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秘めたきずあと背中に沈む  作者: 熊谷茂太


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第四章 ただならぬ思いにふれたとき⑤

「これは、味方に付けられた傷だったのですね」


 その夜の収監所。フレデリクの牢で背中の傷の抜糸を終えた直後のウルスラは、問いかけに動揺しつつも、最後には観念したように(うなず)いた。

 嘘をつくことができない性分なのだろう。だからずっと、言葉少なに、黙っていた──


 フレデリクの推測はほとんどが的中していた。


 ゴドウィンが兵の増援欲しさに騎士団長であるウルスラを亡き者にしようとしたこと。

 ウルスラは自身の立場と軍の士気を考え、傷のことを誰にも言えなかったこと。

 騎士団長であろうと、彼女は使い捨て程度にしか扱われないのだと。

 ひとり秘めていた真相のすべてをフレデリクに見破られ、ウルスラはふっと力が抜けたように笑って見せた。


「──わたしなりに簡単にはくたばるかと、鍛えて戦ってきたんだ」


 もう隠すものなんて何もないと彼女がやっと吐露したのは、今日までウルスラが戦い続けてきた現実だった。

 戦場で幾度も瀕死の危機に(さら)されてきただけではない。どんなに戦果を上げて階級を獲得しても味方であるはずの存在は彼女を否定し、軽んじ、ついには殺そうとまでした。


 フレデリクは茫然とその横顔を見つめることしかできなかった。

 心が荒んでも余りある境遇で、ウルスラは清く真っ直ぐなままだ。

 こんなにも強く優しい人がいるのかと、信じられないほどに。

 彼女が助けられる命を諦めなかったから軍医を捕虜にして、自分は生かされた。

 それからも、ただの捕虜でなくひとりの人として向かい合ってくれた。

 それなのに──


「明日の作戦は、先陣が全滅することが前提だから──今度こそ駄目かもしれない」


 ウルスラはぞっとするほど落ち着いた声で、ぽつりと言った。

 彼女は冷静に、明日の作戦で自分にもたらされる顛末(てんまつ)を理解していた。自分の死に対する感情はとうに薄れた穏やかな声音が、


「だけど最後にいい手柄ができた」


 不意に、柔らかくなる。


「あなたを捕虜として生かした判断は、我ながら悪くなかった──と──」


 その言葉を聞いた瞬間、フレデリクの目から涙が落ちていた。

 感情が迸るよりも先に。言葉にするよりも前に。それは涙に変わった。

 千切れるほど乱れ、荒れ狂う感情に代わって。


「私はあなたを失いたくないです」


 フレデリクは魂を吐き出すようにそう言っていた。

 ──本当は、ウルスラがひた隠していたすべてを明らかにした上で、彼女に戦場から逃げることを促すつもりだった。

 味方であろうとこんな非道な者たちのために、あなたが命を(なげう)つ必要なんてないと。


 ──私は何も解っていなかった。


 ウルスラにとっては戦争のある世界が現実で、戦場は逃げようのないものなのだ。戦っていくしかない。

 自分が彼女に逃げて欲しいとどんなに願い求めたところで、それはウルスラのこれまでを一番残酷な方法で否定することになってしまう。


 だから──失うしかないのか。

 捕虜である自分の立場で、彼女のためにできることは何もない。

 総統をひとり殺したところで、戦場のウルスラを守れない。

 深く重い絶望に打ちのめされているフレデリクの頬を、ウルスラの指が辿(たど)った。


「……フレデリク、ありがとう」


 涙が拭われる。ここでもまだ人を思いやれるウルスラに、フレデリクは何も言えなかった。

 優しい言葉を、共感をくれる彼女に、自分は何もできない。

 泣き叫びたくなる衝動と、(ちり)と化して崩れそうな無力感のなかでウルスラを見つめていると。


 遠慮がちに、一言ことわりを入れてウルスラがフレデリクの胸元に飛び込んで来た。

 背中の傷の抜糸のために上衣を脱いで肌を露わにした(からだ)が、触れる。


 戦場を生き抜いてきたことが信じられないくらい、ウルスラは小さかった。

 彼女の体温がじわりと滲んでくる。懐にあるものを、見えない温もりも含めて零したくなくて、フレデリクは反射的に両腕で包むようにウルスラを抱きしめていた。


 ほっとしたように、ウルスラの軀が緩む。

 顔を上げ、見つめるその目は潤んでいた。揺れる煌めきが、息を呑むほど美しい。


「フレデリク、わたしは……」


 彼女は(おく)していた。自分の意志を口にすることを。人へ気持ちを伝えることを。

 誰にも言えない傷を抱えながら生きてきたから。


 ──微かな迷いがフレデリクに(よぎ)った。

 死を覚悟したウルスラが、心の(なぐさ)みに自分を求めるのならすべてを捧げたい。

 だが、そこに付随して自分の望みを彼女にぶつけてしまいそうだった。ウルスラを自分の欲望で汚したくない──

 総統を殺すと決めたときには決して生じなかった躊躇(ちゅうちょ)を覚える。


 だが自分の腕の中にいるウルスラを見つめているうち。

 気づくとフレデリクはウルスラの唇に自分のものを重ねていた。


 何かを言いかけ、しかし止めようとしていたウルスラの唇がぴくりとする。そこにまだ残る言葉を含んで呑み込むように、フレデリクはウルスラの唇を優しく食む。

 重なっている胸元の、心臓付近がかっと熱くなる。抱きしめているウルスラの軀が柔らかくなり力が抜けていく。


 ──キスから離れた彼女の口から甘く溶けた声が零れて、フレデリクの思考を加熱させた。


 強く抱きしめながらウルスラの白く細い首筋をつぅ、と舌で這う。そこにある血管を撫でるように。

 びく、とウルスラは軀を震わせた。素肌から直接伝わる反応に、フレデリクは燃えるような情動を加速させる。もっとウルスラのことが欲しくなる。少し前まで保とうとしていたはずの自制はもはや跡形もない。

 触れられるたびに強張っては熱く緩むウルスラが、喉から零れる甘い(こえ)を抑えようとしていたのでフレデリクはねだるようにそれを求めた。


「私だけに。あなたの声を、もっと」


 するとウルスラからフレデリクの唇にキスをして応えた。

 おずおずと、フレデリクの動きを真似ようとするいじらしさに思考が灼けそうだった。

 深く踏み込んだキスを重ね、ウルスラの(からだ)を、(こえ)を、溶かしながら自らも服を脱いでいく。

 ──素肌どうしが触れ合った瞬間。

 重なった熱に(くら)むような震えが起こる。

 淡いままはっきりとさせなかった感情をようやく自覚して、拍動が乱れる。

 自分はこんなにも、ウルスラを求めていたのかと。

 欲望のまま壊したくはないと、フレデリクはウルスラの背中に回した手で傷の縁をなぞるように触れた。ウルスラはびくりと痙攣(けいれん)し、熱く(かす)れた声音でフレデリクに囁いた。


「いたくない、から……」


 (とろ)けるような吐息とともに。


「さわって」


 ささやかな求めが耳に流れ落ちる。フレデリクは満たされた心地で微笑んだ。


「仰せのままに」


 ──ウルスラが求めるのなら、何でもする。

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