分の助言に活路を見出したようにウルスラは「確実な戦果に繋げられる」と声に力を籠める。
フレデリクは思わず口を開いていた。
「確かに戦果は必要でしょう。ですが──どうかなにより生き延びてください。
勝利したところであなたが失われては、何の意味もない」
フレデリクが何よりも思うのはウルスラの命だった。
こんな戦争に、あなたのような人が命を懸ける価値なんてない──そう伝えられたら。理解してもらえたらどんなにいいだろう。
だがやはり現実は変わらない。
ウルスラは戦争のある世界で、戦場で生きていかなければいけない存在で。
自分は戦場に介入することは叶わぬ捕虜に過ぎない。
どんなに大勢の負傷兵を治療したところで、彼女の命には関われない。
──どんなことでもすると誓ったのに。
重苦しくならないようにと言葉を交わしているうちに、切ないものが込み上がってきた。
ふと視線が重なると、ウルスラはじわりと頬を紅潮させ取り繕うように居住まいを正した。
「……っ、あらためて、貴重な情報に感謝する」
久しぶりに、挨拶として手を差し出す。
フレデリクは幸福を感じて微笑んだ。握り合う手が温かい。自分が望むのは、本当にこれだけでいい──
「──どうかご武運を」
神か、運命か、なんでもいい。彼女の命を救い得るものに祈り、念じるようにフレデリクはウルスラの手に傅いて口づけした。
朗報がもたらされた。
領土奪還作戦は、ウルスラが率いる部隊により勝利したと。
部隊の兵士の犠牲はわずか。騎士団長により見事な作戦成功を果たしていた。
奇跡的な戦勝の直後、ウルスラはフレデリクに「もう会うことはない」と告げるために現れた。
ぎこちなく繋げられた言葉だった。
作戦ではフレデリクの情報が役に立ったことと、今後も軍医として務めてもらうということ──それらと併せて、ウルスラははっきりと告げる。
「もうこれ以上、あなたを利用することはない」
ここには、最後の挨拶のために来たのだと。
決意すらこめられた言葉に、フレデリクは色々なことを思う。
捕虜である自分が戦場の作戦に関わったことが、ウルスラの立場を危ういものにしたのか。
そうではないとしたら──そうか。
フレデリクは彼女がひた隠す感情について、ある可能性を思う。
今までのように優しく接していても、彼女はどこかで自分のことを恐れているのではないだろうか。
人を殺したことを「後悔はない」と言い切った自分のことを。
本心では忌み嫌っているのでは。
納得はできた。まともな心の持ち主なら、自分のような人でなしを恐れ、避けるのは当然の反応だと。
遠ざかる足音を耳にしながら、フレデリクはもう会えない彼女がせめてこの先も生きているようにと祈っていた。




